第24話 春の中の君

「で、きた……」


 滑り込みセーフ。やるじゃん自分。

 きちんとテーブルセットまで終えて、桃花は大きなため息をつく。集中力をちゃんと発揮すればなんとかなるものだ。


 ちょうどその時、ぞろぞろと年長組が入ってきた。もちろんひかると敦も呼んだので、例外ではない。先日思い立った「何かを皆に返したいプロジェクト」の一環でもあるからだ。もちろん今日のプチ主役、何が行われるかまるで知らないマスターも一緒だ。


「やるじゃん、モモちゃん」

「伊達に先輩方を見ていませんよ」


 将弥の驚き顔にちょっと胸を張ると、瑠衣がぽんぽん、と桃花の頭を叩く。


「またそうやってえらそーに。ありがとうございますって素直に言えば可愛いものを」

「す、すみません」


 その優しい手のひらの温もりが、怒っているわけでないことは理解しているつもりだ。

 

「今日はお休みで時間があったので、最初から最後までひとりで夕飯の支度をしてみました」


 まだよく分かっていなさそうなマスターに向かって、桃花は説明する。


「この間お手紙を書いた時から、一度はやってみたいなと思っていたので。お料理が上手な方々に出すのは気が引けますが……」

「いいのいいの。モモちゃんがそう思ってくれたっていう気持ちが大事。ありがとうね」


 将弥に先導されて皆拍手をする。銘々に盛り付けられた膳の前へ着席した。


「お口に合うかは分かりませんが」


 白いご飯に映えるメインはぶりの照り焼き。味噌汁はオーソドックスに豆腐とわかめと油揚げ。そばに小松菜の胡麻和え。そして綺麗な色をした卵焼き。


「よく焦げなかったね、卵」

「初めてにしては上手く出来た、んです、と思います、たぶん」


 感心したように言ってくれた瑠衣には、さっきより控えめに自慢してみた。今度は叩かれることもなく「よく出来てるよ」と褒めてくれる。良かった、と内心ほっとした。


「じいさんが好きなものばっかじゃん。ほら、卵焼きはよくばあちゃん作ってくれたよな」


 わざとらしいからやめて、と桃花は内心で悲鳴を上げる。レシピは黒木家のものを将弥から教えてもらったからそこそこ美味しいはずだ、だが全く同じように計って作っても、作り手によってまるで味が変わってしまうのが料理というもの。


『いただきます』


 揃って手を合わせる。


「ん、あ、美味しい。上手だよモモちゃん」

「ありがとうございます」

「……美味い」


 ひかると敦が先に賞賛の声を上げた。


「盛り付け方も綺麗だね」

「一応、本を見たので」

「ここまで出来たらモモちゃんはすぐにでもお嫁さんになれるね」


 なぜか将弥のその言葉で瑠衣がむせた。


「あ、お茶出し忘れてた。持ってきます!」


 詰めが甘いのはご愛嬌。それくらいは許して欲しい。


 それぞれのコップへお茶を注ぐ。

 桃花はちらりとマスターを盗み見た。


 いつもの微笑みに変化なし、か。

 落胆しかけた心を持ち直し、ぐっと背筋を伸ばす。そんなに簡単に行くとは思っていない。マスターの好物を苦心して作ったとはいえ、春子さんの料理には程遠いのだから。


「マスター」


 思い切って声をかけた。


「どうか、しましたか?」

「いえ……その」


 言い淀む。どこから、何を、どのように話せばいいのか分からない。

 料理の感想を求められていると思ったのか、マスターがふむ、と喉の奥を唸らせた。


「とっても、美味しいですよ。すぐにでもお嫁さんにいけそうですね」

「言う事は孫と同じですか!?」


 しまった。つい本音で鋭いツッコミが。ではなくて、本題を忘れるな自分。

 マスターは微笑んだ。どうやら彼なりのジョークだったらしい。


「と、いうのはちょっと冗談ですが。そうですね。懐かしい組み合わせです。これが出るのはだいたい、私の出世祝いだとか、そういう時でしてね……そう言えば、彼女は料理にそういった側面を結びつけるのが好きだったかも知れません」


 それはほんの少しだけマスターが見せた、しがらみの糸だった。

 たぐり寄せる。これを逃したらきっと、次はない。


「あの……この間の話の続き、してもいいですか」


 ピタリ、と彼の動きが止まった。

 

 こちらを見た、刃のように鋭利な彼の力強い目に迷う。老練な兵士を思わせるかのような、その目の威圧に、用意した言葉さえ吹き飛びそうになる。


「私なりに、色々考えました。考えて、どうしてもやっぱり思ったことがあって。それを、お伝えしなくてはと思いました」


 一度軽く目を閉じてから、桃花は、静かに言葉を紡いだ。


「春子さんは、きちんと……マスターに、満たされていたと思います」


 どうか。

 彼に届きますように。



「私が言っても、何の説得力もないし、私が春子さんでない以上は、ただの気休めだと思われても仕方ありません。ですが」


 これは究極の賭けだ。マスターの傷を少しでも癒すことが出来るか。それとも、深く抉るだけで終わるか。だがここで引くわけには行かなかった。


 彼に誇りを持って欲しかった。この場所と、自分自身に。


「一つだけはっきりしていることがあります」


 瞬きもせずに彼がこちらを見ていた。


「それは、いつも春子さんが笑っていたことです」


 午前中、将弥からマスターと春子さんの映るアルバムを見せてもらった。彼女が嫁いできた後のものだ。そこに映る春子は、全部と言っていいほど満面の笑顔だった。寂しげな笑顔ではなく、これ以上なく幸せそうな。


