第258話 誓いを果たす
ながく続いた大雨があがり、大気をただよう塵芥の洗い流された夜空が澄みわたる。
「間違いなく、ここが勝負どころになります」
と、アイカは深淵にまで届くような眼差しで、満天の星空を見上げた。
並んで眺めるアイラに、いつものごとくおつかいを頼む。
「バシリオスさんに一報と、……ザノクリフの
「草原に、山々。またまた大旅行だな」
ニヤリと笑うアイラ。
それに険しい表情でうなずくアイカ。
「西方会盟の潰滅――、この機を逃すリティア
「わかった。すぐに発とう」
ただ、アイカから護衛に付けられたのはジョルジュではなく、ピュリサスであった。
「えっ……? ピュリサスと……ふたり旅……? って……、え? え? なんで?」
「なんででもです。殿下命令です」
「ん、ん――っ!?」
と、ほほを真っ赤に染めながら、旅立つアイラ。
アイカとカリュが、生温かい視線で見送った。
「ふたり、うまくいくといいですね」
「つぎはカリュさんですね」
「いま、それを仰います?」
*
西南伯軍の猛攻で、主君を失ったペノリクウスはたやすく陥ちた。
公宮に入ったロマナは、ファイナ妹内親王とヴィアナ騎士団万騎兵長スピロに、出頭を求めた。
謁見の間の御座にアイカとふたり並んで座り、ファイナとスピロの到着を待つ――。
祖母ウラニアと大叔母ソフィアは、すでにヴールに帰らせた。
「ペノリクウスを陥とし、お祖父さまの無念を、ほんの少し晴らしてさしあげられました。……この上は、お祖父さまにはヴールでお休みいただきたく存じます」
と、祖母にいたわりの笑みを向けるロマナに、
ウラニアが戸惑いの表情を浮かべた。
「だけど……、ベスニク様を王都までお連れしてあげたいわ」
「王都に向けたお祖父さまの想いは、この
「……そうね、そうかもしれないわね」
「それに、セリムを蚊帳の外に置いてしまいました。立派に留守居を務めてくれている弟にも、お祖父さまを悼む時間をつくってやりたいのです」
ソフィアが、そっと姉ウラニアの肩に手を添えた。
「ロマナちゃんの側には、わたしが付いてるから……」
「いえ。ソフィア大叔母様は、お祖母さまの側に……」
「ええっ!? ロマナちゃん……、わたしがいたらイヤなの?」
「……そういう話ではありません。いまこそ、お祖母さまの側に、ソフィア大叔母様が必要なのです」
「でも、……それじゃあロマナちゃんが独りになっちゃう」
「わたしは、独りではありません」
ロマナの浮かべた、なにもかもが満ち足りたような微笑みに、
ソフィアもウラニアも目を見張った。
ふたりが、はじめて目にするロマナの表情であった。
「わたしの胸の内に、皆がおります」
「ロマナ……」
「アイカに乗せられ、叫び散らかしたら、いつの間にか皆で移住してきたようです」
と、ロマナは自分の胸に手をあて、はにかんだ。
「すこし、騒々しいほどで困っております」
眉をしかめて照れ笑いするロマナに、
ウラニアの心もほどけ、安堵の微笑みを浮かべた。
「だから、わたしは大丈夫です。きっと、お祖父さまの無念を晴らし、ヴールと西南伯の名を《聖山の大地》に轟かせてみせましょう」
頼もしく胸を張った孫娘に、ふかく頭をさげたウラニアは、
異腹の妹ソフィアに寄り添われ、ベスニクの棺を連れて、ヴールへと帰った――。
やがて、謁見の間に姿をみせたファイナとスピロ。
ロマナとアイカのまえで、膝を突いた。
――王都脱出以来……、あの時は踊り巫女の衣装がステキでした。
と、ファイナとの再会を懐かしむアイカであったが、
ロマナは冷厳な表情を崩さなかった。
「おふたりは、わが幕下に加わられよ」
「……せっかくのお誘いではございますが」
と、優雅な所作で拒絶の意思を表すファイナ。
公女ロマナは、ベスニクから〈西南伯の
が、王の裁可を受けたわけではなく、今の時点では私称に過ぎない。
また第2王女ウラニアの血統を継ぐとはいえ、
所詮、ロマナは列侯の娘である。
内親王たる自分とは格が違う。従う云われはない。ましてルカスが正気を取り戻せば、王女位にあるべき身分でもある。
幕下に入れとは、屈服せよと言われたのに等しい。
桃色髪の少女はリティアが
テノリア王家の正式な沙汰を経ていないままだ。
王家がまともに機能してない所為だが、
リティアが個人的に結んだ私縁であり、自分にまで及ぶものではない。
そもそも、内親王たる自分を呼び出すのがおかしく、そちらが出向いてしかるべき――、
ファイナの儚く美しい微笑みには、ハッキリとそう書いてある。
だが、ロマナは恬淡と続ける。
「まもなく、バシリオス殿下が復権なされる」
「なっ!!」
と、狼狽した声をあげたのはスピロである。
それを、
「それは、一体いかなることでしょうか?」
「いまは詳らかにはできぬ。が、復権の暁には、ルカス殿に与えた即位へのご賛同を、お取り下げになられよう」
ふふっ、とファイナは困ったように笑う。
「お戯れを。王家にある者が前言を翻すなど……、テノリア王家から去るも同然の……」
と――、
ファイナは、憐憫に満ちたロマナの眼差しに気がついた。
そして、その意味に思いが至り、愕然とする。
「そういうことなのですね……」
「……ルカス殿の即位は、唯ひとりバシリオス殿下のご賛同を得ればこそ。お取り下げとなれば、ルカス殿の正統性は完全に失われる」
