二人二役
森本 晃次
第1話 城郭の歴史
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年9月時点のものです。凶器の入手に関しては、適当に書いていますが、これは、小説がフィクションであるということで、ご容赦ください。
F県には、城跡がたくさん存在している。小学生の遠足といえば、
「城跡公園」
というのが定番となっているくらいで、公園になっているところは、
「その昔、どこぞのお城だった」
などということをよく言われているようである。
だが、これはいまさら別に驚くことではない。世間でいう、
「お城」
というと、ほとんどの人は、絢爛豪華で、逞しく聳え立っている、
「天守閣」
というものを備えた城をイメージすることだろう。
「白亜の世界遺産」
と呼ばれる連立大天守が聳える姫路城であったり、
「金箔をこれでもかと施した、当時は日本一の城であった」
とされる大坂城などがその代表であろう。
ただ、城というものは、その成立年であったり、戦国時代のような、
「群雄割拠が乱立する」
と言われる時代などでは、必ず、
「要衝」
と呼ばれるところが存在し、そこを破られると、戦の敗北につながるというところが必ずあったものだ。
だから、そこには、城や砦を築いて、守りを固めるというのが、当たり前の時代であった。
特に、城というと、
「戦国時代あたりから後の時代のもの」
という認識があるだろう。
そして思い浮かべる光景とすれば、平安京などのような、
「都のような華やかなところ」
というイメージが強いに違いない。
実際に戦が行われたとしても、局地的なものが、散立するように存在していたイメージで、城のような頑丈なものがなくとも、屋敷や砦のようなもので守れたのだ、
そういう意味で、古代末期から、中世前半にも、城と呼ばれるものは存在した。だから、今残っている城や、城跡として公園になっているところなどは、そのいくつかは、鎌倉時代や南北朝時代などに出来上がったものも多いとされる。
だから、戦後期に入ってから、近代城郭と呼ばれるような作りになる前は、砦を、
「城」
という名で呼んでいたということも多いのだった。
当然、近代城郭と呼ばれるような、何とか丸や、天守などは存在しない。せめて、見張り櫓、攻撃するための台、簡素は濠のようなものはあったであろう。そして、住居としての屋敷も兼ねていることから、平地に作られることが多かった。
それが、次第に戦が増えてくるようになり、山城が現れてきた。
鎌倉末期に建築された楠木正成の千早城や、赤坂城なども、山城である。
石垣はなかったであろうが、急に山の側面を登ってこようとしても、上から石や熱湯を落とすことで、侵入者を防ぐというやり方は、近代城郭にも、
「石落とし」
のようなものがあることで、証明されている。
それを考えると、
「戦国以前の城というのも侮れない」
と言えるのではないだろうか?
だから、砦のような城が、次第に陣地のようになり、守りの要と、住居が一体になったような屋敷が生まれてくると、次第に城というものの形が形成されていくことになるのだった。
そもそも、天守閣などというものは、昔には存在しなかった。戦の際には、
「守りとして、濠があったり、石垣があったり」
と思っているだろう。
しかし、昔はそれを自然の要害に頼っていたところがある。
つまりは、山の上に城を築く。あるいは、川の間に城を築くことで、濠の役目や、石垣の役目をすることになる。だから、最初は、城というと、山城が多かったのだ。
そのうちに、平地の丘のようになったところに城を築いたりしている、
城だけではなく館を築く時には、
「後ろは、絶敵に山が聳えていて、後ろから攻撃されることはない」
というのも、
「自然の要害」
といってもいいだろう。
さらに、城の数は一つではない。要衝にたくさんの城を築く。つまりは、何重にも張り巡らせた城を築くというわけだ。
よく、
「攻城戦」
というのを聞いたことがあるだろう。
城というのは、基本的には、
「守りができなければ城ではない」
ということになる。
「相手が攻めてくれば、城に籠っての籠城戦になる」
というわけである。
普通に考えると、城に籠って攻められているのだから、
「攻め落とされるのは、時間の問題だ」
と考えるであろう。
しかし、実際に攻城戦の場合は、
「守備兵の4倍の兵力を必要とする」
というのだ。
相手は、塀の向こうから、守るために、いろいろなことを仕掛けてくる。
弓や鉄砲を塀に隠れて打ち込んでくるのだ。
もし、攻城側が、大手門を破って、城の中に入ったとすると、そこは広場のようになっていて、多勢で攻め込んできたところを、思ったよりも、狭い場所であったならば、籠城側は、大混乱に陥り、芋の子を洗うように身動きが取れず、弓や鉄砲で討たれ放題である。
