冬、送る人

第20話 無口な君

 日課の散歩が、二日に一回、三日に一回と間延びし始めたこの頃。

 理由は簡単だ。桃花が寒さに耐えられないからである。


 それでも気分が向いた日や寒さの少し緩む日は、上着を着込んでいそいそと出掛ける。時々散歩仲間ともいうべき顔なじみにも会うようになり、それがまた楽しかった。

 頬を切るような風が当たる。冷たさに思わず目を細め、身震いが起きる。


 太陽はようやく、顔を出し始めたところである。この時間帯、深い深い海の底から南の島の浅瀬のような色に変わっていく空が、桃花の一番好きな色だったりする。

 眩しさのない緩やかな冬のお日様は、自己主張することもなくどこか白くて寂しげだった。


 さて、今日はどちらに行こうか。


 縮こまる体をほぐすべく、その場駆け足をしてみたり上体を横に倒す運動をしてみたり。少し体を温めて、桃花はハルコを後にする。


「久々に公園でも行くか」


 行き先を定めて、桃花は一歩を踏み出した。


 行きつけの本屋を過ぎ、しばらく道なりに進むと大きな公園が見えてくる。桜並木と桃並木の両方があることで有名な「桃華公園」である。桃花がプチ家出をしたあの春、何となく親近感を覚えて降りることを決めた駅名の由来になった公園だ。言うなれば、ハルコと自分を繋げてくれた恩人のようなものである。

 今はすっかり葉も落ちて、がらんどうの並木道を、犬連れの飼い主たちが行き交っている。なるほど、散歩にはうってつけの道だ。


 ぼんやりしながら昨日あった出来事などを反芻していると、不意に昨日の秋仁とのメールを思い出して、桃花は顔をしかめた。

 

『三学期は自由登校なので、年が明けたら向こうへ行きます。帰ってくるのは卒業式だけになるかな』


 ここから新幹線で二時間ほどの距離にあるという、秋仁の親戚の家。行く手はずも算段もすでに整っているらしい。近頃は漫画の公募締切が近いとかで家に引きこもっているらしく、彼にはろくに会えていない。そのくせ、メールは毎日来るあたりがマメである。


 彼の夢は応援したい。自分の夢を応援してくれた人だ、当たり前だ。

 だが、簡単には会えなくなる。

 

 このことを考え始めると、いつも胸の奥が詰まってしまう。別に友達に会えないからと言って、連絡が途絶えるわけでも海外に行ってしまうわけでもないのに、なんだか腹の奥底がもやもやした気持ちに包まれるのだ。


 何故だろう。

 ここ数ヶ月の中で、桃花にとって間違いなく最大の悩みだった。もともと様々なものに執着心の薄い桃花は普段、悩むということをあまりしない。良くも悪くも即断即決、反省はしても、引きずらない性格である。よって、この感情の正体が分からない。

 寂しいのはただの独占欲だろうか、それとも別の何かだろうか。

 

 彼のふわっと笑う顔を見る度に、体温が上がるようになったのはいつからか。

 苦手な人種だと思っていた彼が、どんどん心に踏み込んできたのは。照れた表情が可愛いと思ったのは。真剣な顔をして絵を描いている姿が好きだと思ったのは。


 好きだと思ったのは。

 それは何の好きだろう。

 

 結論はまだ出ない。

 ネックウォーマーに険しい顔を埋めて遊歩道をゆっくり歩いていると、目立つ黄緑色のウェアを着たランニング中の若い男性が、自分を大回りをして抜かしていった。


「ん……?」


 なんだか後ろ姿に見覚えがある。

 違和感が消えないまま、その背中を目で追いかけていると、その青年は向こうからやってくるぐいぐい飼い主を引きずった柴犬にタックルを食らってよろめいた。


 寄ってきた飼い主……割と派手めな感じの若い女性と、過剰にわたわたしている雰囲気の、お兄さん。彼女は犬を近くの木につなぐと、彼に歩み寄ってきて何かを話し始めた。知り合いだったのだろうか。しかし何故かちぐはぐな雰囲気が漂っている。


