第256話 われは蹂躙姫なり

 天地が憤っているかのごとき激しい豪雨のなか、


 ウラニアが騎馬に鞭をいれる。


 歳に似合わぬ幼い顔立ちには、険しい表情が刻まれ、


 しかし、おおきな雨粒にも瞳を閉じることなく、まっすぐに前を見据えて馬を駆けさせる。



 ――ベスニク危篤。



 その報せを受けるや、孫セリムにヴールを任せて、


 ウラニアは単騎、駆け出した。


 その後を異腹の妹ソフィア、


 それに、ロマナの近衛兵アーロンとリアンドラが追う――。



   *



 ロマナから、



「お祖母さまへの急使を頼む……」



 と告げられたアーロンとリアンドラは、少なからず戸惑った。



「しかし、ウラニア様ご着陣となれば、事態を隠し通すことは難しく……」


「かまわぬ……」


「……ヴ、ヴール軍はともかく、幕下六〇列候にベスニク様の状態を知られては、動揺が……」



 憔悴した表情のロマナ。


 鎧を脱ぎ、着替えたアッシュグリーンのドレスには雨のしみがポツリポツリと目立つ。


 みずからの手元に戻った側近ふたりに淡々と命じる。



「……ようやく会うことの出来た伴侶が、今度は……、永遠とわの旅に出ようとしているのだ」


「ロマナ様……」


「お祖父さまも会いたかろう……。あとのことは任せよ。いそぎ報せてくれ」


「……かしこまりました」


「お祖母さまは、可愛らしいお顔立ちをされているが、ああ見えて〈聖山戦争世代〉だ……」


「はっ」


「報せを聞けば、護衛がととのうのも待たず、単騎駆けをしかねん。……全速の移動が往復になって申し訳ないが、ふたりでこちらまでお送りしてくれ」



 真っ赤に腫らした瞳に、柔和な笑みを浮かべたロマナ。


 アーロンとリアンドラは、ふかく頭をさげ雨のなかヴールへと駆けた。




 果たして、優れた馬術で単騎とび出したウラニアを追い、


 さらには姉を追うソフィアをも追って、


 降りしきる雨の中、アーロンとリアンドラもふたたびセパラトゥア高原の陣へと、とって返す――。




  *

 


 アイカがずぶ濡れで到着したのは、


 まさにベスニクが臨終を迎えようとしている、その時であった。


 到着するや旧知のアーロンに状況を知らされ、身支度を改める間もなく、ベスニクの天幕に通された。


 奥に設えられた寝台に横たえられたベスニク。


 片手をウラニアに、もう片方の手をロマナに握られ、かろうじて意識はつないでいたが、呼吸はほそい。


 ロマナが悲愴な笑顔を、アイカに向けた。



「……アイカ。来てくれたのか……」


「……はい。……リティア義姉ねえ様の命により」


「ふふっ。リティア……、相変わらず勘のいいヤツだ」


「はい……」


「さあ、お祖父さまに顔を見せてやってくれ……。惨めな牢獄ではなく、幕下六〇列侯も従えた勇壮なる戦陣にて、お祖父さまがこの時を迎えられるは、すべてアイカのおかげぞ……」


