第2話 女子小学生のあまりにも普通な一日(午前)

眩しい陽光が差し込んでくると、いつも目覚まし時計が鳴るより先に目が覚める。寝覚めが比較的いい体質で、毎朝気持ちよく起きられる。


 階段を降りてリビングに出るとコーヒーの香りが心地良く流れてくる。あたしはコーヒーを飲まないけど、パパの飲むコーヒーの香りは大好きなの。この臭いを嗅ぐと一日が始まるんだなあって感じがする。


 家族四人で揃って朝食を済ませたら、あたしは洗面台の前でちょっとだけおしゃれをする。おしゃれと言っても、寝癖をなおして髪にドライヤーをあてるだけ。気分によってはちょっと可愛いヘアピンで髪をとめるときもある。あたしの髪の毛はショートボブだから髪の毛のセットにたいした時間はかからない。本当は、もっと伸ばしておしゃれをしてみたいけど、それは中学生になってからのお楽しみと、自分の中で遊びを残してある。


 おめかしが終わる頃に岳人から、


「姉たん。早く行こう。」


と声がかかる。


「ちょっとだけ待ってね。」


 そう言ってあたしは部屋からランドセルを取り出し、そして机の前で手をあわせて、


「今日もいいことがありますように。」


と心の中で呟いてから、岳人のもとへ走る。


「優江っていつも遅いんだから。」


「優江って言わないの。お姉ちゃんでしょ。」


 岳人はあたしに文句を言いたいときはいつも優江って呼び捨てにする。例えば今みたいに待たされたときとか、テレビを見ていて岳人の見たい番組を見せてあげないときとか、ひとりでお菓子を食べているときとか。どうやら優江って呼び捨てにするのが好きみたい。きっと自分がお兄ちゃんになったつもりでいるのだろう。そんなところも可愛らしいのだけど。


 学校まで歩いて二十分くらい。学校にたどり着くとあたしは岳人の学年の下駄箱までついて行く。そして、岳人がちゃんと上履きに履き替えるのを確認してから、


「いってらっしゃい。」


と手を振って岳人を見送る。岳人も不思議とこのやり取りを恥ずかしがらず、「もう来ないでよ。」とか言ったりしない。いつも岳人が上履きに履き替え終わる直前まで、ふたりでお喋りをする。ときには話に夢中で上履きを履き終わってからも話が続くこともある。


 今日も無事にいってらっしゃいが言えてよかった。


「おはよう。」


という大きな声と急に肩を叩かれたことにびっくりした。声をかけてきたのは果歩ちゃん。クラスで一番の仲良しでいつも一緒に行動している。


「びっくりした〜。おはよ。」


 ふたりで靴を履き替えているときに、果歩ちゃんが慌てた様子であたしの耳元で囁く。


「優江。ヤバイよ。」


 なにごとだろうと思って後ろを振り向くと確かにヤバかった。後ろからひとりの男子が近づいてくる。この人の名前は望月亮君と言って、クラスでもあまり目立つタイプの男子ではない。どちらかというと大人しくて物静かな存在。だけど、実はあたしも果歩ちゃんも密かに憧れていた。果歩ちゃんはなんの躊躇いもなく亮君に大きな声で挨拶する。


「亮君おはよう。」


「おはよう。」


 亮君はこちらをちらりと見ただけだが、しっかり挨拶を返してくれる。このクールさというか、さり気なさがあたしの中で結構ヤバいのだ。なんとなく、他の男子と違って大人っぽい感じが凄くキュンとさせる人なんだよね。


「優江はバレンタインはどうするの?」


 果歩ちゃんはあたしが、バレンタインデーに亮君にチョコを渡したり、告白するのかどうかを気にしているみたい。


「んん。きっと何もないよ。」


 あたしは落ち着いてそう切り替えしたが、これは本音とは少し違っていた。中学に行ったら亮君と同じクラスになれるかどうか分からないのだし、今年がチョコを渡す最後のチャンスかもしれないから、ちょっと頑張ってみようかなという気持ちはあった。まあ小心者のあたしがどこまで行動に移せるかは分からないから果歩ちゃんにはそう答えるのだけど。


 朝のホームルームの時間に、先生から連絡事項があって卒業アルバムに載せる『将来の夢』を書く為の用紙を回覧するから全員二、三日のうちに書き込んでしまうように、とのことだ。この企画の話は大分前から聞いてはいたけど、正直あたしはなんて書こうか迷っていた。将来の夢とかなりたい職業なんて無かったから。

 

 希望と言うのか、願望みたいなものはいくつかあるのだけどね。医者になりたいとか、弁護士になりたいとか。だけど、卒アルに載せる程現実味も無いし、そもそも将来のことを本気になって考えているとまわりのみんなに思われるのが嫌いだった。うん。恥ずかしいっていうかね。だからそこには「お嫁さん」と書くつもりでいた。まわりの友達にもそう書くって言っている子が多いから、浮くことも恥ずかしいこともないし。実際、結婚っていうものに対して興味は人より強い方だと自覚していた。


 ウェディングドレスを着たいとかじゃなくて、所謂家庭のお母さんに憧れていた。亮君みたいな素敵な旦那さんと、ふたりくらいの子供と一緒に仲良く暮らしたい。子供は絶対にひとりは男の子が欲しいな。岳人みたいな男の子。ささやかだけど、照れずに胸を張って人に話せるあたしの夢はこんなことだった。


 ちょっとだけ気になる亮君がいることと、とても仲のよい果歩ちゃんがいる以外はあたしの学校生活は結構退屈なものだよ。特に勉強が好きなわけでもないが、成績はクラスの中でもなぜか上位に入っていた。だからこそ余計に授業が退屈だったのかもしれない。あまり真剣に先生の話を聞くわけでもなくボンヤリと窓から中庭を眺めたていたり、空想にふけっていることもしばしばだ。


 最近の授業は駆け足気味で行われていた。もう二月だから、先生はなんとか教科書の内容を消化しようとするのがバレバレの態度。そのせいかはいつも以上に退屈で、今も眠くなりなんだがウトウトしてきた。熟睡はしていなかったけど、眠っていたのではないだろうか。すっかり周りの声や音は聞こえなくなり、真っ暗な世界の中で意識がどんどん朦朧としていくなか、なにか不思議な感覚に包まれた。この感じはなんて例えればいいのか。なにか光のようだけど、眩しく輝いているわけではなく、白くぼんやりとしたものがあたしの下腹部の中に入っていったようだった。それは小さくて細くてあたしの人差し指程の大きさだった。なにかを授かったような感覚と言えば想像がつくだろうか。


 当然、夢なのだろうけど気持ちのよさは随分と鮮明だった。あたしの中に入り込んだ光は小さくトン、トンと音を立て上下に動いた。光はやがて形を変えて、 


「一一三五日」


という画像というにはあまりに朧な幻影となった。


「一一三五日ってなんだろう。」


 それがとても気になり目が覚めた。あたしは滅多に夢を見ないのに、この夢はいやにはっきりと印象に残っている。一一三五日の意味はまるで想像もつかなかったが、きっといい夢なのだろう。いい夢ならば続きが見たくてあたしはまた目を閉じて深呼吸をして浅い眠りについた。

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