第167話 主君の背中

 ルカスの長女ペトラ姉内親王が、リーヤボルクの将に嫁いだとは聞かされていた。


 そして、それをもって将サミュエルが摂政を号したことも耳にしている。だが、ヴィアナ騎士団で唯一王都に残る万騎兵長でありながら、スピロは国の枢機から外されていた。


 ペトラに対しては、



 ――内親王の立場にありながら、他国の王族ならともかく、将ごときに嫁ぐとは。ましてや、先王への服喪中で祝宴も催せぬときに。



 と、軽侮の気持ちさえ抱いていた。


 ある雨の日に、そのペトラが突然、僅かな供の者だけを引き連れて、ヴィアナ騎士団の詰所に現われた。


 急な来訪で、迎え入れる準備もなにもない。


 あわてて応接室に向かおうとしたスピロの執務室に、ペトラは直接足を運んできた。



「これは……ペトラ殿下……、わざわざのお運び……」


「スピロ」



 自分を呼ぶペトラの言には、威厳と気迫が満ち溢れていた。


 スピロは自然と最敬礼の姿勢をとってしまった。



「なにを世を拗ねたような振る舞いを続けているのです」


「いや……」


「過ぎたことは過ぎたこと。一生、背負えばよいだけのこと」


「はっ……」


「王国の形を守るため、女の私でさえこうして戦っておるというのに、そなたは執務室に籠って誰かを恨んで過ごすだけかや? 憎いのは誰ぞ? バシリオス殿下か? 父ルカスか?」


「いや、そのような……」


「私は、いずれ討たれよう」


「……殿下」


「父は、もうだめじゃ……。おそらく、なにか薬でも盛られておる。ヴィアナ候など称したが、笑止千万。とても正気とは思えん。……誰が討ってくれるかのう? ステファノス殿下か、カリストス殿下か、……サヴィアス殿下には到底、無理であろうな。あるいは地下牢で命をつなぐバシリオス殿下か」


「なっ! ……なんと。バシリオス殿下はご健在なのですか?」


「健在……とまでは言えぬが、生きておられる。戦っておられる。殺させるようなことは、私がさせん」



 ペトラは、改めてスピロの顔を見据えた。



「スピロ、私に仕えよ。誰ぞに討ってもらえる日まで、この国の形をどうにか守る、私の戦いに力を貸せ」


「……ははっ。かしこまりました」


「案外……」


「はっ……」



 ペトラは、窓の外で降りしきる雨を見上げた。


 そのまま長く続いたペトラの無言に、スピロが思わず懸念の声をかけた。



「…………殿下?」


「……案外、討ってくれるのは、リティア殿下かもしれんのう。……せっかくお誘いくださったのに……、一緒に砂漠のオアシスに逃げておれば、このような地獄を見ずに済んだものを」



 一瞬、寂しげに微笑んだペトラは、すぐに表情を無機質に改めた。



「スピロ。ただちに王都に残るヴィアナ騎士団をすべて参集させよ。その後、我とともに第3王子宮殿に入れ」



 ペトラの発した摂政正妃令によって、ヴィアナ騎士団5,000名の兵士は、その傘下に収まった。


 儚げにも見えるペトラの背中を眺めつつ、スピロはその後ろに兵を率いて王宮に入る。


 以前からの可憐さ優美さに加えて、妖艶さをも感じさせる美しい背中。それは、摂政を僭称するサミュエルとののために磨き上げられているのであろう。



 ――今度の主君こそ、最後の主君に。



 スピロはその思いを強くしつつ、いまだペトラ姉内親王、ファイナ妹内親王が陣取る第3王子宮殿に入った――。

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