第255話 ひろがる暗雲
西南伯ヴール候ベスニク、挙兵――。
その報せは《聖山の大地》を駆け巡る。
ヴール軍だけではなく、幕下六〇列候の兵も加わっているとはいえ、
王都にこもるリーヤボルク兵に比べれば数に劣る。
――しかし、強兵で知られるヴール軍。あるいは……。
と、報せを受けた列候たちは固唾を飲む。
もちろん、ラヴナラを攻囲する第3王女リティア、また旧都の第2王子ステファノスの動きも気になる。
また、この時点ではアルナヴィス候がリティアに帰順したことも明らかになっていない。その動向も予断を許さない。
ベスニクの出兵は、王国全土に緊張を走らせた。
しかし、ひとりニヤリと笑った者がいた。
西南伯領の北方で勢力を張る、西方会盟の盟主ペノリクウス候である。
「馬鹿め。ベスニクのやつ、全軍を率いて出陣しただと?」
「はっ。子息セリムを留守居に、わずかな兵は残しておるようですが、ヴールならびに西南伯領は、ほぼもぬけの空と言ってよい状況です」
偵騎の報告に、口の端を醜くゆがめるペノリクウス候。
悠然と椅子から立ち上がり、自身自慢の黒く豊かなあご髭を撫でまわした。
「フィエラ候、ならびに会盟諸列候に出陣の陣触れを出せ。まぬけなベスニクが不在のうちにヴールを陥としてくれるわ」
「ははっ! ……シュリエデュクラ候にはいかがいたしましょうか?」
「ふん。あの臆病者は、なにやらグラついておる様子。報せる必要はない。しかし、隠す必要もあるまい」
黒々とした眉をゆがめ、皮肉めいた笑みをシュリエデュクラが位置する南西へと向けた。
「われらの兵を目にすれば、恐れおののいて参陣して来ようというもの」
「ははっ!」
「ラヴナラのアスミル殿下が、無頼姫ごときに敗れ、ルカス陛下と摂政サミュエル殿下にわれらの価値を高く売り込む絶好のチャンス! われらが西南伯領を押さえれば、天下の趨勢は決する!」
兵舎にむかうペノリクウス候の足取りは軽い。
*
ペノリクウス軍、そして西方会盟軍が出兵してゆく。
それをバルコニーから眺める、冷えた眼差しがあった。
「……なんと醜い出兵でありましょうか」
「
「スピロ殿が、後背を突いてやればよろしいのでは?」
と、唇の端をゆがめたのは、ファイナ妹内親王である。
西方会盟参加列候を王都に参朝させるための〈人質〉としてペノリクウスに赴いた。
そして、姉ペトラの意を汲み、その後も滞在を続けている。
ファイナの夫であり、ヴィアナ騎士団の万騎兵長でもあるスピロが、兵4000を率いて護衛の任にあたっていた。
「気配を消して暮らす我らが突然、後背に現われれば、ペノリクウス候はさぞ肝を冷やすことでしょうが……、ペトラ様の意思に反します」
「……そうですわね」
「ファイナ殿下には、平穏にお暮らしいただき、動乱の鎮まったのちにも、ルカス様の血統をつたえていただく……。それが、ペトラ様の願いにございます」
「分かっています……。しかし、ヴィアナの騎士4000を、ただ私を護るためだけに、この地に張り付けておくのは……、もどかしいばかり」
うつむくファイナの肩に、スピロはそっと手を置いた。
「……いずれ、時が参ります」
「そうでしょうか?」
「きっと、ペトラ様がその時を創られます」
ぬけるような夏の青空を見上げたスピロの視線をたどって、ファイナも顔をあげた。
スピロが遠くの空を指差す。
「通り雨になりそうです。夏の通り雨は激しい。どうぞ、室内にお戻りください」
スピロの脳裏には、土砂降りの雨のなか自分を迎えに来たペトラの強く寂しげな眼差し、
そして、美しい背中がよみがえる。
ペトラから委ねられた、愛しい妹ファイナの命運。
――なにがあっても守り抜く。
くらい雨雲に覆われていく空から目をそむけ、
ふたりは、ペノリクウス離宮の奥へと姿を消した――。
*
セパラトゥワ高原に張った陣で、ベスニクがいきり立つ。
「おのれ、ペノリクウス! なんと狡猾な!」
よろめきながら立ち上がり、全身をワナワナと振るわせた。
猛将ダビドが駆け寄り、ベスニクの身体が倒れぬように手を添える。
かつて、ロマナ率いるヴール軍が、王弟カリストスおよびアルナヴィスの軍と対峙したセパラトゥワ高原。
西南伯領東端に位置する本陣の上には、分厚い雲が広がりはじめ、
あの時と同じく、激しい雨が訪れようとしていた。
怒りに震えるベスニクに代わって、ロマナが指示を飛ばす。
「斥候を飛ばせ! ペノリクウス侯率いる西方会盟軍の位置を再度正確に補足させるのだ!」
「ははっ!」
「急報を飛ばしてくれたシュリエデュクラ候も危ない。陣中にあるチュケシエ候、それにジビチギエ候、フィルネ候にも知らせよ! いそぎ帰領し、敵軍の侵攻を遅らせる陣を張ってもらうのだ!」
端正な顔立ちに険しさを浮かべるロマナ。
そばで、侍女のガラも情報の分析にあたってくれている。
――なんとなれば、わたしだけで行かねばならんか……?
西南伯軍の進軍は、ベスニクの体調を考慮してゆるやかなものだ。
全軍の士気はたかいが、それゆえに勝ちを確信してもおり、ゆったりとした行軍はあたかも王都に凱旋するが如くでもあった。
ペノリクウス侯の急襲に対応するためとはいえ、とって返す兵の進軍スピードを上げることは、
ベスニクの衰えた身体への負担が大きい。
ガラがちいさな声で、しかし鋭い響きをさせてロマナに告げる。
「……西方会盟軍の進軍は速いですね」
「うむ……」
「この進路を見れば、おそらく周辺列候領には目もくれず、まっすぐヴールを目指してくるのではないかと」
「さすが……、とは言いたくないが、ヴールを落とされては、われらの命運は尽きる」
「はい……」
くっと、ロマナが奥歯を噛みしめたときであった。
ドサッ――……、
うしろから、なにかが倒れ込む音。
慌ててふり向いたロマナの視界に映るのは、力なく地に伏すベスニクの姿であった。
「お祖父さま!!」
ダビドの腕からすり抜けるように倒れ落ちたベスニク。
みなが狼狽し駆け寄る。
ロマナがそっと抱き起こすと、まだベスニクに息はある。
しかし、意識はなく、その命が風前の灯火であることは、
誰の目にも容易に察せられた――。
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