第2話 城郭公園

 これが古代の。

「もし」

 である、

 では、中世においては、一番の謎と言われるのは、いうまでもなく、前述の、織田信長の暗殺である。

「本能寺の変」

 である。

 信長は改革派の先鋒と言ってもいい。

 誰も考え付かないようなことをやってのけるのが、信長だった。

 子供の頃に言われた、

「うつけ」

 それが、味方も騙すことになり、平手政秀の悲劇を生むことになった。

 というのも、

「信長があまりにも、その行動を正し、大人になろうとしないことを憂いて、自害した」

 と言われていることによるものである。

 ただ、これには諸説ある。

「自害したことに変わりはないが、憂いて自殺をしたというのは、美談としてのものであり、他の説は普通に、不仲説、対立説というものであった」

 ということである。

 ただ、信長は、後世の歴史解釈として、

「宗教団体の疑惑」

 であったり、

「自由貿易という、今の民主主義の基礎」

 を楽市楽座で示したり、

 さらに、

「鉄砲が戦でいかに強力な武器になるか?」

 ということを証明したのだった。

 つまり、

「先見の明という意味でおいては、彼ほどの人間はいない」

 ということであろう。

 しかし、明智光秀の謀反で殺されることになるのだが、あまりにも謎が多い気がする。

 信長も、光秀に対し、言われているような嫌がらせのようなことをしていれば、光秀でなくても、謀反を起こすのは当たり前だというものだ。

 むしろ光秀だから、あそこまで我慢できたのかも知れない。もし相手が、福島正紀や、井伊直正のような、血気盛んな武将であれば、一歩間違えれば、面会中に切りつけられるレベルの問題だったに違いない。

 しかし、それくらいのことは信長にも分かっていただろう。それを、無防備な本能寺において討たれたのである。

 確かに、本能寺というところは、寺というよりも、城というような要塞だったと言われているが、兵とすれば、100人ちょっとくらいで、1万に近い兵を動かして、中国地上の秀吉の軍に加わろうというのだから、いくら戦の天才とはいえ、助かる見込みは万に一つもないといってもいいだろう。

 ただ、信長が、光秀の謀反に、そこまで怒り狂ったという話は伝わっていない。

 どちらかというと、

「是非に及ばず」

 とばかりに、仕方ないと思っていたようだ。

 まるで、

「死を覚悟」

 していたかのようではないか?

 信長という男は、海外に目を向けて、貿易によって、金を儲け、武力で天下を統一しようとしていたのだ。

 ひょっとすると、天下を統一すれば、自由な発想で、民主主義のような世の中になっていたかも知れない。

 光秀の3日天下から、秀吉に移ることで、秀吉の天下になったのだが、秀吉というのは、気の毒な面があった。

「自分の大切な人が、特に身内が次々に亡くなっていく」

 ということであった。

 参謀として一番期待していた、弟の秀長。

 彼は、城づくりや縄張りに関しても、才能を発揮していた。その彼が死んでしまったことから、運命が狂い始めた。

 せっかくできた長男の鶴松を亡くし、さらに、一番大切だと思っていた、母親である、大政所を亡くすことになったのだ。

 その頃から秀吉はおかしくなっていった。

 跡取りを養子、甥にあたる秀次にしておいたにも関わらず、自分に息子ができてしまった。

 このパターンは、室町幕府における八代将軍、義政にも言えたのだが、そのせいで何が起こったのかというと、戦国時代の火種となった、

「応仁の乱:

 であった。

 応仁の乱は、11年も、京都で続き、都が焼け野原のようになってしまっていた。そんな大事件のきっかけとなったのと同じことが秀吉の身に起こったことで、親心として、秀吉は、息子に継がせたいと思うようになり、結果最悪の結果をもたらした。

 跡取りであった秀次の素行の悪さと、謀反の企みをでっちあげて、高野山に幽閉し。最後には切腹させてしまった。

 それにより、秀吉は狂ったようになり、そこから先は、政治どころではなかった。

 朝鮮出兵であったり、千利休に切腹を命じるなど、そのやり方は、常軌を逸していたのだ。

 秀吉自体も、病気になり、亡くなることになるが、そこに家康が、

「待ってました」

 とばかりに、豊臣政権の内乱を舞台に、せり出してくることになる、要するに、

「一代しか持たなかった」

 ということだ。

 そういう意味で、信長が天下を握っていればどうなっていたか?

