第21話 契約結婚の終わり

 その日、なかなか帰ってこないソフィアをノアはひどく心配していた。

 普段の国立病院の仕事はさほど忙しい訳ではなく、診療時間を終えるといつもすぐに帰ってきている。


「まだソフィアは帰ってこないの? 何か連絡あった?」


「何もないよ。あったら言ってる」


 落ち着かない様子のノアとは反対にいつも通り冷静なカイルが答えた。


 夕食の準備は出来ており、ノアはダイニングでテーブルに着いて、カイルとハンナとダニエルは扉の側で待機していた。

 ノアは先に食べる事はせず、ずっとそわそわしながら外の様子を気にするように待っている。

 すると玄関のドアが開く音が聞こえた。


 ノアは扉の側に居た使用人たちよりも早く、一目散に玄関へ向う。


「ソフィア! 遅かっ……」


 そこに居たのはソフィアではなく不適な笑みを浮かべたルイスだった。


「叔父上……」


「ソフィア君は帰って来ないよ。国立病院の寮に住む事になったから」


 ルイスは胸元から一枚の書類を取り出すとノアに差し出す。

 ノアは受け取った書類を見るとみるみる顔を強張らせ書類を握る手には力が入る。


「離縁、申請書…………?」


「そう。そこに署名してね」


「叔父上どうしてっ!!」


 激昂し声をあげるノアにルイスは呆れたように息を吐く。


「誤解しないでよ。これはソフィア君に頼まれた事なんだから」


「ソフィアに?」


「そうだよ。ソフィア君はもう自分に出来ることは何もない、自分がいない方が呪いも解けるかもしれないと離縁する事を決めたんだよ」


 ノアはルイスの言葉に頭が真っ白になる。

 今朝だっていつも通りで変わった様子もなく仕事へ送り出したのに。


「どうして、何も言わずに……」


「ノアの顔を見れないんだそうだよ」


 ノアは眉を寄せ申請書を握り締めた。


「ソフィアを迎えに行きます!」


 飛び出そうとしたノアの肩を掴みルイスは止める。


「迎えに行ってどうするの? 離縁はしたくないとソフィア君にお願いする?」


「それは……」


「何のためにソフィア君が離縁を決断したと思ってるの? ノアの呪いを解くためだよ」


 このまま今の生活を続けているだけでは完全に呪いが解ける事はないかもしれない。それをソフィアはわかって離縁するべきだと決めたのだ。


「少し冷静になってよく考えてみるといいよ」


 ルイスはノアの肩をポンッと叩くと屋敷を出て行った。


 ずっと様子を伺っていた使用人たちも項垂れるノアに誰も声を掛ける事ができない。

 三人の横を素通りしながら自室へと戻っていったノアは離縁申請書を握ったまま背中からベッドに倒れ込んだ。


「まさか、こんな事になるなんて……」


 ソフィアが呪いを解くために離縁を考えているだなんて思ってもいなかった。

 呪いが完全に解けるまでは一緒に居られると思っていたノアは自分の浅はかな考えを今になって後悔の念が込み上げてくる。


「ちゃんとソフィアに自分の気持ちを打ち明けていたら何か変わっていただろうか」


 考えれば考えるほど胸は苦しくなり次第に体が熱を帯びてくる。

 ふと胸元を覗いてみるとほとんど消えかかっていたアザが少しずつ浮かび上がっていることに気付く。


「いけない。こんな事ではだめなんだっ」


 ノアは体を起こすと大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。


「ソフィアと離れたくないのなら、ソフィアにふさわしい人間にならなければいけない」


 ノアはあれからずっと読んでいた医術書を手に取ると、今、自分がするべき事をしようと心に決めた。


 数日後、ルイスに呼ばれたソフィアはルイスの執務室に来ていた。

 そこにはもう会うもつりのなかったノアがソファーに座っている。


「ノア様……」


 知らされていなかったソフィアは困ったようにルイスを見る。


「ごめんね、ソフィア君。ノアがソフィア君と一緒にじゃないと署名しないって我が儘言うからさ」


「叔父上……」


「じゃあ、後は二人でゆっくり」


 ルイスはそう言って執務室を出て行った。


 ソフィアはノアが座っている向かいのソファーに座るとノアの顔を見る事ができず俯く。


「ソフィア、ごめんね」


 ソフィアの困った様子にノアは今にも消え入りそうな声で謝った。