そうなると、打つ方は、狙う必要はない。めくら撃ちをしたって、必ず誰かに当たるというものだ。
もし、それを抜けたとして、今度は城の中にたくさんの門があり、そこに続く通路を、そのまま信じていくと、いつの間にか目的である、本丸や天守が遠くの方に見えてくることになるのだ。
それは、相手のトラップであり、
「気が付けば、城の外に出ていた」
という、相手にまるで、
「掌の上で転がされた」
かのような状態になってしまうことであろう。
もし、そうでないとしても、結局また通路をいけば、そこは行き止まりで、弓鉄砲の餌食になってしまうだけであった。
しかも、敵は自分たちの兵をほとんど損なうことはない。降りて行って、戦をするわけではないので、隠れながら相手を攻撃できるだけに、相手の方が、爆発的に被害は大きいのだ。
つまり、
「4倍ともいわれる兵を失う覚悟でやらないと、攻城戦はできない」
ということであろう。
ただ、籠城において一番の問題は、
「補給線の確保」
であった。
城の周りを取り囲まれてしまえば、城内の食料や弾薬だけで、それが尽きれば、自然と滅びるしかない。それが籠城において、
「不利ではないか?」
と思えるものである。
攻略する大将の考え方一つで、戦はどちらに転ぶか分からないということだ。
城というのは、実際に攻めている方が、大体において、苛立っているのは間違いないだろう。
相手は袋のネズミも同然なのだから、それを敢えてするということは、相手も必死だし、それだけ籠城には自信があるということではないだろうか。
城の中には、いろいろなトラップが仕込まれている。一番のパターンは、
「狭いところに誘い込んでの、逃げられない状態にしておいて、四方八方から狙い撃ちを行う」
という戦法である。
登城する場合の石段などにも、トラップが仕掛けられている。
わざと、段を不規則にしておけば、相手が登ってくる時に、足元を気にしないといけない状況にしておいて、上から集中砲火を浴びせれば、逃げることはできないという管変え方であった。
それが、戦国時代の戦であり、
「訓勇割拠によって繰り広げられていた日常だ」
といえるのではないだろうか。
だからこそ、城は、
「戦のための要塞」
だといってもいいのである。
したがって、守りに適していた。
「天然の要害」
と言われた山の上に築く、
「山城」
という形式が、最初に作られていったのである。
そのうちに、城のまわりに、濠を気づいたり、石垣や塀を巡らすことで、守りが固められることで、
「平城「
あるいは、丘のようなところに築かれる、
「平山城」
が増えていった。
それらの城はどのようなものであったのかというと、城の敷地内に、たくさんの櫓ができて、本丸があり、そして、途中には武家屋敷などが存在する、
そして、途中から、天守と呼ばれる場所ができてきて、シンボルとして聳え立つことで、いわゆる、
「近代城郭」
と呼ばれる形になってきた。
最初の天守というのは、
「松永久秀の、
「信貴山城」
だと言われてきたが、実際にはその後の発掘調査から、荒木村重による、
「有岡城」
つまりは、
「伊丹城ではないか?」
と言われるようになったようだ。
そこから天守を持った城というのが、主流になっていき、大名としての威厳を示すという意味で、ほとんどの人が勘違いをしているかも知れないが、
「城=天守閣」
という固定観念が生まれたのではないだろうか?
中には、有名な戦国大名でも、
「天守を持たない城」
を根拠地にしている武将もいた。
「人は石垣、人は城」
とまで言った、武田信玄でさえ、城ではなく、自分の根拠地を、
「躑躅崎館」
にしたではないか。
城に住んでいながら、店主が存在しないのは、伊達政宗の青葉城などもそうである。
なぜそのような城にしたのかは分からないが、それも戦国大名の個性というべきで、信長のように、
「城下町を栄えさせる」
という別の目的を持っていたりもした。
信長が一貫していたのは、
「天下布武」
という考え方であった。
「武力を持って、天下を治める」
つまり、武力というものを、ある意味、
「武器や兵の数」
特に、
「鉄砲の数」
だと思っていた。
鉄砲の数ということになると、まず必要なのは、お金である。お金を手に入れるのは、貿易において利益を得ること。だから、城下町を栄えさせ、貿易の中心である、堺を抑える。
境を抑えることで、鉄砲の入手も可能になるということであった。
だから、足利将軍である、足利義昭から、
「副将軍に任命する」
と言われた時、
「そんなものはいらない」
といって所望したのが、堺の港の支配権だった。
義昭は、信長の真意を分かるわけもなく、認めてしまったことが命取り、信長の権力を増大させることになり、結果、
「室町幕府の滅亡」
ということになったのだ。
