第26話 なんだ。まだ頭を撫でてもらえるじゃないか。

 しばらくしてから部屋の引き戸が開いた。訪れたのはおばあちゃん。おばあちゃんはお母さんのお母さん。名前を「やえ」と言ってあたしの名前の由来になったみたい。


 あたしはやえばあちゃんが大好きだ。岳人もそうだった。いつもあたし達に優しくしてくれた。ときには悪いことも教えてくれた。小さなことだよ。つまみ食いとか、お母さんには近寄ってはいけないと言われた場所にしのびこむとかね。


 久し振りに会う岳人がこんな姿になってしまっていることをあたしは申し訳ないと感じた。あたしがもっとしっかりしていれば良かったのに。

 

 お婆ちゃんは岳人ではなく、あたしに暖かい言葉をかけてくれる。


「大丈夫か、優江。疲れてしもうたらばあちゃんが代わってあげるでな。」


 有難う。でも平気だよ。あたしがここにいないと岳人が退屈してしまうかもしれないもの。


「そうやな。大好きなお姉ちゃんが傍にいてくれた方が岳人も喜ぶやろうな。でも、案外、岳人は今忙しいかも分からんで。」


 忙しい?どうして?


「あの世に逝ったらまずは閻魔様と会わんといかんからな。」


 馬鹿馬鹿しいと思ったので、しんとした空気が流れる。あの世。地獄のことだろうか、それとも天国か。もし、どちらかに逝くのならこの子は天国に逝くに決まっている。天国や地獄の存在など信じてはいなかったが、ここ最近はあたしの常識、世間の常識をひっくり返すことが度々起こっている。寿命、悪魔、そら。もしかしたらあたしの何倍も生きているおばあちゃんはなにか知っているのかもしれない。生きものは死んだらどうなるのだろうか。みな、天国や地獄というのは本当に存在するのだろうか。


「もちろんあるやろ。生きている間にいいことを積み重ねたものは天獄に、悪いことばかりをしてきた人間は地獄に逝くのやろ。そして、どちらに逝こうがいつか生まれ変わってこの世に蘇るんや。」


 輪廻…。なんとかというものだろうか。命はまた再生されてこの世に戻ってくるものなのだろうか。


「天国に逝った者はそこで綺麗なものを見たり、楽しいことをして更に心の豊かな者になってこの世に戻ってくるんや。地獄に逝った者はその逆や。たくさんの罰を受けて長い時間をかけて現世での罪を償わなあかん。痛みも苦しみもたくさん味わうやろう。そして、傷つくことの辛さ、悲しさを知っていくんや。それが分かった者からやっとこの世界に戻ってこられるんと違うかな。」

 

 そうか。岳人は間違いなく天国へ逝くよね。


「そうやな。この子はきっと天国へ逝くやろうな。とても優しい子やった。誰にでも分け隔てなく優しくて、誰からも愛されておった。人を愛すること、愛されることがこの世で一番の善なんや。」


 そうだよね。天国で幸せなひとときを過ごすよね。人を愛すること、愛されることが善だというのはその通りかもしれない。あたしの周りにはそんな人達がたくさんいる。お父さんもお母さんも、やえおばあちゃんも。それに果歩ちゃんや美羽ちゃん、亮君も。みんな愛され、愛する人だ。あたしさえ除いてしまえばね。


「夜は長いから優江も少しは休みな。灯りの番はばあちゃんも手伝うから。」


 有難いけど、あたしは大丈夫。心配しないで。この子の傍にいたいの。もしかしたら指を少しでも動かすかもしれないじゃない。その瞬間を見逃したくないの。


「夜になると寒いで。風邪をひいたらあかんからばあちゃんと一緒に布団に潜ろうや。」


 今は夏だもの。いくら夜だからと言って寒いということはない。おばあちゃんも寂しかったのだろうね。この子が逝ってしまって悲しいのは、あたしひとりじゃないものね。おばあちゃんと一緒に岳人の隣に敷いた布団に入った。なんて暖かいのだろう。誰かとひとつの布団で横になるのは久し振りだ。なんだか安心する。だから、あたしは岳人の布団に潜り込んだ。暖かいかな。落ち着くかな。隣にいるのが死者だとは感じない。岳人の身体はまだ暖かい。あたしはいつの間にか眠ってしまった。


 今日はお通夜だから大人達はみな忙しそう。子供のあたしの出る幕はない。出来れば大人達と一緒に動いていたい。ひとりで部屋の中にいるのはあまりに息苦しい。ずっと昔はこの部屋のベッドの上にいることは嫌いじゃなかったはずだ。だけど、あの日からここはまるで牢の中みたいになってしまった。罪深さを悔やむか、懺悔をするか、怯えているか。


 右肩が痛い。鋭い痛みではなく重い石が肩に乗っかっているような鈍い痛み。肩を回すと錆びついた工作機械のような音がする。机の上の小さな鏡になにかうつっている。なんだ、こいつは。子猿の様に背中を丸めて縮こまっている。あたしの良く知っている悪魔のような姿勢をしている。そこにあるのが自分だとは信じられない。気味が悪いけど、この部屋の中になにものかがいるのだと思うと気が紛れる。


 あたしの顔を覗きこむその顔は生気を失くし、口がだらしなく開いて、不要な肉を付けた顔はあまりにも不細工だった。


 それはあたしの顔なんだ。猿でもなければ悪魔でもない。いつからこんなにも醜悪な顔色になっていたのだろう。よくも、この顔であの可愛い岳人と手を繋いで歩けたものだ。情けないし、恥ずかしい。落ち込んでいる場合ではない。もっと情けなくて、恥ずかしいと感じていたのは弟のはずだから。こんなに不細工な姉と手を繋ぐのも、頭を撫でられるのも気持ちが悪かったはずだから。


 そう言えば、あたし自身もうしばらく頭を撫でられていない。褒められていない。誰にも、いい子だねと言われていない。いい子でなくなったからなのか。子供でなくなったからなのか。いい子だねと言われて頭を撫でられるのが好きだったのに。


 考えごとをしていると閃くものがあった。久し振りに理屈をこねずに閃きというものに身を任せた。


「お母さん。あたし、今日と明日は喪服を着たい。」


 衣装箪笥の奥から一着の真っ黒な喪服を取り出してくれた。


「わたしが昔着ていたものだから型は古いけどこれなら優江の身長にもぴったりね。」


 余計な飾りもなく大人らしい型が気に入った。その黒があたしの顔を塗り潰してくれるだろうと期待する。喪服を受け取ったときにお母さんに抱き締められて頭を撫でられた。


「優江。有難う。」


 なぜ、お礼を言われたのだろう。でも撫でられた頭はとても気持ち良い。頭皮で感じた心地良さではない。子供のあたし達にはまだ髪の毛にも触覚があるんだ。なんだ。まだ撫でてもらえるじゃないか。


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