「いえ、私こそまだ完全に呪いが解けていないのに、何も言わないまま屋敷を出るような真似をして申し訳ありませんでした」


 本当は何度もノアに会いたいと思った。

 けれど、会いたかったからこそ会いたくなかったのだ。


「叔父上からソフィアの考えを聞いたよ。僕のためにしてくれた事なんでしょう? 僕の呪いを解くために」


 ノアの呪いを解くために離縁する事にしたが、黙って屋敷を出たのはただの逃げだった。

 自分が居てはノアが本当の幸せを手にすることはできない。

 そして、ノアが本当の幸せを手に入れる時、側に居るのはきっと辛くなる。そう思ったのだ。


「私はノア様の呪いが解ける事を、ノア様が幸せになる事を願っています」


「……ありがとう。僕もソフィアの幸せを願っているよ」


 ノアは離縁申請書を取り出すとテーブルの上に置く。

 少し皺のよったそれにノアは署名するとソフィアに差し出す。

 ノアの名前を確認したソフィアも少し震える手でゆっくり名前を記した。


「ソフィア、僕は明日から遠い東の国へ留学に行くんだ」


 突然の報告にソフィアは顔を上げ、ノアの方を見て固まった。


「以前、話したよね? 医術がこの国でも使えるようになれば、聖女でなくても治療をする事がきるようになるし、聖女の負担を減らす事ができる。叔父上とも相談して魔術師団員数人と一緒に留学に行く事にしたんだ」


 会うもつりはなかったのに、会えなくなると思うと途端に寂しさが込み上げてくる。


「ノア様、そんな遠い国へ行かれて体調は大丈夫なのですか?」


 心配そうにするソフィアに、ノアはおもむろにシャツの裾を捲り上げると自身の腹部にそっと手を当てた。それを見たソフィアは目を見開く。


「アザが……なくなってる」


 最後に残っていた下腹部辺りのアザも完全に消えていた。


「呪いが完全に解けたかどうかは定かではないんだ。今は完全に消えているけど、日によって消えたり、薄く浮かび上がったりしている。けど、前のように大きな不調はないし、なんとなくアザのコントロールができるようになった気がするんだ。だから心配いらないよ」


「そう、なのですね。良かったです……」


 屋敷を出て数日で、ずっと消えなかったアザが消えている。

 ソフィアは自分の判断が間違っていなかったと安堵したが、やはり自分が居ない方が良かったのだと悲しくなった。


「ねぇ、ソフィア」


 ノアが優しくソフィアの名前を呼ぶ。

 ソフィアは下げていた目線をゆっくりと上げノアと目を合わせた。



「僕は、君のことを愛している」



 その言葉を聞いた瞬間ソフィアは心臓が掴まれたように息が止まった。


「っ……」


「僕はずっと君に甘えていた。ずっと一緒に居たいと思っていた。だから呪いが解けなければいいなんて馬鹿な考えを捨てられなかったんだ。けど君が屋敷を出て行ってそれではいけないと気付いた。僕が君にふさわしい人間にならなければいけないと。本当の夫婦になるためには」


「本当の、夫婦……?」


 ソフィアは考えてもいなかった関係に声を震わせる。


「ソフィア、僕はいつ戻ってくるかわからない。けど、もし戻って来た時にもう一度僕と夫婦になってといいと思えたら……」


 ノアは真剣な表情でソフィアを見つめると、一度深く息をする。



「僕と、結婚して欲しい」


 

 ソフィアの瞳からは涙がこぼれ落ちていた。


「ノア様、私っ」


「今は、返事はしないで。振られたら僕のモチベーションがなくなるし、約束をしてソフィアを縛っていたくはないんだ。待っていて欲しいなんて言わない。ただ僕の気持ちを知っていて欲しかっただけだから」


 ソフィアは言いかけたた言葉を飲み込んだ。


「わかりました……」


 ノアは離縁申請書を取り、胸元に仕舞うと立ち上がる。


「最後に抱きしめてもいいかな?」


「はい……」


 ソフィアも立ち上がりノアの側へ行くと互いにそっと抱きしめ合った。


「お体に気を付けて、頑張って下さい」


「ありがとう。ソフィアもね」


 離れがたい二人はしばらくそうしていたが、どちらからともなく腕を下ろすと顔を合わせ穏やかに微笑み合う。


 そして二人で執務室を出ると、ノアはルイスがいるであろう魔術師団医術研究機関へソフィアは国立病院へそれぞれ向かった。

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