第22話 意地悪な君

 気分は重くても、一日は変わらず過ぎて行く。時計は二十四時間、休むことを知らない。

 だが時間の流れが遅いような、かと思えば何もせずにあっという間に終わってしまったかのような感覚は、誰でも一度は経験したことがあるのではないだろうか。

 要するに上の空だったのである。


「今日はちょっと売り上げ低かったなあ、あたしの気持ちが足りなかったわ、ごめん」

「いやあ、俺も、というかみんなだよ。明日……は休みか、明後日頑張ろう」


 本当に面白いもので、数字は自分たちの感情に比例して良くも悪くもなる。気合を入れて店にたった時はやはりそれなりに上手く回るし、そうでない時は客の入りも少ない。科学的には証明できないかもしれないが、実際そうなのだ。

 前向きな先輩達に桃花も頭を下げた。朝からあまり良くない空気を発した自覚はある。加えて今日一日、自分の思考回路がそっちに取られていた自覚も。


「あの、将弥さん……」

「なに?」


 そのまま晩御飯の支度に入ろうとした彼を引き止めて、桃花は今日一日暖めていた構想を告げた。


「マスターのお好きなもの、教えてください。明日は定休日ですが、晩御飯は、私が作ります」


 将弥の動きが止まった。


「やっぱり……届くかは分からないけど、やってみないと。時間だけでは解決できない気がするんです。私は、この先もずっと贖罪の気持ちだけでマスターにここへ立って欲しくない。そんなの、春子さんだって望んでいないに決まっています」


 自分を変えるきっかけを与えてくれたのは彼だった。一日考えて、自分に出来ることはそれしか思いつかなかった。


「言葉だけじゃ、伝わらないこともあると思うんです。マスターが春子さんを満たせなかった、というのは、マスター自身の思い込みだって、証明してみせます」






# # #





 翌日の夕方。冬の短い日はすでに落ち始め、外は薄暗くなっている。

 食材は全て揃えた。気合い十分、腕まくりをした桃花がキッチンに立つ。


「手伝わなくて平気?」

「手伝わないでください……!」


 その目は真剣そのものだ。心配になって一度は覗きに来た将弥と瑠衣だが、諦めて目を合わせると、静かにハルコを退場する。

 七時になったらマスターを連れて集合する約束である。


 時計は五時半を指していた。果たして一時間半で調理が終わるものかと桃花はひやひやしたが、将弥に「それ以上かかるなら手伝うぞ」と宣告されて、無理やりその時間に収めたのだ。

 一日かけて練ったシュミレーション通りにやれば大丈夫。なんとかなる。

 桃花の孤独な戦いが始まった。





# # #






「どうする、時間まで」

「んー、そうだな。落ち着いて話が出来るところに行こう」


 将弥の提案で、ハルコを後にした彼らは別のカフェに行き暇つぶしすることにした。

 彼らが知る由もないが、そこは以前桃花が秋仁と初めてお茶をした、こじんまりとした喫茶店である。奇しくも彼らと同じ席に座り、二人は飲み物を啜っている。


 普段は寒くてもアイスコーヒー派の将弥も、今日ばかりはホットコーヒーだった。瑠衣はいつものようにミルクティー。やっぱりマスターの淹れるのが美味しいなあ、と思いながら、自分も彼の紅茶やコーヒーには敵わないことを自覚する。


「……モモちゃん、食器割ったりしてないかな」

「悪いことを想像するのはよそう、過保護は彼女の兄貴だけで十分だ」

「それもそうね」


 訳もなくミルクティーをかき混ぜる。しばらく二人の間には無言が続いた。


 こうして将弥と二人で出かけるのは、いつぶりだろう。分からないくらい昔にしか行動を共にした記憶がない。仕事では毎日顔を合わせているのに、妙な気分だ。


「ハルコじゃないところでお茶をするって言うのも、へんな気分だな」

「そうだね」

「なんだかんだ言って、俺達あそこ好きだし」

「そりゃあね」


 自分たちの全てが詰まったと言っても過言では無い場所だ。泣いて、笑って、両親を亡くしてからの瑠衣の大事な記憶は全てあそこにある。


「……みんな、ばあちゃん好きだったもんな。ばあちゃんもきっと、みんなのこと好きだったよな」

「もちろん」

「満たされてたよな?」

「うん。それは絶対」


 在りし日の春子が頭の中で微笑みかけた。

 あの時言ってくれた言葉が本当なら、奥様。

 きっと天国で、笑っていますよね。


「なんか、いいな」

「何が?」


 机に肘をついて指を組む将弥の姿があった。


「じいさんとばあちゃんみたいに、お互いを大事に思い合えるのってすごくいいなと思って」


 すれ違っちゃってるのが残念ではあるけど、と笑うのに同調して、一緒に笑っておく。

 もしここであたしが、あなたのそういう人になりたいなんて、素直に言えたら。

 ううん。言えるならとっくの昔に言ってる。


 ミルクティーが腹の中で鉛のように重くなった。

 沈んだ気持ちにはフタを。良くも悪くもそれは接客業の中で鍛えられている。


「じいさん、気づくかな」

「きっと、気づくよ。モモちゃんが頑張ってる」


 喫茶店のカウンターの中では、夫婦らしき二人が出す料理の準備をしていた。幾分か年上だろうが、自分たちと大して変わらない。


 思い出したように将弥が言った。


「あ、そうだ。知ってた? ここ、ばあちゃんの実家」

「え? 嘘」

「親父の従兄弟の代に、カフェに改装したらしいよ。時代の波には勝てないってね」


 緑茶の香りも好きだったんだけどな、と将弥がひとりごちた。思い出の場所が変わってしまうのは言い知れない寂しさがある。

 