 近づいてみると、ようやくその既視感と違和感の理由が判明した。



「ほんとごめんねぇ、うちの子、人が大好きなの。全然アタシの言うこと聞かなくてぇ」

「…………」

「ていうかお兄さん、イケメンだね? 言われない?」

「……………………」

「ねぇねぇ、いくつ? 名前は?」


 あの黒縁メガネは。そしてあのモデルばりの背の高さは。


「あー……あっちゃんだ」


 あの時は半信半疑だったのだが、初対面の人と口がきけないほどの上がり症というのはどうやら本当だったらしい。返事を全て身振り手振りで誤魔化そうと試みているが、失敗に終わっているようだ。肉食女子の押しを侮ってはいけない。

 見て見ぬふりをするか、どうするか。


 桃花が逡巡していたちょうどその時、彼の視線とぶつかった。パシリ、と痛い音がした気がしたほど、彼の眼力は強かった。


 あ、まずい。巻き込まれる。



「『助けて』って……言ってるよね、あれは」


 いやいや、自分は気づかなかった。この距離ならそんな誤魔化しも効くのではないか。そういうことにしておきたい。


 Uターンするのは流石に気が引けるとして、このままそ知らぬ顔で通り過ぎるくらいはありだろう。ひかるとは「お友達」だが、あっちゃんのことはよく知らない。それは事実だ。


 距離が近づく。三メートル、二メートル一メートル。


 ……ダメだ、負けた。目力怖すぎ。


「あー……にいさん、よかった、はやくみつかって」


 桃花は敦に近づいた。自分で聞いて呆れるくらいの棒読みで彼に声をかける。当然、敦に質問攻めをしているお姉さんは顔をしかめた。


「あなた、誰」


 それはこっちのセリフである。あんたのせいで、上手くもない演技させられるハメになってるんだぞ。


「あっちでおかあさんがまっていましたよ、なにやらいそいでるみたいでしたよはやくいってあげて」


 誰か、もうちょっとマシな嘘をつける能力と演技力を下さい。

 ロボット口調の桃花に、あっちゃんがぱちくりと目を瞬かせた。


 あれ……通じなかった?

 それとも、あっちゃんが望むシチュエーションじゃなかった?

 どっちでもいい。とにかくお姉さんとの会話は断ちましたよ。あとは自分でやってくださいね。


 そうして立ち去ろうとして。

 不意に右腕の袖が引っ張られた。


 おや?


 驚いて横を見ると、白くなるまで力の入った指が、桃花のダウンをつまんでいた。


「ち、ちょっと?!」


 彼は無言である。そのまま桃花のダウンを離すことなく、彼はどんどんと歩き始めた。待ってよぉ、と間延びする声のお姉さんが遠ざかる。

 その足はだんだんと早くなり、ついには走り出した。犬を連れた彼女が見えなくなったところで、ようやく彼は速度を緩めた。


「き、急に走り出さないで下さいよ……びっくりします」


 息を切らした桃花にぱちん、と手を合わせて敦が拝む。謝る気はあったらしい。

 彼はそばにあった自販機でホットココアを買うと、桃花に差し出した。これで許せ、ということのようだ。


「ありがとうございます……」


“ごめんね、巻き込んで。助けてくれてありがとう”


 さっとポケットから例のノートを取り出して、敦はそう書き付けた。


「なんだ、ペン持ち歩いてるじゃないですか。てっきりそれが無いから話せなくて、困っているのかと思いました」

“本当にパニックになっちゃうんだ。これの存在、忘れてた”

「たしか、敦さん……あっちゃんは、朝が苦手と仰っていなかったですか? どうして朝から公園を走っているんです?」

“いつもは夜中までアクセサリーとか作ってるけど、昨日早く寝たら体が起きちゃって”