とは言っても、当時の室町幕府は、本当に名前だけ、戦国大名が天下に号令するための、ただの、
「駒」
でしかなかったのだった。
そんな時代において、信長は、自分たちの時代を築いていった。
信長の強さは、
「武士団の形成」
にあった。
特に、領地を広げ、どんどんまわりに侵攻していこうという目的があったので、信長は家臣団に、それぞれの、
「方面軍」
というものを形成させた。
関東であれば、
「滝川和正」
北陸であれば、
「柴田勝家」
丹波、丹後地方であれば、
「明智光秀」
中国、四国であれば、
「羽柴秀吉」
などと言った信長配下の者たちが、信長のいる畿内を守る形で目を光らせていた。
それが、今まで信長を苦しめてきた、
「包囲網」
に対しての対策だったに違いない。
信長の敵は、宗教団体が多かった。
本願寺の蓮如であったり、浅井、朝倉に味方をした比叡山などと言った寺社などが、信長の敵として君臨した。
しかし信長は、屈することはなかった。
当時の坊主というと、堕落してしまっていて、酒池肉林状態だった僧侶もいるという。しかも、政治には口を出してきたり、昔からの荘園の支配などがあったりと、まったくもって、いただけない状態になっていた。
光秀が信長に、比叡山の焼き討ちを制しようとした時、信長が光秀に言った言葉が印象的であった。
「光秀。おぬしは、比叡山を寺だと思っているのか? 坊主どもは堕落し、人を救うのが坊主の役目だとすれば、この戦国の世は一体なんだというのだ。比叡山は寺ではない。あれは城ぞ。城を攻めて何が悪い。もし、これで地獄に堕ちることがあれば、この俺が、閻魔大王を論破してやるわ」
というようなセリフを吐いたと言われているではないか。
信長は、そう言って。比叡山を焼き討ちし、女を含む比叡山にいた連中を皆殺しにしたと言われている。
それが、光秀による、
「本能寺のへ」
の要因と言われているが果たしてどうだろう?
とにかく、信長という人は、相当な改革はであり、その時代の人のほとんどがついてこれなかったのではないだろうか?
元々、子供お頃から、
「うつけ」
と言われ、織田家内部でも、信長の敵は結構いたと言われているではないか。
それを考えると、信長が天下統一を目前にした時に形成された、
「家臣団」
の中には、元々、信長を敵対視していた人も多く含まれている。
「織田家の筆頭家老」
のように言われている柴田勝家も、元々は、信長の敵であった。戦国時代というのは、どう転ぶか分からないというものだ。
そういう意味では、
「徳川家康にとっての、本多正信」
もそうであった。
元々は、家康を苦しめた、長嶋一向一揆の中にいたのが、本多正信であった。
その後は周知のとおり、
「家康の参謀役」
として、いつも家康夫そばにいるという、家康から、
「絶大なる信頼」
を得ている本多正信ですらそうだったのだ。
「下克上」
と言われるような、
「いつ、部下にとって代わられるか分からない」
という時代に、
「昨日の敵は今日の友」
とできるのだからすごいものだ。
とても、今の令和の時代であれば、損得関係によっての、形ばかりの結びつきにしかすぎないのだろう。
それを思うと、戦国大名というのは、群雄割拠として、絶えず戦争をしている感覚であるが、家臣団との結びつきがどれほど重要なものであるかということを、信長が証明したといっても過言ではないだろう。
そんな時代において、信長はいろいろな改革をした。
城下町においての、
「楽市楽座」
というものがそうである。
少し前までは、商売をするのに、許可が言って、今でいう、
「みかじめ料」
のようなものが必要だったのだろう。
しかし、信長は自由に商売をさせることで、そこから富が自然と生まれ、商売の活性化が、自分たちをも潤してくれるということを分かっていたのだろう。
「先見の明がある」
というのは、まさにこのことであろう。
信長にとって、城というもおは、特別な思いがあったのかも知れない。
桶狭間で勝利し、天下布武を前面に押し出した清州の城から始まって、稲葉山城、これを自分が入って、岐阜城と改めた。そこで、初めて、楽市楽座を行い、自由貿易をさせることで、城下町の発展および、自分の利益にもなることが証明され、今度は、自分の城への思いの、
「最終形態」
ともいえる、安土城を完成させた。
琵琶湖のほとりにあり、京まで、陸路でも海路でもすぐのところに位置し、東海道、北陸道の分かれ道に近い土地ということもあって、ロケーション的にも、ちょうどいいところであったのだった。
これが、いわゆる織田信長という人物であり、そういう意味で、本能寺の変で、天下統一目前で倒れたのは、歴史上、どういう意味があるのかということが言われているのも無理もないことであろう。
