第3話 人が生きるために見えてはいけないもの

が、今日は岳人が待っている。参ったなあと岳人の方にもう一度目をやると意外にも彼は笑顔で、


「優江。お友達と帰りなよ。僕は一人で帰るからね。」


 そう言ってあたしの顔をじっと見つめた。有難かったけど出来ることなら先に校門を出て行って欲しかったなあ。なぜだか岳人はあたしと亮君を見送るように、校門をくぐる姿をその場で眺めていた。


 今日の帰り道は明らかに、いつもとはなにかが違って見える。嬉しくて幸せな時間だったけど、誰か知り合いに見られたくないなってとても気になっちゃう。


 彼はあたしを感激させるような話をたくさんしてくれた。例えばもうすぐ卒業して今のクラスがバラバラになってしまうこと。あたしたちの通っている小学校の児童は私立中学にでも進学しない限り全員同じ中学校に進学することになっている。そのせいもあり、あたしは卒業に特別な感情がなかったんだよね。

しかし、彼はそのことが切ないと言う。


「僕たちは二年間今のクラスで毎日過ごしてきたよね。僕は正直クラスの友達をうざいなと思ったことも何度もあるのだけど、運動会とか発表会とか修学旅行なんかの度に友達が増えて、前からの友達だった人とはもっともっと仲良くなれる気がして、そういうのがとても嬉しくて、楽しかったんだ。もっともっとみんなと仲良くなりたいし、みんなと話がしたいんだ。だから、みんなと別れることはとても侘しいよ。」


「仲良くなりたいみんな。」には、あたしは入っているのかな?と少し不安もあったけど、亮君の意外な新しい一面が見えた気がして喜ばしい。これまでの彼の印象はとてもクールなものだったけど、今日の彼はとても情が深い。あたしはクラスメイトに対してそんなに熱い感情を持ったことがなかったので、彼のことがやけに眩しく見えた。


「でも仕方ないよね。いつまでも小学生ではいられないのだし。」


 亮君は前を向いたまま続けた。


「僕らもだんだん大人になっていくのだし、中学校へ行ったら勉強も部活もやらなきゃいけない。意外に部活をやってみることで自分の中の隠れた才能が見つかるかも知れないね。的間さんはやりたい部活とかあるの?」


 あたしは、顔を上げることもなにか声を出すことも苦しかった。中学に進学することを真剣に考えてみたことなどなかったもの。ただ通う学校が変わること、他の小学校の児童とも同級生になるくらいの認識しかなかった。あたしは幼いな、とも自覚はしたがそれ以上に亮君の大人っぽさに感心もするし、憧れもする。この気持ちは今まで彼に憶えていた淡い想いとは明らかに異なる。幸せな時間が経つのは速かった。とても悲しいことにふたりの歩む道はここで別れてしまう。


「それじゃあまた明日ね。」


 そう言って優しく手を振ってくれる亮君に対して、あたしは辛うじて堅苦しい笑顔で言葉も出せずに手を振返すばかりだった。


「今日は誘ってくれてありがとう。」

「また一緒に帰ろうね。」


 そう勇気を出して言えなかった。ああ、情けない。それはとても残念だったけど、一緒に下校したことが幸せすぎて心の傷とはならなかった。歩いてきた道のりは田んぼばかりの田舎道だったけど、まるで初めてのデートで行った遊園地であったかのようにあたしの記憶の中に美しく残った。


 自宅に戻ってからのあたしはそれはもう上機嫌そのもの。晩御飯の時間に岳人に、


「今日の優江は学校の帰りにデートに行ったんだよ。」


とパパとママの前で冷やかされたけど、テンションの上がりまくっているあたしには照れもしなかったよ。パパが、「なんだと。」とでも言いたげな顔はしていたけど。


 夕食と入浴を済ませて自分の部屋に戻ってひとりになってからも浮かれた気分が冷めない。この日のあたしはどうやらふたつのことに目覚めてしまったみたい。


 ひとつは亮君の新しい魅力。おそらく彼の熱い本性を知っているのはあたしだけではないだろうか。ふたりだけの秘密があるということがたまらなく痛快だった。誰も知らない亮君をあたしだけが心得ている。その彼は誰が認識するより情熱的で粋なのだ。彼をひとり占めしたような心地がする。


