第13話 閑話 ジンジャーティーソーダ
「お待たせいたしました」
空になったアールグレイのグラスが下げられ、代わりに頼んでもいない飲み物が置かれる。
えっ、と声を出しかけて、すんでのところで留まった。カウンターの向こうで人差し指を口に当てウインクした青年と目が合ったからだ。
あの人は『将弥さん』っていうんだっけ。
一礼して去っていった女性に声をかけることも出来ないまま、榛名秋仁はじっとそれを見つめた。
目の前には、炭酸の気泡の立つ紅茶色の飲み物。グラスの縁には、レモンがおしゃれにひっかかっている。
そしてコースターの下からはメモ用紙のようなものが覗いていた。
秋仁はそれを慎重に引っ張り出した。
“あなたから新作案を頂いた、と聞きまして、メニューブックに載せる前に是非、飲んで頂きたかったので。感想をお待ちしております。閉店後、少しお時間をいただけますか?”
秋仁はもう一度目線を上げる。今度は厨房からこちらをそっと伺っていた桃花と目が合った。慌てて逸らされ、挙句目の届かない流し場エリアに逃げ込まれる。一瞬見えたその顔はしかめっ面だったように見えて、密かに彼はため息をついた。
連絡先を交換し、最近ようやく交わすようになったとりとめないメールでは、彼女とそこそこ親しくなったような気がしていたのに、会えばいつもこの調子である。
今日空いているなら来て欲しいです。もし出来たら、閉店間際に。
朝そのメールで目を覚まし、舞い上がっていそいそと来てしまった自分が情けない。
彼女が恥ずかしがって逃げているならまだしも、嫌で避けられているなら立つ瀬がない。なによりくるくると変わる彼女の表情を見られなくなったのが残念で、秋仁は出していたノートのとある一ページを開いて再びため息をつく。
そこには貴重な彼女の笑顔が描かれていた。
後にも先にも、秋仁がちゃんと笑った桃花の顔を見たのはマンガについて語り合ったあの時だけだ。
頭を振って気持ちを切り替えた。
味見という名のサービス自体はとても嬉しい。険しい顔をしていれば、人をよく見ている彼らに誤解されてしまうかもしれない。
ささっていたストローで一口目を吸い込む。
口の中にガツンと炭酸と生姜の味が当たった。
痛い、辛い味覚が鼻まで刺激する。後から追いかけるのは爽やかなレモンの風味。そして最後に、しつこくないすっきりとした紅茶の渋み。
あ、これは、美味しい。
ベタベタしない甘さも好ましい。続けて二口、三口と吸い上げる。底から上がる泡と飾りのレモン、見たそのままの爽やかさを詰め込んだような味。
さらさらとペンが落書きノートの上を踊った。
現れたのは先ほどウインクを投げてきた『彼』のイラストである。
何やっても絵になるなあ、この人。
どうあがいてもこうはならない自分の童顔を、少々恨んだ。
時間をつぶしながら新作ドリンクをちまちま飲み進めること数分。
ちょうど最後の一口を飲み終わる頃、帰らない秋仁を少し訝しんでいた最後の客が席を立った。丁寧な所作で頭を垂れる一同につられ、秋仁もその後ろ姿へ会釈する。そのまま『将弥さん』が店の看板をクローズに置き換えて……くるり、とこちらに顔を向けた。
「どうもどうも、こんにちは。いつもご利用いただきましてありがとうございます!」
あれ?
なんか、思ってたキャラと……違う?