「そんなこと……」



 と、枕元に寄ったアイカを認めたベスニクは、ぎこちなく顔を向け――、



「お、おお……、アイカ殿下……」


「ベ、ベスニクさん! お気を確かに!!」


「桃色髪をした《無頼姫の狼少女》よ……」


「は、はいっ!」


「西南伯家を……ロマナを……お頼み……いたします……」



 そして、静かに目を閉じると、


 ウラニアとロマナが握るベスニクの手から、ゆっくりと力が抜けていった――。



 みずからの留守をねらった、ペノリクウス候の狡猾な侵攻に対する、



 ――憤死。



 で、あった。



 ウラニアは柔らかい微笑みを浮かべ、ベスニクのほほを撫でた。



「ほんとうね……、ロマナの言う通り……」



 ベスニクの手を置き、魂が抜けたように立ちあがったロマナは、


 ウラニアに、なにも応えられない。


 だが、ウラニアもロマナに反応は求めず、静かに休む夫のほほを撫でつづけ、誰に問うでもない言葉を発する。



「……どうして、……生きている間に、もっと……撫でてあげられなかったのでしょう? ……優しい微笑みを返してくださるうちに、……もっと、撫でればよかった……」



 ゆっくりとベスニクの胸に顔を埋めたウラニアは、



 うっ、うっ――……



 と、嗚咽を漏らしはじめた。


 そのちいさな背中に、ソフィアが手をあて、ほほも乗せ、一緒に目を閉じる。



 呆然と立ち尽くすロマナ。



 ベスニクの手を握っていた掌には、まだ温もりが残っている。


 もう片方の手には、ベスニクから託された〈西南伯のえつ〉……。



「セリムはまだ幼い……。ロマナがえつを執ってくれ……」



 と、呼吸するのも苦しそうなベスニクから告げられたのは、つい先程のこと。



「わかりました! お任せくださいませ! 〈大権のえつ〉はヴールの空に燦然と輝きつづけましょう!」



 のどの奥に流れる涙を呑みこみながら、祖父の憂いをなくそうと明るく答えたのも、


 つい先程のこと――。


 しかし、そのベスニクは既にもの言わぬ姿で横たわる。


 ウラニアの嗚咽も、どこか遠くから聞こえてくるかのように感じられる。



「怒ろう……」



 アイカの声が、天幕のなかで静かに響いた。


 なにを言われたのか分からないロマナが、漂白されたような顔を、


 アイカに向けた。



「えっ……?」


「ロマナさん。いま泣いたら、きっと二度と立ち上がれない。怒ろう、怒っていいと思う!」



 握ったままの〈西南伯のえつ〉の重みが、


 急にロマナの手のひらに感じられた。



「怒っていいよ! ロマナさんは、怒っていい!!」



 絶叫するような調子になるアイカ。


 ロマナの背にガシッとしがみつき額を押し当て、なおも叫ぶ。



「だって、ロマナさん、頑張ってるのに!! 頑張って、頑張って……、なのに、こんなのないよ! こんなのって、ひどいよ!! ロマナさん、怒っていいよ!!」



 ズシリと重い〈西南伯のえつ〉。


 それを、ロマナがジワリと持ち上げてゆく。


 まさかりの刃は、鈍く鋭くかがやき、ロマナの美しい顔を映した。


 偉大なる王ファウロスが、偉大なる祖父ベスニクに授けた大権を象徴する、王国にひと振りしか存在しない、


 大権のえつ――。



「……どいつもこいつも」


「うん!」


「……どいつもこいつも好き勝手しやがって」


「うん! うん!」


「お祖父さまも、お祖父さまだ。あれほど止めたのに王都に行って囚われて……」


「うん! うん!」


「やっとアイカに救けてもらって帰ってきたと思ったら、ペノリクウスごときにブチ切れて死ぬって、なんなんだ!?」


「うん! うん! もっと、言ってやれ――っ!」


「お母さまも、お父さまも、お兄さまも、好き放題に生きて、好き放題に死にやがって」


「うん! うん!」


「後始末は全部、わたしに押し付けるとは、どういう了見だ――っ!!」


「そうだ、そうだ――っ!!」


「あったま、きた!!」


「きたきた――っ!!」


「王都のルカスもリーヤボルクも、ペノリクウスもまとめて、が面倒みてやらぁ――っ!!」


「そうだ――っ!!」



 ロマナの背から手をはなしたアイカ。


 必死に笑顔をつくり、滂沱の涙を流しながら、


 天に向かって何度も拳を突き上げている。



「いいぞいいぞ――っ!! よっ! 清楚可憐の蹂躙姫――っ!!」


「ヴール全軍、出陣!!!!」



 その裂帛の叫びは、叩き付けるような激しい雨のなか、天幕を突きぬけヴールの将兵にまで届いた。


 〈西南伯のえつ〉を振り、天幕を出たロマナは、


 雨に打たれるまま、あつまってきたヴールの将兵の前に立つ。



「聖山の民、最強を誇るヴール軍の勇士たちよ!! 偉大なる祖父、西南伯ヴール候ベスニクは冥府へと旅立った――っ!!」



 激しい風雨に加えて、暗い天上からは低く重い雷鳴が鳴り響き始めている。



「〈西南伯のえつ〉は、この蹂躙姫ロマナに託された! ただちに出陣し、まずは祖父を憤死に追いやった憎きペノリクウスを、討つ!!」



 えつを振りかざし、ペノリクウスが侵攻している北西を指したロマナに、



 おおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!



 と、雷雨をかき消し大地を震わせるようなヴール軍の雄叫びが応える。


 雨はロマナのドレスを鮮やかなグリーンに染め上げ、


 その美しい顔をとめどなく流れる。


 ロマナの怜悧な表情は、ヴールの将兵たちから従軍している列侯たちへと、向きを変える。



「とはいえ、これはヴールの戦い。西南伯幕下六〇列候におかれては、お好きに召されよ。たとえ戦陣を離脱されても、怨みはせぬ」


「いや! これは西南伯の戦い。そして、我ら幕下列侯の戦いにございます!!」



 と、雨が打ちつけぬかるんだ大地に膝を突いたのは、エズレア候であった。


 父をロマナに誅殺されたエズレア候。


 しかし、いまロマナを見あげる目には、ペノリクウスの仕打ちに対する激しい怒りがこもっていた。



「西方会盟だかなんだか知りませぬが、ペノリクウスがごときの好きにさせ、おめおめ自領に戻りなどすれば、わが主祭神〈軍神ザイチェミア〉にあわせる顔がありませぬ!!」


「いかにも!!」



 と、列候たちの呼応する声がつづく。



「西南伯幕下の誇り、踏みにじらせるつもりなど毛頭ございません!」


「われらもロマナさまの戦陣にお加えくださいませ!!」



 次々に膝を突く、幕下六〇列候。


 神威を体現したと崇拝するベスニクの魂魄が、わかく美しい公女の身体に宿り、燃え盛っているのだと仰ぎ見た。



 冷えた眼差しのロマナが、えつを地に突き立て、


 その柄に両手をのせる。



「西南伯幕下六〇列侯よ!!」


「は――っ!!」



 こうべを垂れ、一斉に応える列候たち。


 激しく吹き付ける暴風が、緑がかった金色の髪を踊り狂うようにたなびかせ、


 ロマナは屹立する。



「われに大権を認め、われに忠誠を誓うか!?」


「ははっ! 幕下一同、ロマナ様と共に!!」


「ならば従軍を許す! 西南伯幕下の名に恥じぬ、奮闘を期待する!!」


「ありがたき幸せ!!」


「われに続け! われは、蹂躙姫ロマナ!! あたらしき西南伯なり!!」



 稲妻が走りえつを振りかざしたロマナを照らし出し、


 天地を切り裂く雷鳴が轟く。


 そして、タロウとジロウの遠吠えに、



 うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!



 と、幕下六〇列侯とヴール全軍の渾然一体となった叫びが重なり、荒天の空を埋め尽くす。




 暴風雨のなか、西南伯軍はただちに瀑布のような進軍を開始する。


 ロマナのとなりでは、鎧を着こんだウラニア、ソフィア、もちろんガラも馬を走らせる。


 そして、アイカもタロウに乗りジロウを引き連れ、ロマナとともに駆けた――。

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