 頭をぽりぽりとかく敦。鮮やかな黄緑色のウェアは、行き交う人からも注目の的だ。顔が派手なんだから、もう少し地味な格好をすればいいものを。

 桃花は恥ずかしそうに視線を逸らす彼をじっと眺めた。


「……そういえば、どうして……そのペンとノート、使うようになったんですか」


 気づいたら声に出していた。しまった、と思ったのは、彼の顔がふっと陰ったのに気づいてしまったから。


「ごめんなさい、興味本位で聞きました、忘れてください……」


“いいよ別に。そりゃ気になると思う”


 敦が顔だけで苦笑した。

 声のない苦笑なんて、見たことがなかった。


“どうせならそこに座って少し話をしない? 時間大丈夫?”


 桃花は頷いた。まだ開店までは少し時間がある。


 座面のペンキもすっかり剥げて寂しいベンチに、二人で並んで腰掛けた。こうして近くで見るとやはり彼は日本人離れした端正な顔立ちで、色々な人から声をかけられるのも必然だと思ってしまう。将弥も秋仁もイケメンの部類ではあるが、彼を引き合いに出してしまうと霞むのだ。


「じゃあ、あっちゃん。それで、続きをどうぞ」

“うん。くだらないっていうか、大したことない話だけどね”


 ペンが少しだけ止まった。


“俺、派手な顔らしくて、昔からしょっちゅうよく知らない人から声かけられて”


 でしょうね。

 頷く。ペンが紙の上を走る。


“もともと内向的で部屋にこもってずっと何か作ってる方が好きなタチだったから、一々断るのも面倒だった。何度か絆されて付き合った子もいたけど、僕があまりに内向きすぎて彼女に大して構わなかったせいか、全員にすぐ振られた”


“あと、可愛いもの好きの性格も災いした気がする。僕の私物を見た子、けっこう引いてたし”


 勝手に期待されて、勝手にがっかりされる。そんなもの、誰だって疲れてしまう。

 ……が、引かれるような私物とは一体何を持っていたのか、そこはちょっとだけ気になる。ちょっとだけ。


 お爺さんがひとり、杖をついててくてくと二人の前を歩いていった。

 頭に乗っているハットに缶バッチがたくさんくっついていたのも、ちょっとだけ気になった。


“女の子に対しての諦め、とかいうよりも……段々、怖くなっていった。人と話すことが。好かれるのも御免だけど、嫌われるのも嫌だなと”


 いけない。ちょっと注意がそれたうちにノートが次のページへ進もうとしていた。敦の書く速度は尋常じゃないのだ。慌てて追いつく。


“どんどん口数が減る僕に、ある日友達がノートとペンを押し付けてきた。これが今日からお前の声の代わりだ、声を出すのが怖いならこれに書けって言われて”


“ついでだから、今までのお前を全部ぶっ壊すようなキャラクター作っちゃえって言われて。思ってること何書いても嫌わないやつにだけ、口聞けばいいって言われたら、すごく楽になった”


「それで、ノート」


“そう。気づいたらこの妙なキャラクターもノートも全然手放せなくなってて、今でもこの体たらく。そろそろ止めなきゃとは思ってるんだけど”