「そのような理不尽……」
リーヤボルクから王都を守ると覚悟を固めてはいても、父ルカスを全くに諦められる訳ではない。
ここに、ペトラとファイナ、内親王姉妹が胸に抱える、ふかい苦悩がある。
ロマナはスピロに視線を向けた。
スピロは困惑し視線をせわしなく床に這わせている。
「スピロ殿。……スパラ平原にてバシリオス殿下に叛いたそなたは《聖山の大地》のいずこにも居場所をなくす」
スピロは硬い表情でうなずき、ファイナは顔を青ざめさせる。
バシリオスが復権すれば、それがどんな形であろうとも、結局はロマナの言う通りの事態になるであろう。
ファイナは膝を突いたままよろめき、スピロにもたれかかった。
ロマナは声の抑揚をおさえて、話をつづける。
「さすればスピロ殿の妃たるファイナ殿下も、ご同様のお立場に置かれよう」
「なにとぞ! なにとぞ、ファイナ殿下にだけは、わが過去の類が及ばぬよう!」
と、平伏するスピロ。
ロマナは冷えた、しかし憐れみに満ちた眼差しをふたりに向ける。
「ゆえに、わが翼の下に庇護しようというのだ。たとえ何人たりとも、わが懐に手出しは許さぬ」
「……ロマナさんは、悪いようにされるおつもりはありませんから……」
と、眉を寄せたアイカも言葉を添えた。
ファイナが声を震わせる。
「な、なにゆえ……、我らにそのような情けをかけられるのか……?」
ファイナは、これまで西南伯家と親しく接した覚えはない。
――公女ロマナ様には、なんの得にもならないお申し出……。
裏になにか
ロマナは眉をしかめ、天を仰ぎ見た。
「われらは、王都でなにが起きてきたのか、つぶさに承知している訳ではない」
ファイナは青白く、より儚げになった美しい顔でロマナをジッと見詰めている。
その肩にはスピロの武骨な手がかかり、いまにも倒れそうな華奢な身体を支えている。
「……しかし、断片的に得られる情報をかき集めただけでも……、ペトラ殿下の誇り高きお振る舞いに、想いを致さぬ日はなかった」
「ロマナさま……」
天を仰いだまま目を閉じたロマナの顔には、悲痛な色が塗り重ねられてゆく。
「……うわべを見れば、テノリアを売ったと
ファイナの頬にはみるみる赤みが戻り、
ロマナの紡ぐ一言一句が胸に染みてゆく。
「ペトラ殿下がおらねば、すでに王都ヴィアナは死に絶えておっても、おかしくはない。それは、テノリア王国の死滅、《聖山の民》の終焉――」
ペトラを敬仰し苦悶の表情を浮かべてくれるロマナの姿が、
ファイナの瞳には次第に涙で霞む。
――遠く離れた地にも、我ら姉妹の戦いを知ってくれる者がいた。
それも、リーヤボルクが虜囚の辱めを与えた西南伯の公女である。
摂政サミュエルの正妃となったペトラを怨んでいても、なんの不思議もない公女が、
その真情に思いをいたし眉を曇らせてくれる。
それだけでファイナは、姉の労苦が報われる想いがした――。
「ペトラ殿下にこれ以上に、悲しい想いをさせるのは忍びないのだ。……スピロ殿が去ればファイナ殿下が悲しまれ、ファイナ殿下が悲しめば、ペトラ殿下が悲しまれる。……そうはしたくないのです」
まっすぐにファイナを見つめるロマナの瞳。
ファイナも瞳にひかりを取り戻し、スックと立ち上がった。
そして、恭しく頭をさげた。
「承知いたしました。西南伯公女ロマナ様……、いえ、西南伯ロマナ様のふかいご温情に触れ、みずからの浅はかな考えを恥いるばかりです。どうぞ、スピロともども幕下にお加えくださいませ」
「ファイナ殿下のご英断に、敬意を表します。……スピロ殿も、それでよろしいな?」
「ははっ。……これぞペトラ殿下より賜りました〈時〉にございましょう。どうぞ、ロマナ様が帷幕の末席にお加えくださいませ」
スピロは紅潮させた顔に謹厳な表情を浮かべ、額を床にこすりつけて平伏した。
こうして――、
ファイナ、スピロ、そしてヴィアナ騎士団の兵4000が、
ロマナの幕下に収まった。
ファイナとスピロ。
この数奇な運命を辿った夫婦は、ついに心休まる翼の下に身を置くことができ、
ロマナに深く感謝し、寄り添いあいながらに退出した。
しかし、ロマナとしては、
ペトラに寄せる敬愛の念、ファイナへの憐憫の情と同時に、
冥府に旅立つ祖父ベスニクの遺体のまえで、
まとめて面倒みてやらぁ――っ!!
と、叫んだ誓いを果たしただけだ。
ふんっと、軽く鼻を鳴らし、涼しい顔をしてアイカの肩を抱き、
謁見の間をあとにした。
ただ、その背中は誇らしげに揺れていた――。
*
謁見の間を退出して離宮にもどるスピロ。その回廊に、見覚えのある姿。
思わず立ち止まり、凝視する。
それは、かつての部下カリトンだった。
王太子バシリオスに叛いた自分を見限り、戦線から離脱した千騎兵長のひとり――。
しかし、ふたりは無言で会釈を交わしただけで、その場をあとにした。
――おなじ行軍をともにする。
そのための苦い儀式は、それだけで充分であった。
*
ヴィアナ騎士団、さらにはペノリクウスの残兵も西南伯軍に吸収したロマナ。
フィエラをはじめとした、西方会盟参加列侯領すべてを陥落させるため、ペノリクウスから北に、怒涛の進軍を再開する。
一領残らず屈服させ、祖父ベスニクの無念を晴らす供物とするために――。
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