 信長のことを、皆は。

「血も涙もない」

 といっているが、それはあくまでも、贔屓目に見るからではないか。

 延暦寺の焼き討ちにしても、そのやり方が皆殺しというだけのことで、

「戦であれば、皆殺しは当たり前のこと」

 と言えるであろう。

 清盛が頼朝の命を救ったことで、結果、一族が滅ぼされたのを見ていることからも、当たり前のことである。

 秀吉だって、秀次事件において、秀次の家族や、関係者を皆殺しにし、それでは飽き足らず、

「秀次が生きた証」

 と言われるようなものを徹底的に壊している。

 特に、自分が作って秀次に譲った、

「聚楽第」

 も、跡形もなく葬り去ったのもそのためである。

 本来なら自分の息子が関白になった時、住むはずの場所をである。

 家康にしても、豊臣家を滅亡させている。それは、やはり頼朝のことが頭にあったからのことで、少しでも、徳川の天下を脅かすものは、生かしてはおけないということだったのだろう。

 それが、戦国時代から、織豊時代と呼ばれる、安土桃山時代から、江戸幕府初期に繋がる時代だったのだ。

 そういう意味で、信長の暗殺が、大きな転機となったのは事実であろう。

 信長という人物が果たしてどういう人物だったのかというのは諸説あるが、少なくとも、冷静沈着で、言われているような、冷酷無残な人間というわけではないと思うのは、作者だけであろうか?

「当たり前のことを当たり前にする」

 そんな経験が、うつけ時代に育まれているかのように思う。

 彼らのような領主と呼ばれ、さらには、天下人を目指している人間は、えてして、

「きれいごと」

 だけでは済まされない。

 また、意地だけを張って、逃げなければいけない時に、強情に立ち塞がり、殺されてしまっては、身も蓋もないだろう。

 歴史というものが、その人物を必要としているのかどうか分からないが、

「蘇我入鹿にしろ、織田信長にしろ、歴史上、勉強すればするほど、その必要性をひしひしと感じる人が、なぜ殺されなければいけないのか?」

 ということを考えると、

「本当に、歴史は答えを出してくれるのだろうか?」

 と思えてならない。

 昔の人は、

「今の自分たちには分からないが、いずれ歴史が自分たちがやったことを正しいかどうか、答えを出してくれる」

 と言ったとか言わないとかを聞くが、果たしてそうなのだろうか?

 そもそも、

「歴史上の答えって、どこにあるのだろう?」

 ということである。

 時代が先に続いていくということは、いつが、その答えなのか、誰が証明するというのだろう。

 たまたま、時代がその答えを求めているとすれば、その答えを勝手な解釈で求め、自分たちの正当性を主張するための、政治利用にされることだってあるはずだ。

 そうなってしまうと、世の中はうまくいかないだろう。

 たいてい、過去のことを政治利用し始めると、その政権はあまり長く続かないという場合が多い。

 そうなると、今度はまったく違う考えの政府ができあがるわけで、これまで、

「正義」

 と言われていたことが悪の代表となり、政府に握りつぶされていたことが、あたかも新たらしい発見であるかのように示され、それが、

「歴史の出した反対の答えだ」

 といってしまうと、これも、一種の政治利用である。

 つまり、

「歴史の勉強は、一歩間違えれば政治利用にさせかねないことを、させないような目を養うためにすることだ」

 ということになるのだろう。

 政治利用という意味で、豊臣時代から、徳川時代になった時、徳川家が、豊臣家にゆかりの場所を徹底的に破壊したということもあった。

 さらに、明治維新の時、徳川幕府のものも徹底的に壊されたり、特に、廃刀令、廃城令、さらには、廃藩置県、四民平等と、ことごとく武士を迫害する形になったのも、やはり、「天皇中心の中央集権国家だ」

