第8話 ひとつだけ階段をあがります

 息苦しい日は時間が過ぎるのが遅かったけれど、笑えるようになってしまえば一日はとても短く感じる。時間とは不思議なものだね。人の気持ちとはもっと不思議なものだね。今日が終わるのが切ないとも思うし、新しい明日を心待ちにする気分にもなる。部屋に閉じ籠っていたときには、早く時間が過ぎて欲しいと願っていたけど、決して明日が待ち遠しいとは思えなかった。

 

 明日はいよいよ中学校の入学式だ。楽しみと緊張感が混じり合う。あたしはまだ青春を謳歌することが出来るのだろうか。


 ついこの間卒業した小学校は真に楽しかった。今でもよく想い出す。果たして明日から始まる世界は楽しいと感じさせてくれるのだろうか。昔からそうだ。はじめの一歩を踏み出すには、いつも足がすくんじゃう。飛び込んでしまえばいつも世界は眩いのにね。


 多分、想像がつかないから怖いのだろう。先が見えないから怖いのだ。確約された未来があれば、こんな苦い思いはしないですむのだろうか。


 不安ばかり抱えていても仕方がない。前を向かなくちゃ。再び陽が昇れば、世界は変わるのだ。今日は早く寝よう。なるようにしかならないのだから。


 随分と早く目が覚めてしまった。まだ朝刊さえも届いていない。朝のテレビは退屈だし。どこの局もニュースしかやっていないし、その事件の話は昨日の夜に聞きましたよ、という内容しか流れない。


 登校するまであと二時間は暇がある。仕方がないから制服に着替えることにする。白いブラウス、グレーのスカート、赤いリボンに青のブレザー。幼い頃からずっとこの制服に憧れてきた。子供でもなければ大人でもない。子供だと言えば子供扱いされるし、大人だと言い張れば大人扱いされる。中学生とはそんなものだと思っていた。


 おしゃれが上手ではないあたしでも、この制服を着れば可愛らしく見えるのではないかとときめいていた。制服は随分大きかったね。中学生はすぐに身長が伸びるからと大きめのサイズを選んだのだから仕方ないか。でも、正直全然可愛くない。これでは制服を着ているというより、被っていると言った感じだ。


 せめてワンポイントだけでもおしゃれをしたいけど、お気に入りの赤いヘアピンはやめておこう。小学生のときは割と自由だったけど、中学校は校則が厳しいだろうから。

 

 それから三十分くらい経った頃、やっと家族が目を覚ます。のんびりしているなあ。入学式にはお母さんと岳人が出席してくれるから、それなりに準備というものがあるだろうに。お母さんはあたしの制服姿を見てちょっとだけ笑った。岳人は、


「優江。とっても似合うよ。大人みたいだね。」


そう言って褒めてくれた。


 家を出る前に写真を撮って貰った。ほとんどの写真に岳人も入り込んできた。いいよ。一緒に写りたいもんね。しばらく寂しい思いをさせてしまったものね。記念の写真は一緒がいいよね。あたしより岳人の笑顔の方が眩しかった。ずっと笑っていたよ。に~って。


 三人で歩いて中学まで向かった。あたしが通う中学校は小学校の少し先、五分程しか離れていない場所にあるので通い慣れた道を歩いて行く。だから、あまり新鮮な感じはしなかったかな。制服がもっと似合っていれば随分気分も違ったのだろうけど。中学校に着いて校門をくぐるときだけ少し気が引き締まったかな。


 案内の看板を頼りに進んで行くと大きな掲示板にクラスの名簿が張り出されてあった。一年三組にあたしの名前があった。もう一度、三組の名簿を上から見直してみる。あった。果歩ちゃんの名前。そして亮君の名前も。これはついている。また大好きな友達と、気になる亮君と同じ教室で過ごすことが出来るのだ。よくよく名簿を見てみるとクラスの半分近くは同じ小学校に通っていた人だった。なんだかとても安心したね。