 もうひとつは中学校に進学することに前向きになったこと。これまではなんら自覚も持っていなかったけど、亮君に刺激を受けてなにかしら志を持とうと決意した。当面の目標は目標自体を探すことだ。今はそんな低次元でもいいんだ。成長に繋がるような気がして少しだけ誇らしい。今夜はいつもより気持ちよく眠れそうな気がする。

 

 ただ、それにしてもあたしの就寝前の異常行動が省かれることはない。あたしの部屋と岳人の部屋を二往復して窓やドアの施錠の確認をしてやっとベッドに入る。言い忘れていたけど、あたしが施錠の確認によって侵入を防いでいるのは泥棒や強盗の類だけではない。幽霊とか怨霊とか物の怪など実体のないものからも自分と岳人の身を守っているつもりだ。ただ、この日はいつもより気分が穏やかであったことは間違いなく、あまり不安に襲われることはなかった。ただ、ひとりで学校から帰ることになって寂しい思いをしたであろう岳人の頬にキスをしてからベッドに入った。


 あたしは気分のいいとき、テンションの高いときはうつぶせになって寝ることが多い。ううん。実はうつぶせになって寝るのは亮君に関係することでいいことがあったときだ。うつぶせで寝るのには理由があって。仰向けになって寝るより身体的に程よい圧迫感があって断然気持ちがよかったの。誰かに覆い被さっている感触に陥るの。胸も腰も気持ちいいのだけど、下腹部が暖かく締め付けられているようで特に心地いいんだよね。


 ご機嫌な気分は眠りの中まで持ち越せた。眠りの中であたしはまた夢を見る。それは授業中に居眠りしながら見た夢に似ていた。あたしの頭の中に浮かんだ幻影は「一一三四日」。背景は暗くて文字は真っ白でその姿はやはり朧だった。  


 しかし、数字は非常に印象深く見間違いということはない。やはりなんだか気がかりで目が覚める。昼間と同じ様な夢だが、異なる点がある。ひとつは、昼間感じたあの優しい印象がまるでないこと。ひとつは、浮かび上がった数字がひとつ減っていること。昼間見たときは「一一三五日」だったはず。今は深夜二時。日付が変わって数字は一日減ったことになっている。ちょっと考えれば分かる。なにかのカウントダウンなのだろう。気になるのはなにをカウントしているかだ。今は二月で寒い夜であるのに、やけに空気が生暖かかった。ものすごく変な汗でびっしょり。


 正直に言おう。あたしにはこのカウントダウンがなにを数えているかがピンときた。


 あたしの命の残量である。どうしてそんなおかしなことを考えるの?もっともな質問だと思う。だけど、直感的にそう感じてしまったのだ。閃きってあるでしょう。あたしはこのカウントダウンを見てそう閃いてしまったのだ。


 この気付きはあたしならではのものではないだろうか。普通の人はそんなことは催さないのではないか。そうすぐに死を連想するものではないのだろう。あたしは毎晩、家族の平和を神様に祈っている。あたし以外の家族にもしものことがあれば、あたしの命を身代わりにしてくれと神様に念じている。つまり日頃から死ぬことを覚悟しながら生きているのだ。常に死を意識しているあたしには、幻影は命に係るなにかであると信じ込むのは当たり前のことなのだ。


 あたしは一一三四日後に死ぬ。疑いではなく確実にそう宣告されたのだ。もう着実に死の階段を上っている最中なのだ。途中で降りることなど許されない。こんなに怖ろしくて残酷なことがあるだろうか。人間誰でもいつかは死ぬものだということは自明である。それは当然あたしだって例外ではない。だけど、死は遥か遠くにあり霞んで見えないもの、いつ訪れるかが分からないから落ち着いていられるのだ。我が命の支配者の姿が見えてしまっては、正気を保てるはずがない。 


 死のなにが怖いというものでもない。死んだらあたしはただのたんぱく質の塊になるだけであろう。死の瞬間も痛いとか苦しいとかは一瞬の感覚だろう。多少長く苦しむことがあってもそれは病気や怪我のせいであり、死があたしに痛みを与えるわけではないのだ。


 あたしは死が怖ろしい。それはきっとあたしだけではなく全ての人間が持つ感性なのであろうけど。この世から消えてしまうことが怖ろしいというのともまた違う。なんなのだろう。この異常な、雷のような心拍は。いつもは聞こえない鼓動が途轍もない大きな音であたしを脅かした。涙が出た。流れる理由の分からない涙。寂しくもなく悲しくもないのに、ただ怖いだけで涙が出た。涙とはこんなに冷たいものだっただろうか。

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