「じゃあ、あの方たち、親戚?」

「違う。バイトさんじゃない?」


 夫婦に見えたが、それも違うのだろうか。


 ちらりと自分のことが脳内を掠める。自分もそう思われてたり……なんて。それは無いか。

 横で笑った気配がして、瑠衣は一人で肝を冷やした。頭の中を覗き見られたようなタイミング。そんなはずはないと思っても、むせそうになる。


「ごめん、急に笑って」

「ホントだよ」

「初めて瑠衣を拾った日を思い出して」

「なんでいきなり。だいたいそれ、語弊があるよ」

「拾ったも同然だったじゃん。公園のベンチで行き倒れてたんだよ、お前」


 忘れもしない。あれは確かに馬鹿だった。

 両親が事故で亡くなったのはこんな寒い日のことだった。


 家には帰りたくなくて、慌ただしい葬式の後は学校にも行かずにずっと公園にいた。親戚の誰が何を言おうと断固として動かなかった。


「あの時……来てくれて、ありがと」


 言ったことのないお礼を言うと将弥が居心地悪そうに身じろぎした。

 

「当たり前でしょ」


 来ない彼女を心配して将弥が迎えに来なかったら、本当に死んでいたかもしれない。


「食べてないっていうからハルコに強制連行してさあ。瑠衣が泣けるまでばあちゃんが付き合って。大騒動」

「ごめんね」

「謝るなよ。ハルコにとっては大きな拾い物だったよ瑠衣は。意地っ張りで強がりだけどまっすぐぶつかっていくし。ハルコのこと、大事に思ってくれてるし」


 これだからこの人は。

 不意打ちに何度、やられそうになったか彼は知らない。実際やられていることも、多分知らない。

 いいところはいいと言う。好きなところは好きだという。大体にして誰に対してもそうであることは長い付き合いだ、こっちはそれをよく知っている。


「瑠衣はさあ」


 ふっと将弥が口を開いた。


「うん?」

「将来のこと、考えてるの」


 いきなり何を言い出すのかと思えば。


「何よいきなり」


 思ったことをそのまま口に出せば、「いやあ」となんとも煮えきらない答えが返ってきた。


「考えてるよ」

「本当に? このままここで社員として働いてていいの?」

「いけないの?」

「いけなくはないですけど」


 何を言いたいんだ。彼の事はよく分かっているつもりなのに、時々訳が分からなくなる。


「だってほら……その」


 もご、と口が動いたが声にはならなかった。だが瑠衣にはその口元だけで読めた。


『結婚とか』


 ああそうか、将弥の言う将来というのはそういうことか。


「考えてるよちゃんと」


 分かったら途端に腹が立った。こいつは、何にも知らずにそういうことをずけずけと。悪いけどあんたなんかに心配される筋合い無いわよ。馬鹿馬鹿馬鹿。

 待つことも大事だけれど、待っているだけの人に春はやって来ない。そんな事は百も承知だ。

 

 でも、少しくらいは夢見たっていいじゃないか。もしかしたら、なんて、もう少し都合のいい夢を見ていてもいいじゃないか。

 つまらない意地を張っている。それも分かっている。


「そっ、か」

「うん」


 いつになく歯切れの悪い将弥は、はっきり言って気持ちが悪かった。だがそれ以上聞き返すこともできず、またミルクティーを啜る。


「あのさあ」

「まだあんの」

「いや。ここからが本題」


 あるんじゃん。

 瑠衣は彼の横顔を盗み見た。その目はどこも見ていない。ただコーヒーの水面を見つめて、水面ではないどこかへ意識を飛ばしている。

 そんな切ない顔して、あたしに何を言おうっていうの。俺、実は今度結婚するんだとか言ったら張り倒す。……どころでは済まないかもしれない。ああでも、どうしよう。本当にそうだったら。

 沈黙が辛かった。早くして欲しい、心臓が保つ気がしない。


 将弥が口を開いて、閉じて、また開いて。

 そして言った。



「その中に、俺っていう選択肢はある?」



 たった今飲み込んだばかりのミルクティーが、喉の奥から逆流する。瑠衣は思わずむせ返った。


 なにそれ。その聞き方、なんなの。


 立っても歩いてもいないのに足元がふらつく。心臓は早鐘を打つ。

 そんな聞き方、狡すぎる。

 瑠衣は目をぎゅっとつぶった。でないと全身が破裂しそうだった。


「瑠衣の未来の選択肢の中に、俺が少しでも含まれているなら……俺を、選んでくれませんか」


 将弥が自信のなさそうな小さな声で、けれどはっきりとその言葉を口にする。

 来てしまった。ここで。このタイミングで。

 何年も欲しいと思って、叶わなかった言葉が。


「悪い冗談? なら蹴るよ?」

「いや本気」


 真面目なトーンで返されて、次の言葉を見失う。だが驚きはそれでは終わらなかった。

 テーブルの上に小さな箱が載る。


「俺は本気。瑠衣と二人なら、この先何年一緒でも、何が起きても、きっと大丈夫だって思うから。結婚を前提に、お付き合いしてください」


 受け取って欲しい。

 か細く囁かれた言葉に耳まで真っ赤になる。

 この大バカに、なんて返事してやろう。


「その前に……ちゃんと好きって言って、恋人にして。じゃないと、やだ」


 照れ隠しの言葉はしっかり将弥に伝わったようで、彼は溶けそうな甘い微笑みをたたえてこちらを見る。


「お望みとあらば、この先いくらでも。あー良かった。プレゼントまで買って振られたらどうしようかと」

「その軽いノリが嫌いなのよ」

「緊張してるんだって分かれよ」

「……分かってるよ」


 箱の中で眠っている指輪は、次の日から瑠衣の首元でネックレスに通されてずっと輝き続けることになる。

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