第20話 まだおににたっちされてないもん

 ジャージとパーカーといういつもの部屋着に着替えてリビングに戻ってカウンターキッチンのテーブルの前に座った。この場所が好きだった。料理をしているお母さんと話が出来るから。お母さんは仕事をしながらなので、目を合わせることはあまりない。その距離がいい塩梅なのだ。

 

 お昼ご飯に焼きそばを作ってくれていた。お母さんの焼きそばが大好きで。どこのスーパーにも売っている安いものなのだろうけど、焼きそばの量と野菜やお肉の量が絶妙なの。味付けは粉末ソースと塩をバランスよく混ぜてくれる。お母さんにしか作れない特別な焼きそばなのだ。焼きそばが好きだと言ったことはなかったのだけど、こういうことって伝わるものなのだろうか。お母さんは頻繁にそれを作ってくれた。まな板を包丁で叩くお母さんに尋ねた。


「お母さんの夢ってなに?」


 あまり自分の親に伺うことではないことかもしれないけど、あっさり答えてくれる。


「優江と岳人が元気に大きく育ってくれることよ。」


 ふうん。と気のない返事をした。こんなことを言って貰えたら有難うと言うべきなのだろうか。あたしの頭にはまったく浮かばなかったけど。


「どうしたの?また学校でそんなことを言われたの?」


「別に。」


 あたしには夢がないけれど、欲のない清々しい子供だという自負もあった。夢とは欲と等しいと捉えていたから。だけど、あたし以上にお母さんが美しいと感じる。理由はいくつかあるのだけれど。


 ひとつは、娘と息子とはいえ自分以外の人の健康と成長を心から願っていること。


 ひとつは夢が叶うも叶わないもあたしと岳人次第であること。失礼な言い方だけどお母さんの夢は人任せなのだ。それなら夢に圧力や負担を感じることもないのだろう。なんだか、背中に荷物をひとつ追加されたような気がする。お母さんはとても優しい言葉をかけてくれたはずなのに。あたしはひねくれているね。おかしなことを考えたくないから焼きそばを口に運ぶことだけに専念した。


 あたしが好きな春の匂いは一瞬で風に吹かれて飛んでいき、代わりに青臭くて若々しい匂いが流れてきた。この匂いは好きではない。暑い夏が大嫌いだったから。暑いのが嫌いなのではなく、むしむしとした湿気が苛立つのだ。鬱陶しい。緑の草が勢いよく背を伸ばす姿も疎ましい。なんの悩みも持たずに成長していく様が憎らしい。

 

 歓迎する者にも、避けようとする者にも平等に夏はやって来る。部屋にひとりきりでいるととても憂鬱なので岳人と一緒に外に出て身体を動かすことを心がけた。暇さえあれば太陽が頭の上にある時刻から日が陰るまでふたりで走り続けた。岳人は走り回るのが大好きだから。特にかくれんぼが大好きなようだった。


 鬼になるより逃げたり隠れたりするのが好きみたい。かくれんぼをすると必ずあたしが先に鬼をさせられる。目を瞑って十を数える。だけど、いつも同じ公園で遊んでいるから岳人の隠れる場所は予想がついちゃうのだ。大きな石の裏とか、壁の向こう側とかね。


 岳人は鬼が自分を探している様子を見守るのが大好きなの。隠れながらちょこちょこと顔を出す。だから探すのには苦労しない。だけど、あたしは気付かないふりをする。見当違いな場所を覗いてまわる。その様子をにこにこしながら眺めるのが岳人の癖だ。時間をかけて少しずつあの子が隠れている場所まで近付く。どこに隠れているのかなあって声をかけながら。鬼が近寄ってくるとさすがに息を殺して身を隠すのだけど、もう遅いよ。たっぷり時間をかけてから、


「岳人見つけた!」


と叫ぶのだけれど、岳人はお構いなしに走って逃げる。


「まだ、タッチされていないもん!」


いつのまにかかくれんぼが鬼ごっこに変わっている。(笑)


 今日はやけに目覚めたときの気分が悪かった。しばらく安定した体調が続いていたのに。体中が痛い。特に肩や首の痛みがひどい。あまりに痛いので普段よりも早く目が覚めてしまった。


 ベッドに蹲っているのも辛いので岳人の部屋を覗きに行く。最近、少しだけ大人びてきたような気もするけれど、相変わらず赤ん坊の様で可愛らしい。あまりにも愛おしくてベッドに潜りこんでしまおうかと思ったけれど、そのせいで起こしてしまっては気の毒だからやめておいた。そうしておけば良かったのだ。後々後悔することになるのだから。

 

 精神的な苦痛ではなく肉体的な倦怠感が強かったので、もう一度部屋のベッドで横になる。あと六百二十日ほどしか生きられないあたし。この身体はもうすでになにかの病に侵されているのだろうか。そうなのかもしれない。そう思う程胸が窮屈だし、頭も痛い。死にある程度覚悟はしているが、病気が見つかるのはなるべく死の直前が好ましい。岳人や両親を悲しませる時間が短くなるのなら。

 

 あたしが起こしてしまったのだろうか、岳人がいつもより早く目を覚ましてあたしの部屋にやって来た。その顔に何度もおはようのキスをした。一体岳人はいつまであたしのキスを受け容れてくれるのだろうか。いつかそういう日が来るのかと思うと寂しくなってしまう。


 だから、いつもより大袈裟にキスをした。今のところ岳人にはそれを嫌がる気配はない。それどころか眠そうな目を擦りながら笑ってくれる。その顔色を見ると元気が出る。定時には無理かもしれないけれど必ず学校へ行こう。

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