第7話 もうすぐあたしは…死なないよ
春休みになってもなんにもする気にならなかった。今日はあたし以外の家族はみんなで動物園に行っているが、あたしは、体調が悪いと言ってひとり家に残っている。
でも、ほんの少し後悔しているんだ。あたしは今更動物園に行きたいとも思わないけど、岳人のことが心配。岳人は今どんな顔をしているのだろう。どんな気持ちでいるのだろう。あの子はあたしのことが大好きだ。あたしと一緒じゃない動物園、ちゃんと楽しめているのかな。
携帯電話に果歩ちゃんからの着信が毎日あったけど、放っておいた。学校という居場所を失くしてからはまたふさぎ込んでいたから。四日目にやっと電話に出ようという気持ちになった。心配をかけるだけだと当たり前のことに気付いたから。
「優江、大丈夫?まだ、元気にならないの?」
実を言うと果歩ちゃんにはつらいこともすべて話したかった。唯一心を許せる大切な友達なのだから。だけどだからこそ話せないんだよね。無駄に心配かけたくないと思うのがあたしの気質。だからなるべく気丈に振る舞わなきゃ。
「思ったより優江が元気でよかった。ずっと心配だったの。ねえ、少し元気になったら一緒にお出かけしようよ。新しい文房具買ったり、プリクラとったりしたいな。」
返事を選ぶ権利などない。これまで心配をかけ続けたのだから。
「よかった。嬉しいよ。じゃあ明日お昼に優江のうちまで迎えに行くね。」
果歩ちゃんが安心してくれたみたいで胸を撫で下ろすことが出来たかもしれないが、気分がよくなるわけではない。むしろ気が重い。果歩ちゃんと会うまでにこの顔色をなんとかしないとならない。その為にはまずはベッドから抜け出さないとならないよね。
そして、部屋から外に移らなきゃ。恐る恐るリビングに出てみた。みんな出かけているみたい。ソファに座って大きな深呼吸を繰り返し視線を少しずつ上げてみる。なにも問題ない。見慣れた景色だ。しばらくすると外から聞き慣れた声が聞こえてきた。岳人の声だ。岳人はリビング入ってあたしを見つけるなり抱きついてきた。
「姉たん。姉たん。」
お話が大好きな岳人なのに、あたしの胸に顔を埋めてそう呼びかけるだけだった。顔色は確認しなかったけれど泣いているのではないだろうかと思える声色だった。岳人の髪型がくちゃくちゃになるくらい強く撫でまわしてから頭を抱き締めた。そうだ。果歩ちゃんだけじゃない。あたしが部屋の中に籠っていると悲しんでくれる人は他にもいるのだ。その人達の気持ちも察することの出来なかった自分が恥ずかしい。姉たんもう元気を出すからね。
果歩ちゃんとの約束の時間のずっと前から鏡を覗いておめかしをする。特別なときだけ付けることにしていた赤のヘアピンで髪をとめて、冷たい水で何度も顔を洗った。大丈夫。鏡に映っているのは幻影を見るようになる前の自分とたいして変わりない。頬がこけているくらいだ。人を驚かせたり、引かせたりする程ではないはず。早めに外に出て待っていることにした。外の空気というものになれなければいけない。
思っていた以上に怖気づくことはない。外に出ることもそうだが、普段より死の呪縛にとらわれていない。これなら一日くらい笑って過ごすことが出来るのではないだろうか。
果歩ちゃんはあたしのことを見つけると大分遠くから駆け寄ってきてくれた。
あたしも走った。久し振りに顔を合わせると果歩ちゃんはまるで昨日の岳人のようにあたしの胸に顔を埋めてくれる。岳人と同じ振る舞いはそれだけではなかったわ。
目を赤くした果歩ちゃんの顔をまともに見ることが出来なかった。それは駄目だよね。あたしのせいで瞳は真っ赤になってしまったのだから。
会話に詰まってしまうことを恐れていたが杞憂だった。果歩ちゃんはとても明るかったから。無理に振る舞っている様ではない。いつも通りの彼女の笑顔だ。
一日中お喋りをしてくれた。きっと彼女も沈黙を嫌ったのではないだろうか。お蔭で遊ぶこと、お喋りすることに夢中でいられた。いつもの様に心が襲われる暇もなかった。きっとこうあるべきなのだろう。いつかは確実に訪れる死に怯えている暇もないくらい一日を楽しまなくてはいけないのだろう。必然から目を逸らすことも大事なことなのだろう。もしかしたら明日にでも果歩ちゃんに不幸が訪れないとも限らない。そんな僅かな可能性に心奪われていてはいけないのだ。
笑顔で一日を過ごすことが肝要なのだ。僅かな恐怖の可能性に怖気ついている自分が馬鹿馬鹿しいいと思えたわ。そうだよ。あの幻影が残りの寿命なのだと先入観をもっているのはあたしだけではないか。
常識的に考えてみようよ。そんなものが見えるわけがないじゃない。しばらくすれば、あんな夢を見ることもなくなるのではないか。今はきっと精神が痛んでいるだけなのだ。果歩ちゃんと笑いながら向き合っていると、実に久し振りに前向きになる。人は幸せだから笑うのだと思われるかもしれないが、笑っているから幸せになれるというのもまた事実である。
「あたしは死なないよ。」
いつもとは異なる声色のあたしの中のあたしが何度も語りかけてくれる。勇気が溢れて、気が付けばあたしが果歩ちゃんを引きずり回していた。文房具やアクセサリーを買ったりプリクラを撮ったり。立ち止ってしまうのが怖かったからかもしれないね。
日が暮れるまで遊んで電車を降りてからは手を繋いで歩いた。本当に果歩ちゃんには感謝しかない。外に連れ出してくれたこと、ずっと笑顔を見せてくれたこと、笑顔にしてくれたこと。感謝の言葉を口に出すことはなんだか照れ臭いから手を強く握った。そしたら彼女もなにも言わずに力強く握り返してくれた。
間もなく果歩ちゃんの家に辿り着く。この手を離したくはない。だけど、きっと大丈夫でしょう。十分に勇気を与えて貰ったから。
「優江。中学校行くの楽しみだね。」
そうだよね。人生のすごろくの駒を進めるのは楽しいことだよね。中学生活はきっと楽しいものになるだろう。心の闇を晴らす方法も知ったのだから。もうひとり部屋に籠らずにいられるよ。もっともっと言わなくちゃいけない言葉はたくさんあったのだけど、なんだかそれも野暮ったい。だから、一言にすべての気持ちを込めた。
「果歩ちゃん、大好き。」
彼女はなにも言いかえしてくれなかった。だけど、涙の雫を零して笑った。
あたしは馬鹿な女だ。つまらない妄想をして悲劇のヒロインを演じて、大切な人を傷付けていたのだ。もう、そんなことは終わりにしないといけない。死ぬわけがないじゃないか。人ひとりの命というのはか弱いものかもしれない。だけど、
あたしはひとりじゃない。確かに見守ってくれている人が存在するのだ。
別れ際に胸を張って手を振った。果歩ちゃんも両手を広げて上下に振り回した。
「優江。中学校行っても絶対親友だからね。」
「中学だけじゃないよ。死ぬまでずっと親友だよ。」
もう、死という言葉だけに震えることはない。間もなく中学校の入学式だ。気持ちを立て直さなくちゃ。胸を張って生きていかなければ。そのためにはまずは
今夜岳人を寝かしつけてあげよう。ご飯もいっぱい食べよう。あたしは死なない。そう何度も心の中で繰り返した。
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