第19話 春という季節は人をおかしな性分にさせる

 今年の春の匂いがいつにも増して強かった。季節に匂いなんてないのかもしれないけれど、あたしは季節には匂いと表現するべき他に言いようのない感覚を得る。


 春の匂いはまるで苺のようにとても甘い。今年の甘さは格別だった。同時に胸のすくような爽やかさも感じる。どんな言葉を使えばあなたに伝わるのだろう。あたしには表現力がない。もっとしっかり国語の勉強をしておけば良かったね。桜の候が終わる今の時分には、甘さとは少し違った匂いの風が吹く。清々しくどこか青臭いのだ。

 

 新学期に進級する今日から登校すると決めていた。死が怖くて、心苦しくて学校を長く休むのは今回が二回目だ。成長していないな。別に気持ちが前向きになれたから登校するわけではない。でも、これ以上部屋に閉じ籠っていては家族にも友達にも心配をかけるだけだと割り切ったのだ。


 家から一歩を踏み出すには勇気が必要だった。誰かが心の闇を取り払ってくれることを望んでいたが、そんなことは叶わないとやっと最近気が付いた。自分で立ち直るしかないんだよね。それならば、まずは周囲の人に心配や迷惑をかけない様に努めなくてはならない。


 あたしがどれだけ辛くても世の中に出て、世の中の常識にあわせて生きていかなければならないと考えるのは、我儘を無駄に貫く子供ではなくなったということなのか。それとも、自我が足りない証拠であるのか。どちらなのかは知らないけど、なにより望むのは不安に侵されることなく一日が終わってくれること。出来るだけ穏やかに電池の切れる日を迎えること。それまでの時間にいくらかでも笑えればいい。その為には果歩ちゃんと美羽ちゃんに逢いに行って安心して貰う必要があるのだ。


 学校に向かう道のりでコンビニに寄った。何度も通った店なのになんだかとても居心地が悪い。ここはなんと整然とした空間なのであろうか。綺麗な赤や黄色の小さなお菓子の箱は中学生の女子の目の高さに合わせて整然と並べられている。過剰な生産性、効率の良さに吐き気がする。なにも買わずにその場から飛び出した。周りをよく確認していなかったので誰かに勢い良く衝突してしまった。転びそうになるあたしを彼はしっかり支えてくれた。


「大丈夫かい?」


 亮君は、あたしが頷くのを確認すると黙ってコンビニの中に入って行く。あたしはその場で彼が戻ってくるのを待った。何度もこの場から逃げ出してしまいたい、立ち去った方が良いのではないかと迷ったけど。その時間はとても長く感じた。久し振りに顔を合わせる彼になにを話せば良いのだろう。迷いは亮君がすべて取り払ってくれた。


「元気になったんだね。」


 笑顔で慰めてくれた。とても気分が良いとは言える状態ではなかったのだけど、亮君の目にはそう映ったのだろうか。それはきっとあなたと逢えたから。心配をかけたみんなに言わなくてはならない言葉を口にする前に彼が先に、


「僕はなにも心配なんてしていなかったよ。」


 買ったばかりの紙パックのコーヒーを飲みながらそう言った。


「心配していたなんて言うときっと優江ちゃんは自分のことを責めてしまうだろうから。」


 あたしの顔を見ずに、紙パックをゴミ箱に投げ捨てた。ああ。人とは短い時間でこんなに大きくて逞しくなるのだなあ。あたしが怯えることしかしない間に彼はこんなに大人になってしまったのだ。費やした時間は同じはずなのにえらい違いだ。あたし達は自然と違和感もなく、距離もなく並んで歩いた。路の途中で彼は、また一緒のクラスになれるといいねと優しい声をかけてくれた。社交辞令と受け取るのが普通なのかもしれない。だけど、あたしはそうじゃないと感じた。だって、そのくらい優しい声だったから。ふたりきりの時間はとても短くてあっという間に学校に着いてしまったけれど、並んで歩けたことは有難いことだ。路の途中で逃げ出したいような辛い気持ちになることがなかったのだから。


 校門の前に辿り着いたとき急に彼の歩みが速くなった。あたしはそれに合わせることはしなかった。示し合わせてそうしたわけではないけど、それでいいのだ。だって、一緒に校内に入るのなんて恥ずかしいもの。あたしはそこで足を止めた。


「おはよう。優江ちゃん。」


 あたしの方を叩いた果歩ちゃんは輝くような明るい笑顔をしていた。きっと、亮君と歩いていたところも見られていたんだろうな。ちょっと恥ずかしいけど、果歩ちゃんの笑った顔が見られることは嬉しい。ついこの間、あたしの部屋で涙を浮かべた彼女も優しかったけど、やはりこっちの顔の方が大好きだ。彼女の笑顔はあたしを鏡の様にさせる。自然と笑顔が伝染するのだ。人前で笑えるのかとても不安だったけど、彼女のおかげで自然に顔がほころんだ。ありがとう。