 一瞬だけ日差しが強くなった。すぐ弱まって、靄のかかる白い朝が戻ってきた。


 敦の目が、遠くを見た……気がした。

 遠くを。桃花の知らない過去を。誰かを。



 ああそうか。

 妙に納得する。

 多分、この人は。



「怖い、ですよね」


 はっと彼が目を見開いた。


「また何か言われるのも、嫌われるのも……ううん、それだけじゃない」


 多分、私と一緒だ。


「その大切なお友達と過ごした時間、全部が消えてしまうみたいで、怖いんでしょう?」


 記憶というものは曖昧だ。

 都合のいいように消したり足したり、知らなかったことを知っていたことに出来たり、それはもう適当なものだ。

 だから人は出来るだけ記録に残そうとする。文字や絵や写真、モノ。


 きっと彼にとっての会話用筆記具は、その友達との大事な大事な思い出なのだ。大袈裟かもしれないけれど、人生を変えたくらいの大切なおまじないのような物なのだ。


 桃花と敦の間を木枯らしが駆け抜けた。歩いて上げた体温はとうの昔に冷めている。遠くで雀の声がした。


「私も、怖いです」


 いつか忘れてしまうのではないか。

 大切な人に忘れられてしまうのではないか。


 そうやって考えた事が、最近で一体何度あっただろう。

 いずれここからいなくなる。日常が日常でなくなる。いつかそれに慣れて自分でも忘れていって、暖かいこの日々はぬくもりを失ってしまう。


「だけど」


 恐れるだけでは駄目なのだ。

 他ならぬ自分の為に。自分に生きる道を示してくれた誰かの為に。


「『敦さん』はその人のお陰で、自分の中に閉じこもらずに人の輪へ入れるようになった。でも今度は、過去に閉じこもっている。それでは結局、何も変わっていません」


 桃花は敢えて彼を名前で呼んだ。

 過去の中に留まるだけなら誰でもできる。成長もしなくていい、その分痛みも知らなくて、楽に生きていける。

 でもそれは、望む道では無いはずだ。

 変わることを、怖がってはいけないのだ。


「忘れるか忘れないかは、自分で決められることだと思います。過ごした日々もその中で感じたことも、敦さん――あっちゃんが忘れたくないと思うなら、きっと忘れない。だって過去は変えられないから」


 記憶は変えられる。だが過去は、誰がどう記憶違いを起こしても動かない。


「それで十分だと、思います」


 視界が一気にぼやけた。落とすな、絶対に落としてはいけない。上を向いて堪えて、気合で阻止した。


「……なんて。偉そうに言って、ごめんなさい。全部自分に今言い聞かせているだけなんです」


 そうでもしないと大声を上げて泣いてしまいそうだから。馬鹿みたいに大声で行かないでと言ってしまいそうだから。


 枯葉が一枚膝の上に落ちた。努力と忍耐で涙をひっこめて下を向き、手で払うと崩れてジャージにくっついた。脆かった。


 うん、と唸るような声が聞こえた気がした。弾かれたように顔を上げる。だがそこには無口な敦が、表情一つ変わらずに座っているだけだ。

 言う事は言えた。後は彼の受取り方次第だ。

 先に帰ろうと思って腰を浮かせる。その時。


「……忘れるか、忘れないか。自分で決めて、いいんだ」


 掠れる声が耳を打った。驚いてもう一度振り向くと、にっと口の端を挙げて笑う彼がいた。


「ありがとう」


 桃花が初めて聞いた声は、予想よりもずっと低くて落ち着いた音色をしていた。彼の手が一度だけ軽く頭に乗ると、中腰で固まったままの桃花をすっと抜かして立ち上がる。

 スタスタと歩き出した敦を桃花が走って追いかけた。


「え……切り替え早すぎません……?!」

「色々、吹っ切れた」

「……まあお役に立てたならいいですけど」

「朝ごはん」

「あー、一緒に食べましょうよ。きっとみんな喜びます」


 一際大きな風が吹いて、思わず桃花は首をすくませた。

 それに被せて敦が何かを呟いた。


「あいつも」

「はい?」

「いや」


 突然走り出した彼を追う。


「ちょっと、何度も言いますけど突然走らないで下さいってば!!」

「寒い。冷えた」


 にっ、とすこしいたずらの色を含んで笑う顔は、いつもの何倍も明るい気がした。桃花もその顔を見て精一杯の笑顔を返してやった。


「おはようございます、将弥さん」

「おはよう……あれ珍しい、おはようあっちゃん」

「……はよ」


 一瞬将弥がびっくりした顔をした。が、瞬く間に目を細めてゆっくりと唇を上げた。



「お守り、要らなくなったんだ?」

「ああ……たぶん」


 曖昧な返事だなあ、といいながら将弥がフライパンにもう一つ卵を落とした。じゅっ、と焦げる音がして、あたりに朝の香りが漂った。

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