「あくまでも憶測ですが……春子さんが満たしたかったのは、マスター。あなたではないでしょうか」


 桃花を見る目が一瞬、ほんの一瞬だけ泳いだ。

 思ってもいなかったカウンターを、不意打ちで食らったかのような顔だった。


「春子さんの顔に比べて、アルバムの中のマスターの顔は一つも笑っていなかった。穏やかな表情になったのは、ここ数年の写真だけです」


 ちょうど、『きこり』がオープンした頃からだ。


「春子さんは……人のため、人のためと言って働くあなたに、目の前の人を幸せにする幸せを、知って欲しかったのではないですか」


 直接見えない誰かのために働くだけでは、きっとマスターは満たされていなかった。

 桃花も彼をじっと見つめ返す。気づいて欲しい。その一心で見つめ返す。

 人の心を満たすことは、自分が満たされていないと出来ない技だ。枯れ木に水をやろうとしても、自分の持つボトルに水が無ければ、注いであげられない。


「春子さんは、貴方から水を受け取って満たされた人がきちんといるということを、伝えたかったんだと思います」


 だから、自分がマスターからもらった、満たされた思い出のある紅茶でどうしてもカフェが開きたかったのではないか。


 目の前で人が笑顔になって帰っていく姿。

 自分がお客様から笑顔で「美味しかった」「また来るね」「ありがとう」と言われたとき、あの喜びは何にも変えられない。


 ずっと、仕事はお金のためにするものだと思っていた。だから世の中の人は疲弊しきってまで働き詰めて、生きるために仕事をしているのか、仕事のために生きているのか分からないような人生を送っているのだと思っていた。


 でも桃花の見たハルコの人々は、それだけではなかった。


 人を生かす。喜ばせる。喜んだ顔を見て、自分たちも嬉しくなる。

 自分以外の人のために働くことが、めぐり巡ってこんなに大きな満足を自分にもたらすなんて、桃花はここに来るまで知らなかった。

 春子さんの気持ちが、本当のところはどうか分からない。全てこじつけかもしれない。だが少なくとも彼女は、寂しい想いを抱いたまま逝った訳では無い。


「瑠衣さんから、聞きました。瑠衣さんの御両親が死んだ時、春子さんがこう言ったって」


 私ももうじき死ぬの。

 だけどね、寂しくはないし、ずっとずっと生きていられるのよ。

 私は雅也さんに愛してもらったから。


「『愛してくれる人が一人でもいるなら、私はずっとその人の心の中で生きていけるでしょう?』と。寂しくないし、寂しがる必要も無いと」


 だから。

 


「だから、責めなくて良いんです、マスター。春子さんにマスターの気持ちはちゃんと伝わっていたと、私は思うんです」


 どうか自分を許してあげてください。


 誰も動かない。物音一つ、しない。


「ありがとう」


 やがて、マスターのしわがれた声が言葉を発した。

 それは銀色の雫になって、ぽたり、と一粒だけ机に落ちた。

 










# # #










 ずっと寂しかった。

 いくら成功しても満たされなかった。


 幼い頃から、良くいえば好きなように、悪くいえば放置されてきた雅也は、自分の全てを認めてくれる存在を待ち望んでいた。


 評価されたい。

 自分を見て欲しい。

 人のためとはいいながら、結局それは自己満足の一環でしかなかった。それは確かに、大きな渇きだった。


 自分が彼女の笑顔に、救われるようになっていったのはいつからだったか。

 自分にとってのたった一つの幸せを、自分の手で握りつぶしたのだと悟った時にはもう遅かった。


 彼女はありとあらゆるものを残してくれたのに。


 愛しているとも、幸せだとも伝えたことがなかった。記憶にあるのは、長年積み上げた叱責の言葉だけ。


「春子」


 肌身離さず身につけている手帳に挟まれた大事な一枚を取り出して、雅也はゆっくりと指でなぞった。

 満ち足りた食事をして家に帰ってきた雅也は、自室にあるお気に入りの椅子に座って空想のひと時を過ごす。

 彼女が一番良く似合う季節。満開の桜の下で、子供たちを抱いて笑っている写真。


 今日はね、将弥と瑠衣さんの後輩が夕飯を作ってくれたよ。

 君もまだ彼女が小さい時に会ったことがあると思う。本条のところの真ん中のお嬢さんだ。この春に「ハルコ」で出会って、そのまま働いているんだ。


 心の中で語りかける。写真の中の彼女が微かに頷いた気がした。

 月が雅也の書斎に差し込んで、淡い蛍光灯になっていた。長年愛用している椅子に腰掛けて、彼女と話をする。


 初めは本当に人当たりの悪い子だったよ。

 嫌われるために生きているのではないかと思うくらい、一匹狼で愛想も悪かった。本人にその自覚はなかっただろうけれどもね。


 それが少しずつ変わっていって……今では、立派なハルコの一員になった。


 自分というものが何一つなかったあの子が、今日は強いまっすぐな目で私を見ていたよ。



 嬉しかった。


 春子。

 人を生かすことは、人に生かされることだったんだね。

 それをずっと、君は教えてくれようとしていたんだね。


 君が作ったあの場所が、二度と解けることはないと思っていた自分の雪をあっけなく解かす人を育ててくれた。


 もう二度と見ることは出来ないと思っていた春の光のような君の笑顔に、また巡り合わせてくれたよ。





「親父? まだ起きて……」


 廊下から顔を出した息子が、雅也の姿を見て動きを止めた。


「……お袋、元気にしてた?」

「ああ」


 息子は満足そうに頷くとそっと扉を閉めて彼の部屋を後にした。

 月が彼の背中を優しく包み込んでいった。

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