 ということを、諸外国に示し、昔の、幕府の時代ではないことを示す必要があったのだろう。

 そうでもしないと、

「諸外国から舐められて、日本の悲願である不平等条約の解消ということにはならないだろう」

 ということである。

 とにかく、日米修好通商条約という不平等条約を解消しなければ、せっかくの明治維新もなりたたない。

 明治維新の最大の目的は、

「海外からの植民地として侵略を受けないようにするため」

 というのが目的であった。

 すでに何ら力のなくなってしまった幕府では、侵略されればひとたまりもないというのが当然の意見であろう。

 ちょうどそんな時代の先駆けとなった男が、暗殺されたのが、この時代だった。

 まだ新政府ができる前で、新政府の橋渡しともいうべく、

「薩長同盟」

 を結び、

「船中八策」

 であったり、

「亀山社中」

 などという株式会社の元祖を作ったのもこの男だった。

 そう、歴史の、

「もしも」

 の、近代における出来事は、

「坂本龍馬暗殺事件」

 であった。

 首謀者の候補はたくさん出ている。何しろ、当時の京都で、

「一番暗殺事件の起こりやすい人物」

 ということで注目されていた人物だったからだ。

 容疑者としては

「京都見回り組」

 これが、一番有力と言われているが、他には、

「新選組」

「薩摩藩」

「朝廷」

 と、対立している組織がすべて、暗殺者候補に挙がるというだけ、本当に、

「皆から狙われていた」

 といってもいいだろう。

 中岡慎太郎と一緒に暗殺されたのだが、

「坂本龍馬暗殺が、一体どういう利点があるというのか?」

 と、誰もが不思議に思うところであった。

 それだけ、暗殺と欺瞞、さらには欲望という邪悪な空気が幕末の京都を不穏な空気にしていたということであろう。

 坂本龍馬は、そんな京都で暗躍していた。本来なら、夜に出歩くのは、もっての他だったのだろうが、それでも、積極的に出歩いた。ある程度は覚悟はしていたのかも知れない。

 しかし、今の自分たちは歴史を知っているから、坂本龍馬の暗殺を残念に思うのだが、歴史がどこかで変わっていると、竜馬暗殺も、正しいこととして伝えられ、他の暗殺事件と同じ、教科書に1,2行載っているだけなのかも知れない。

 もっとも、今もそうかも知れないが、とにかく歴史というのは、

「何が正しいのか?」

 などと考えること自体が、おこがましことなのかも知れない。

 F県にある城跡公園といえば、県庁所在地のど真ん中に、大きな城がある。その城は、公園として整備されているが、元々は濠が現存する

「江戸時代から存在する城」

 であった。

 かの天下分け目の決戦において、東軍にあって、父親譲りの調略家と言われた男は、その名に恥じず、西軍の武将を東軍に寝返らせた。

 何と言っても、相手が家族を人質に取った時、

「家族が心配なら、わしの元を離れて、向こうについても、恨みには思わん」

 と家康に言わせることで、東軍の団結を深めた武将であった。

 その彼が関ヶ原の論考により、F藩を賜り、そこに築いた城だった。

 今は天守は現存していない。元々、店主はあったようだが、家康の、

「一国一城令」

 によって、他の城の天守が残ることで、こちらは、天守を廃することで、

「謀反の心などない」

 と言わせたのだった。

 何といっても、父親が偉大で、かの秀吉に、天下を統一してからしばらくしてのことであるが、

「今、わしに対して謀反を起こせば一番恐ろしい敵になる」

 と言わせた男だった。

 そんな話をウワサに聞いた彼は、

「謀反の心はない」

 とばかりに、出家して、仕えることにした。

 その父親と同じような感じである。

 城は、結局幕末まで存在し、一度も城主の世襲が変わることなく明治を迎えた。

 そして、明治期の廃城令にも引っかからず、城は存続した。

 そして、大空襲を何とか逃れ、戦後には、公園として整備されたのだ。

 競技場などがたくさん作られ、プロ野球の本拠地として長く親しまれてきたが。遺跡の出土と、親会社の、

「ドーム球場計画」

 が重なったことで、その後、野球場は解体されることになった。

 そして、平成から令和の時代になると、かつてより、城が残った公園と、お濠に隣接した公園を、市と県で、バラバラに運営していたものを、

「セントラルパーク計画」

 ということで、管理を一つにして、文化財などを広く観光客や地元民に紹介するという感情事業を考えていたようだ。

 ただ、本来であれば、

「この機に、店主の復元を」

 と考えるべきなのだろうが、

「歴史的資料に乏しい」

 ということで、議会決定で、

「天守復元は行わない」

 ということになったという。

 しかし、だったら、何も復元天守にしなくても、模擬天守として復元し、観光に一役買うという手もあるのだろうが、それ以上に、本当に財政がひっ迫しているということなのだろうか?