「ど、どうも……?」
戸惑ったのも仕方がない。
その軽々しい口調は、秋仁が知る『将弥さん』のそれではなかった。
「その無駄にハイテンションなの、なに? 静かにしなさいよ」
「いって! お客様の前で暴力なんて言語道断だよ瑠衣」
「あなたが榛名さん、ですね。こんばんは。騒がしくてすみません」
騒ぎを聞きつけたのか、初老のマスターが苦笑しながらやってきた。緊張して固まる秋仁に、彼は穏やかな口調で言葉を紡ぐ。
「普段は皆さんもうちょっと大人しいんですが、いつも来てくださる常連さんとせっかくお話できるという機会に、つい張り切ってしまっているようで」
やいやいとまだやりとりしている二人を見ながら、マスターがこっそり教えてくれる。こんな新しい側面が見られるなら、自分としては全然構わない。
「桃花さんもすぐ来ると思いますから、少しお待ちくださいね」
「は、はい……」
席で固くなっていると、入れ替わりのようにして将弥がやってきた。
「それで、どうだった? 新作」
ちゃっかり自分の分のコーヒーを淹れ、彼が向かいの席に腰掛けてくる。秋仁は慌ててノートをカバンにしまう。ひょいと取り上げられて中身を見られてしまえば、死刑は確定である。何となくそういった侮れなさを、秋仁は将弥に感じていた。
瑠衣も同様に近くの席へ腰掛けた。が、桃花は一向にこちらへ来る気配がない。
避けられている疑惑がやっぱり拭いきれない秋仁だったが、とりあえずそれは置いておく。まずは質問に答えなくては。
「凄く、美味しかったです。これが本当にジンジャエールと紅茶? って感じで。びっくりしました」
「だってよー、モモちゃん」
将弥が厨房へ向かって大きな声をかけた。彼の呼びかけが終わらないうちに、食器が派手な音を立てて崩れ落ちる音がした。
「うわっ! 大丈夫!?」
慌てて厨房に走る彼。秋仁も腰を浮かしかけたが、部外者が中に入るわけにはいかない。
『怪我は?!』
『な、無いです、取り落としただけ』
『それならいいけど……気をつけてよ?』
『はい。食器割ったら弁償ですよね』
『そこじゃない! 女の子なんだからもっと怪我とかに気をつかえってこと!!』
カーテン越しから聞こえる会話。姿の見えない二人。
地面が揺れた錯覚に陥った。黒いモヤが胸に立ちこめる。
何だ、この感覚は……
「アキくーん、顔怖いよー」
ぱたぱたと目の前で手を振られ、我に帰った。
「将弥は女の子にはみーんなあんな感じで過保護だから、気にすることないよ」
「あ、そうなんですか……って、別に」
「隠さなくてもいいって。モモちゃんは全然、これっぽっちも気づいてないけど、あなたの視線が追っかけてる先くらい、あたし達にはバレバレだから」
呑気に新作のティーソーダを飲む、瑠衣の言葉。秋仁は思わず真っ赤になった。
「分かりやすい、ですか」
「まあねえ。接客業って観察業だから」
瑠衣は悪びれる様子もない。
「ああ見えて彼含め、あたし達は口堅いよ」
「信じますよ?」
「ぜひぜひ。それとついでだからもう一個。モモちゃんのあれ、別にあなたの事が嫌いな訳では無いから」
「……ホントですか」
「うん。友達っていう存在が彼女、昔は薄かったみたいだから。知り合いが職場を覗きに来てるみたいな感覚でちょっと気恥ずかしいだけよ、たぶん」
恋愛対象としては見てなさそうだけど、という都合の悪い部分は聞き流した。別にいい、嫌われてさえいなければ。
「あなたの話をする時、なんだかいつも楽しそうだもの」
「ももさんが?」
「うん。あの子はきっと、正面からグイグイ来られるのに弱いタイプだと思うよ。きみの思ったこと、まっすぐぶつけてあげてほしいな」
一番そばで桃花を見ている人が言うなら信頼できる。
秋仁はこくり、と頷いた。
「そういえば自己紹介がまだだったわね。斎藤瑠衣です。よろしく」
「榛名秋仁です。よろしくお願いします」
「春も秋も入っているなんて、欲張りで素敵な名前ね」
マイペースな会話に巻き込まれていると、桃花を伴って、将弥も戻ってくる。桃花は洗い物のためにまくっていた袖を、落ち着かなさそうになおしていた。
「俺も俺も自己紹介! 初めまして、黒木将弥です」
「榛名秋仁です」
「名前かっこいいよね。顔は可愛い系だけど」
桃花の前で「可愛い」とは言われたくなかった秋仁は、少し複雑な心境になった。
「ええと、お久しぶりですアキくん」
そわそわした彼女の落ち着かなさを見かねて、瑠衣が横から口を出した。
「今回の試作、初めてモモちゃんが作ったやつなの」
「ちょっ、瑠衣さん!」
慌てた様子の桃花をさしおいて、瑠衣はどこか楽しそうだ。
そうかな、とは思っていた。秋仁はしっかり桃花の目を見て言葉をかけよう、と思った。
「めっちゃ美味しかったですよ」
「え、ああ、うん……ありがとうございます」
「紅茶の渋さが程よくて、生姜とレモンと炭酸とのバランスも良くて。あと甘さ控え目なのも、俺的には嬉しかったです」