 一年生の頃は校舎の一階に教室があって、二年生になると二階に上がる。二階の廊下に立って見える景色は新鮮だった。造りはなにも変わりはないのに明らかに流れる空気が違う。


 入学して初めてこの校舎に足を踏み入れたときよりずっと新鮮味がある。二年生になるとクラス替えがある。掲示板にその名簿が貼られている。あたしは二年三組。そこには果歩ちゃんと美羽ちゃんの名前もあった。あ、亮君の名前もある。心からほっとした。きっとあたし達は運命の糸で繋がっているのだろう。

 

教室に入ると美羽ちゃんが声をかけてくれた。


「おはよう。またよろしくね。」


 まるで昨日の続きのように自然だった。有難いことだけど、それを当たり前だと思ってはいけない。心から感謝した。


 嬉しくない。いや、嫌だなあということもあった。担任がまた大葉先生なのだ。あたしはまだ、この人のことが好きではない。随分苦しい思いをさせられた。暑苦しくて、息苦しい大人だ。


 きっと先生はすすんであたしの担任をかって出たのではないだろうか。あたしが苦しんでいるのを知っていたから責任を持って面倒を見るつもりなのではないだろうか。それはあくまで想像にすぎないのだが、とても気味が悪い。あなたにはあたしの責任を負うことなど出来やしないのだから。あたしは先生が好きではないどころじゃない。唯一嫌いだと感じる人だ。今日も先生に声をかけられるのではないかと思うと悍ましかった。


 そのせいだろう。一日中動悸が止まらない。なんだか微熱があるみたいに頭が痛かった。ひとりきりでいるときに感じるものとは少し様子が違っていたけれど今感じているのも、不安とか恐怖というもので間違いない。先生を避けていたはずなのに、いつの間にかクラスメイトさえも煩わしくなっていく。あたしの心を侵すものがよく知っているものに変わっていく。

 

 始業式はとても辛かった。式が終わると果歩ちゃんのもとに駆け寄った。本来ならばきちんと整列したまま退場しなければいけないのだけど、これ以上は堪えられない。両手を広げてあたしを受け容れてくれる果歩ちゃんの顔を見ると不思議と心は落ち着いた。あたしの心というものは真にあたしの思い通りにならない。

 

 その後は教室でホームルールがあったのだが、あたしはずっと机の木目を見つめていた。おそらく多くの災いがこの場所で降り注ぐのだろう。先生の言葉は頭にも心にも届かないように蓋をしておいたけど、耳には入れるように心がけた。先生の話が終わりこの場を離れるタイミングをずっとうかがっていたのだから。


 話の流れをよんで、それが終わりに近づくとこそこそと帰り支度を始める。そして話が終わると急いで教室を出る。だけど、駆け足などはしてはいけない。目立ってしまって先生に声をかけられるかもしれないから。幸い先生はあたしの行動に気が付いていない。さらに幸いに果歩ちゃんと美羽ちゃんはあたしの異常な行動に気を配ってくれた。走ってあたしの後を追ってくれた。三人揃って校門を出る。


 やっと不安や恐怖から解放されて笑える時間が訪れた。だけど、あたしはふたりとどんな会話をしたのかも覚えていない。それでいいのだ。幸せを感じたことだけは間違いないのだから。


 家に帰ってきたのはまだ正午を少し過ぎたくらいだったけど、なんだかとても疲れた。黙ってリビングのソファに座り込むあたしにお母さんが笑って、お帰りなさいと言ってくれた。久し振りの登校に思い煩っていたのはあたしだけじゃないんだ。お母さんも一緒なんだ。あたしにはお母さんを安心させる義務がある。だから、大きな声で、ただいまと伝えた。

 

 着替える為に二階の部屋に入る前に、岳人の部屋の扉を開けた。弟はまだ帰ってきていない。部屋はおもちゃが出しっ放しで散らかっている。机の上にも、ベッドの上にも。机の上に投げられている新幹線の模型を手に取ってみた。おもちゃというのは不思議なもので、主が寂しいときはおもちゃも寂しい顔をする。新幹線の模型は寂しそうなうえに心配そうな顔色をしている。あたしが一緒に遊んであげられなかったから、新幹線の模型もこんな表情になってしまったんだね。


 部屋中のおもちゃはきっとが岳人の話をたくさん聞いてくれたのだろう。岳人が手を伸ばせばいつでも話し相手を捕まえるようにこの部屋は哀しく散らかされているのだろう。すべてのおもちゃに有難うと言って片付けた。そして、机の前に立ってあたしは言った。


「岳人。ただいま。」


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