 そんなことを考えてみると、

「復元しないのは、ただ単に金がないからじゃないか?」

 と思えてならない。

 だとすれば、城ファンに対しては、実に浅はかな回答である。

「再建しようと思えば、模擬天守だってできるはずだ」

 ということになる。

 行政に対して、

「舐めるのもいい加減にしろ」

 と言いたいだろう。

 何も、

「絶対に再建しろ」

 と言っているわけではなく、

「金のないのを資料不足のせいにしてごまかそうとする根性が気に入らない」

 ということだ。

「どうせ、特権階級の連中が、甘い汁を吸っているんだろう」

 ということになるのだ。

 しかし、F県か、F市なのか、どちらが管理をしているのかは分からなかったが、結果、

天守の再建は今のところ、白紙状態ということであった。

 もちろん、市民や県民の意見や民意が沸騰してくると、話が変わってくることになるであろう。

 そう思うと、今のまま、様子を見るしかないというのが、当面の考えなのかも知れない。

 元々、そこに転封されて栄転となる前の城主は、別の城にいたのだが、そちらは、あまり話題になることはなかった。

「そんなところに城があったのか?」

 という程度で、地元の人も知らないだろう。

 ただ、歴史ファンは知っているようで、城廻をしている人は、F城とセットで、この城も回っていた。

 今は整備されて、公園になっていた。児童公園よりはもちろん広いが、

「こんなところに、本当に城があったのか?」

 というほど狭いところで、話によれば、

「天守閣もなかった城だ」

 ということであった。

 ただ、そのかわりに立派な本丸御殿が存在したようで、F城の一角に、歴史資料館があるが、そこには、F城と一緒に、こちらのN城のことも載っていた。

 本丸御殿の模型のようなものもあったが、F城を作る時に、こちらの城を廃城にして、その分の資材を、F城に移設したと伝わっている。

 昔、城を新築する時には、支城や、元の本城から、資材を移設するということは当たり前のように行われていた。

 戦国時代の城でも、長浜城を作る時、滅亡した浅井氏の居城、小谷城から移設したり、彦根城も、石田三成の佐和山城や、琵琶湖の京に近いところにあった大津城から移設したということで、少しでも竣工を早めようと努めたのだろう。

 そういう意味で、F城築城の際に、N城からの移設がかなりあったといっても過言ではない。

 幸か不幸か、F城完成後、江戸幕府による、

「一国一城令」

 というものが発布された。

「豊臣氏が滅びて、もう戦の火種はなくなったことで、時代を二度と戦国の時代に戻してはいけない」

 という意味で、徳川家康が定めた、

「元和堰武」

 というのがその表れであった。

「一国一城令」

 もその表れで、

 一つの藩に、二つの城はいらないということである。

 つまりは、城があっても、それは、戦のための城ではなく、領主が領民に対しての威厳であったり、そもそも、住居として使うための、

「屋敷」

 としての機能で、城は、

「一つあればいい」

 というわけである。

 N城も結局は、

「一国一城令」

 によって、なくなる運命であり、F城に移設された時点で、N城の終わりとなるのだった。

 江戸時代から明治にかけて、そこに何があったのかまでは知らないが、今は、マンションが立ち並んだ、F市への通勤のベッドタウンとなっているのだった。

 ただ、城跡には公園が築かれ、端の方に、

「N城址」

 と書かれた石碑があるだけで、遺構などは、ほとんど残っていない。

 逆に、F城の方がたくさん残っているので、

「中には。N城から移設したものもあるだろう」

 ということで、研究や発掘は行われたようだ。

 実際に、F城記念館の仲では、発掘調査で分かったことなども書かれていて、

「在りし日のN城」

 という模型が飾られていた。

 しかし、最近の発掘調査で、異説が唱えられるようになってきた。

 というのは、

「N城には、天守閣が存在した」

 という話であった。

 ただ、どんな天守閣かということまでは分かっていないのだが、どうやら、天守があったとすれば、

「かなり前のもので、天守がまだまだ普及していない、初期段階のことではないだろうか?」

 と言われるようになっていた。

 前述のように、松永久秀の時代に築かれた信貴山城が最初だと言われているところに、荒木村重の有岡城が浮上してきた。そうなると、

「F県の、N城にもあったとされる天守が一番最古のものだったのかも知れない」

 という話になるかも知れない。

 N城に関してのもう一つの発見として、

「天守があったとしても、それは、ごく限られた時期だけのものだったのかも知れない」

 ということだったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る