言葉を重ねる度に顔をしかめる桃花。心が折れそうになる。
だけど瑠衣さんが教えてくれたのが本当なら……ここでめげるな、俺。
「モモさんならやってくれるって、俺信じてました!」
「うっ……ううっ」
くぐもった声が彼女の喉の奥から響いた。
「そ、それはどうも。良かったです」
「まさか本気で作ってくれるなんて、思ってなかったんですけど」
「あれ、冗談だったんですか!?」
「半分は」
本当のことを告げると一層深く眉間にシワが刻まれた。だがよく見てみると、彼女の耳がほんの少し、赤い。
「もしかして、照れてます?」
その赤がぶわっと耳まで広がった。
「はっ恥ずかしいのでその、見ないで下さいお願いします」
……神様仏様瑠衣様。
いい事を教えてくれてありがとうございます。ももさんが可愛すぎる。昇天しそうです。
秋仁は心の中で天をふり仰いだ。
「せっかく、アキくんにティーソーダというものがあると教えていただきましたし……それに、私も『キミうた』にイメージをもらった商品ができるなら、嬉しかったので。あ、でもこれは……公式コラボレーションじゃないので、私とアキくんの秘密、ですけど」
秘密。
ぶわり、と自分の頬にも熱が集まるのがわかる。
なんと甘美な響きなのだろう。
顔を逸らした桃花をしっかりと見つめた。
帰ったら落書きコレクションに足さなきゃ……って、ちょっと変態すぎるか。
一度だけ見たことのあるベストショット「笑顔」に続き、「照れた顔」が秋仁の落書き帳に描き加えられたのはわずか数時間後の事である。
# # #
流れで晩御飯まで一緒にどうか、となった秋仁だったが、用事があるという彼を引き止めるわけにもいかず、結局いつもの四人で晩餐となった。
今夜はさっぱりと冷やし中華である。
生野菜と麺を、ハルコの特製ゴマダレでいただく。優しいピンク色をした紅生姜はなんとマスターが自分で漬けたものだ。焼きそばに付属でついてくるようなものとはまるで別物の美味しさに、思わず「美味しい」と声が出る。
「言えるようになったねえ」
「はい」
実際のところ、今日秋仁に「美味しい」と言ってもらうまで、その言葉の効力をいまいち分かっていなかった。だが、さっきの数十分で痛感した。それが作り手にとってどんなに嬉しく、ありがたい一言であるか。
出し惜しみするべきではない。言った人も言われた人も嬉しくなる魔法の言葉だ。
食べることは、そのまま命をつなぐことである。美味しいものは人の心も体も満たし、幸せにする。
そこに作る人の笑顔と誠意がある限り。
「美味しいです」
もう一度言って桃花は続きを口に運んだ。
「でさあ、モモちゃん。そろそろ笑顔の代わりにしかめっ面するのやめない?」
将弥が水をみんなに注ぎながら言った。
「む、無理です……」
「接客中は大分ましになったけど……アキくん来る度にその顔じゃあ流石に彼も傷つくんじゃない?」
はた、と箸を止める。
「傷、つく」
「だってしかめっ面って、ただの嫌悪感丸出し顔だよ? いい加減俺らは慣れたけど」
「……別に、そんなつもりは」
「なくてもそう見えるってこと。それって損だと思わない?」
しばらく固まっていた桃花はこくり、と頷いた。
「んでもって出来れば、俺らもモモちゃんの笑顔見たいしさ。ねえ瑠衣」
「そりゃあねえ。モモちゃんは笑った方がカワイイに決まってるんだし」
瑠衣も同意を示す。ますます桃花の顔が険しくなった。こりゃダメかな。
二人が諦めかけた、その時だった。
「髪の毛でも、切ってみますかね……」
将弥と瑠衣は顔を見合わせた。
「どう思いますか。外見からでも何かひとつ変えてみれば、こう、一歩踏み出せるかと……って、そんな引きつった顔をしてお二人ともどうしたんです?」
桃花が顔を上げると、ちょうど二人がスローモーションのようにゆっくりとお互いの表情を確認しているところだった。
「あのモモちゃんが?」
「今まで色々なことにあんなに頑なだったモモちゃんが?」
『自らアクションを提案した!?』
そんな、シンクロしなくても。桃花が目をぱちくりとさせていると、顔を見合わせていた二人がこぞってこちらに向き直る。
「モモちゃんごめんね」
「は? え? 何が?」
「お兄ちゃん、モモちゃんのことバカにしてたかも」
「……はい?」
「お姉ちゃんも謝るわ。ずっと何にも分からない、いいとこのお嬢様扱いしてごめん」
それは桃花が来た当初、ことある事に「お嬢様だもんね」と揶揄されていたことを指すのだろうか。どうして今それが関係あるのか、桃花には分からなかったが、とりあえず「気にしていません」とだけ言う。
「やばいわ、お兄ちゃん涙出そう」
「お姉ちゃんも号泣しそう」
おどけた台詞とは裏腹に、二人の目尻には光るものが浮かんでいた。
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