 

 ここで一旦お母さんと岳人とはお別れ。ふたりは体育館で待機する。あたしは案内の看板や先生の誘導で一度教室に入る。迷うことなどなく一年三組の教室まで辿り着いた。机にはそれぞれネームプレートが貼られているので、自分の席を探して座った。教室はまだ半分も埋まっていない。果歩ちゃんも亮君もまだ来ていない。席が埋まるごとに教室内の緊張感が高まっていく。あまりお喋りをしている人もいなかった。亮君が教室に入ってきた。みんなと同じように机をひとつひとつ確認して自分の席を探している。あたしは、当然話しかけることなど出来やしない。意気地なし。そのすぐ後に果歩ちゃんが入ってきた。彼女は教室に入ってあたしを見つけるなり、大きな声であたしの名を呼んで抱きついてきた。やっぱりこの子は他の人とは違うなあ。もちろん褒め言葉だよ。


 まあ、よく喋る(笑)。教室中の視線をひとり占めだよ。自分の席を探そうという気がないもんね。だけどね。彼女の口から出る言葉はあたしを元気づけるものばかり。ありがとうね。一緒のクラスになれてとても心強いよ。間違いなく楽しい一年になるね。


 教室の前の扉が勢いよく開いて背の高い男の先生が入ってきた。果歩ちゃんは慌てて自分の席に着いた。席を探す必要なんてない。だって、空いている席はひとつしかないのだもの。目が細くて、顎のしゃくれた先生は怖そうな人だった。


「これから体育館に移動します。わたしについて来てください。」


 生徒達はしゃくれた先生の後ろに並んで移動する。この先生が怖いと感じたのはみんな一緒だったのであろう。列も乱さずに、お喋りする者もいない。そのくらいこの先生は独特の雰囲気を漂わせていた。


 体育館の中の保護者席の一番前にお母さんと岳人が座っている。あたしを見つけた岳人は笑いながら手を振っていた。だけど、怖い先生に見つかりたくないので手を振りかえしてあげることが出来なかった。ごめんね、岳人。あたしが目の前を無言で通り過ぎても手を振り続けているから、なんだか可哀想で申しわけなくてたまらなかった。先生のことが憎らしいくらいにね。なんでこんな人が担任になるのだろう。もうこの時点でこの先生に対する印象は最悪だった。


 一時間程の入学式はとても退屈だったけど、式の引き締まった感じが心地よかった。これから新しい生活が始まる。それは不安ではなく期待の方が大きかった。周りと見渡すと新入生はみんな同じような顔をしている。あたしよりずっとかしこまった顔色をしている。あたしにはそんな顔は出来ないな。ずっと緊張した毎日を生きてきたのだ。やっと近頃その緊張感から放たれたのだ。誰もが気が緩む時間と、穏やかでない時間を交互に繰り返しているのだ。あたしだけが苦しむわけではない。みんなもあたしと同じだし、あたしもみんなと同じなのだ。あたしも普通の中学生、子供なのだ。そう信じられたことがこの日一番の収穫だ。


 式が終わって体育館を退場するときに、お母さんと岳人の前を通る。相変わらず屈託のない笑顔で身を乗り出す弟にちょっとだけ手を振ることが出来た。

怖そうな先生に見つからないでよかったよ。これで弟もわざわざつまらない集まりに出席した甲斐があったと満足してくれるだろう。


 入学式の後はクラスごとに別れて簡単なオリエンテーションを行う。それもまったく下らなかった。ある程度予想はしていたけど、社会とは大人になるほど儀式が多くなるようだった。無駄な時間が増えるのだ。付き合わせられる子供の気持ちになってくれ。そんな不満を持っていたのはあたしだけではないらしい。 

先生の話が終わったら誰ひとり先生に挨拶をすることもなくそれぞれ教室を出て行った。これが子供なりの抵抗なのだ。


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