第6話 トロッコ問題と自動運転


 例えば左側通行の日本で正面からトラックが突っ込んできました。右の反対車線は車が普通に流れています。避けるとすれば左にハンドルを切るしかありあません。ですが、左には小学生のグループが通学中でした。


 さて、人間ならどうするでしょうか?よほど強い意志の持ち主以外は左にハンドルを切って小学生に突っ込んでしまうのではないでしょうか。トラックとの接触が無い場合は非接触の誘因事故というケースです。

 保険の過失割合についてはいろいろネットに上がっていますが、それは置いて置いて道義的責任や刑法上の責任をだれが負うのか?ですね。この場合、左にハンドルを切ったことに合理性があればトラック側の責任になるようです。

 ただ、他に方法があった場合や運転者の状態等(スピードや道路の状況)など総合的に判断するみたいですね。


 まあ、この結果がどうあれ、トラックと運転者のどちらが小学生の事故に対して責任を負うかという話になります。


 ただ、自動運転の場合です。そして自動運転が法律で認められている場合、車の行動はメーカーがプログラムした自動運転プログラムに乗っ取って行われています。誰が責任なの?となります。


 現行の法律ですと「運転者に決まっているじゃない」となりますがそれだと、必ず搭乗者が必要だと人手不足の解決にもならないし、結果的にずっと注意を払っていなければならずテクノロジーの恩恵もなければ、発展性がありません。結局自動運転中にコーヒーを飲んだりできないし、無人化もできません。かえって集中力が切れて危ない可能性もあります。


 で、もう1つ。プログラムの中身の問題です。運転者責任の考えを延長するとプログラム上で運転者が犠牲になるべきだという意見もあるでしょう。


 優先順位の問題ですね。小学生の方が人数が多いからあえてトラックにぶつかるというプログラムを組むか、あくまで運転者を守るプログラムを組むか。無人なら問題にならないかもしれませんが、じゃあ右か左かという場面になった場合、右には1人、左なら5人。どっちにハンドルを切るプログラムにしますか?


 つまりトロッコ問題が生じてきます。左の5人は歩行者なのに左側通行していて、右の1人は法律を遵守して右側を歩いている。この場合は?歩行者と自転車で区別するか。年齢を判断するか?等々です。


 あるいは車線はみ出しの補正などでヒヤリとする人もいるかもしれませんが、ハンドルが強制的に操作されるプログラムだった場合は?誰が責任でしょうか?製造物責任を適用すべきでしょうか?運転者責任にすべきでしょうか?


 自動運転の問題は、どの生命をどう助けるか?という問題がプログラムによってきまるという問題があります。運転のイニシアティブは運転者なのか機械なのか。利便性や実用性、発展性とのバランスは?そして法律の整備ですね。この2つは今後のAI化が進んできた場合のプログラムの設計思想、哲学になってきます。


 そのAIのオーナーの宗教や思想によって考え方が違う場合、プログラムのカスタマイズを受け入れるべきでしょうか?特定の考え方以外認めないのは正しいですか?


 この手の議論は一部の人は真剣に考えているようですが、なぜかどんどん先行実験や現場での運用も始まっているみたいです。


 自動運転を販売するとき第3者のプログラムの監査は必要ないですか?それは公開されなくて大丈夫ですか?輸入するときにこのプログラムって解析する必要がないですか?違法改造されたら?自動運転の哲学は未来のAIの使い方に関わります。







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