考えてみれば、歴史上お人物が暗殺されたり、不慮の事故で死んだりした時というのは、必ず、その裏には、謎が潜んでいて、そこで、
「歴史にもしはないが」
ということで、いろいろ学者が論文を書いたりしている。
特に、大きく言われていることとすれば、やはり、暗殺関係がどうしても多い。
まず、一つ目としては、
「乙巳の変」
である。
いわゆる、中臣鎌足と、中大兄皇子による、
「飛鳥板葺宮」
における、皇極女帝に対しての、隋からの贈り物を献上している儀式において、行われた暗殺事件、いわゆる、
「クーデター」
である。
相手は、蘇我入鹿。蘇我氏においての、若きリーダーと言ったところであるが、蘇我氏は当時、先々代の馬子の時代を絶頂として、さらに権力を集中させていた。
馬子の時代は、ちょうど、厩戸皇子の時代であり、しかも、厩戸皇子が、摂政として君臨していた時の天皇は、蘇我氏の息がかかった、
「推古天皇」
だったのだ。
その時代から、ライバルである物部氏を滅ぼし、権力をゆるぎないものにしたことで、蝦夷、入鹿と続く蘇我氏の絶頂の基礎だったといってもいい。
中臣鎌足としても、蘇我氏の権勢を煙たく思っていて、さらに中大兄皇子としてみれば、蘇我氏が、厩戸皇子の一族である、
「山背皇子」
を葬って、厩戸皇子の一族を滅亡させたことで。
「次はこの私だ」
と思っていたことだろう。
そんな時、
「中大兄皇子が蹴鞠に興じていた時、その靴が脱げ、その様子を伺っていた中臣鎌足が、靴を拾って差し上げたことで、二人の仲が深まった」
という有名な話があるが、今でいえば、
「ストーカーのようなものだ」
といってもいいだろう。
完全に、中臣鎌足の計算通りに計画が進み、二人は刺客を雇って、
「今回の参内は、気軽なものだ」
といって蘇我入鹿を騙し、剣などの武器を奪っておいての暗殺なので、実に楽だったことだろう。
しかし、実際には、本当は最初に刺客が切り出した後、二人が最後に飛び出す手筈だったが、刺客が怖気づいてしまい、跳び出さないことから、中大兄皇子が最初に飛び出すことになった。
武器のない入鹿を討ち取ることは、赤子の手をひねるよりも簡単なことだっただろう。
「帝、なぜに私がこんな」
といって、駆け寄るのを見た皇極女帝は、中大兄皇子に、
「これはどういうことか?」
と訊ねると、
「入鹿は、皇室の転覆を計画していた」
というようなことを言うのだ。
女帝は、
「まさか自分の目の前で暗殺事件が起こるなど。しかも、その首謀者が自分の息子だなんて」
と思ったことだろう。
父親の蝦夷は、山背大兄王を滅ぼした入鹿に対し、
「なんということをしたんだ。お前もただではすまないぞ」
と警告したことが、現実となった形である。
それにしても、
「蘇我氏を妬んでいる連中が山ほどいる中で、入鹿も刀を渡すなど、危機感がないにもほどがある」
というべきであろう。
確かに蘇我氏というのは、権勢をほしいままにし、ある意味、最初に豪族の中で、最高の権力を持った一族であり、その力は、平安時代における、摂関政治を行った、
「藤原氏」
に匹敵するといってもいいだろう。
ただ、皮肉なことに、その藤原氏というのは、この時のクーデターの首謀者である、中臣鎌足の子孫であるというのは、実に皮肉なことであろう。
ただ、一つ大きな問題は、このクーデターというよりも、
「時代が遡ったのではないか?」
と言われることであった。
この後大化の改新が行われ、なかなか律令国家を目指すがうまくいかず、都を50年たらずで、10回近くも遷都するというドタバタ劇を演じたのだから、
「何を改新というのか?」
と言われても無理もないことであろう。
蘇我氏は元々、朝鮮半島に対する外交も、
「平等外交」
を行っていた。
だから、朝鮮半島の動乱が起きた時、朝廷は、それまでの百済一辺倒の外交をしていたため、滅ぼされそうになっている百済に援助するべく、援軍を差し向けるが、大敗してしまう。
そのせいで、
「新羅、高句麗連合軍が報復にやってくる」
という懸念から、大宰府を作り、水城を築いて、侵略に備え化ければいけなくなった。
そのために、飛鳥から難波に移していた都を、もう一度飛鳥に戻し、その後、信楽や大津などに都を作って、何度も遷都を繰り返すという、いわゆるブサイクなことをしてしまったのだ。
蘇我氏のように、協調外交をしていれば、
「強いところにつけばいい」
というだけで、こんなに国内が混乱することもなかった。
そういう意味で、
「時代が一世紀逆行した」
と言われるのもそのためだ。
「厩戸皇子の政治を復活させる」
と言いながら、実際には真逆になってしまったのだから、これこそ、
「あの時、乙巳の変がなかったら?」
ということが言われるのも当たり前のことであっただろう。
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