第12話 優しい香りのミントティー

 皆が一様に扉の方を振り返る。

 思わず泣いてしまった桃花の目にも、ぼやけてはいるがその姿は映った。


 将弥よりも少し、背の高いくらいのすらりとした体型。白いハーフパンツに淡い水色のシャツを合わせるコーディネートは、モデルのようなこなれ感を漂わせている。

 突然の来訪者に慌ててティッシュを何枚も引っつかみ涙を吸わせると、戸惑うようにその人影が入口で止まった。


「あ! おかえり!」


 ひかるが嬉しそうな声を上げる。続けた一言は桃花がフリーズするのに十分過ぎる内容だった。





「意外と早かったねえ、あっちゃん」





「あっ、ちゃん……?!?!」


 ティッシュの隙間から、顔をのぞかせる。


 あっちゃんは美女。あっちゃんは美女。

 ひかるみたいに目がぱっちりで人形みたいな愛らしい顔立ちで、笑顔が可愛らしい小柄な女の子。

 の、はずが。

 桃花の脳内での「あっちゃん像」がガラガラと音を立てて崩れ落ちた。


「この子が話してた桃花ちゃんだよー、可愛いでしょう?」


 誰か、説明して。

 私がいつも話に聞いているあっちゃんとはまるで別人、赤の他人だと言って。

 助けを求めて視線をさ迷わせるが、もちろん誰も気が付かない。

 小パニックを起こしていた桃花のそばへ「あっちゃんもどき」はためらいながらも近付いてきた。そしてポケットからおもむろに小さなノートを取り出し、何かを書き付け始める。


 やがてそれは桃花の眼前へ差し出された。


“及川敦です。ひかるがいつもお世話になっております”


 丸文字が綴られたノートを持つ腕をたどる。その腕がくっついている胴体の上には、端正な顔立ちのメガネ男子。

 ……そう、見まごうことなき、男子…………


「あっちゃんって……敦、さん……」


 その様子で、ようやく三人が桃花の異変に気付いた。

 と同時に、揃って吹き出した。


「これは、わざと私を騙していたということでよろしいのでしょうか」


 すっかり涙も乾く。

 なんなの、さっきの感動を返してください。

 感情の抑揚なく尋ねる桃花に一同は首を横に振る。


「忘れてたあ、あっちゃんは男だって言わなかったっけ、あたし」

「知りませんでした」

「やだあ、一回もお兄ちゃんって言わなかったっけ」

「言っていません」

「だって、ねえ。あっちゃんはあっちゃんだから。性別をカテゴライズすること自体が無意味っていうか」

「あっちゃんは可愛いものが大好きだから『あっちゃん』って呼ばれる方が嬉しいんだよね」


 コクコクと頷くあっちゃん。

 

「だからモモちゃんも年齢とか気にしないで、あっちゃんって呼んであげて」


 ひかるの言葉に、さらに彼は頷いた。

 恥ずかしそうな表情の彼はちょっと、いや、かなり女の子っぽい。

 桃花は戸惑いながら瑠衣に耳打ちした。


「瑠衣さん、あっちゃんさんって、その……」

「あ、オカマではないよ」


 仕草や文字まで女子っぽいのに普通に男。黙っていればモデル級にイケメン。キャラクターのバランスがちぐはぐすぎる。


「ていうか流石に社会人になって、いい加減そのノート癖は克服したんじゃなかったの」


 ああ、筆談でしか話ができないと言っていたのはこういうことだったのか。桃花は先ほどのひかるの話に納得する。

 将弥の問いに敦は表情をくもらせた。ペンがノートの上を走る。


“一応克服はしたんだけど、初対面の方の前ではちょっと……”


「まったく、あがり症は変わんないな」


 顔を上げるのも恥ずかしいと言った体で俯いてしまった敦を、桃花はただあっけに取られて見つめることしか出来なかった。

 マスターはそんな喧騒などどこ吹く風で、夕飯の最後の一口を咀嚼していた。


「敦くんも食べませんか、まだ残っていますよ」


 マスターがカレーを勧めたので、敦も一緒に夕飯を食べることにしたようだ。将弥が立ち上がって用意する傍ら、ほとんど食べ終わっていたみんなも、付き合いがてら雑談に花を咲かせることになった。

 将弥が食後のミントティーを持ってくる。ハーブティーには今まで馴染みがなかった桃花だが、将弥や瑠衣が定期的にいれてくれるものを飲むようになってからは、すっとする香りが気に入っている。


「ところでモモちゃん、今日の収穫はあった?」

「収穫……あ、参考になりそうなものなら、一応」


 本条桃花、緊張の人生初プレゼンである。今日買った本を読みながら、部屋で資料もまとめてきた。それを見せながら、今日撮ってきたベリーティーの写真を全員で回覧する。


「へえ、美味しそうだね」

「見た目もかわいー。女の子好きそうだね」


 肯定的な意見は女性陣で、将弥は「原価がな……」などとぶつぶつ呟いている。


「あとは、ティーソーダとかいいんじゃないかって……」


 そこで桃花が止まったのは、その発案者が「誰なのか」を言わなければいけないことに気づいてしまったからだった。そういうことに関してクソがつくほど真面目な彼女に、自分の手柄にしてしまうという発想はまるでなかった。


「……お友達が」

「お友達? モモちゃん、連絡取り合ってる友達とかいたっけ?」


 鋭く切り込んできたのはやはり将弥だった。スルーしてくれることを願っていたが、やはり彼は誤魔化されない。

 それもそのはず、ここへ来てから数ヶ月の間、桃花の口から『友達』という単語が出てきた試しがないのだから。


「そこはいいです、気にしないでください。 諸事情によりお友達にならざるを得なくて………… で、どう思いますか」


 諸事情って何だ。

 ツッコミたくなった周囲だが、ここで口を挟むと桃花が不機嫌になるであろうことは簡単に予測がつくのでやめておいた。とりあえず黙って待つ。


「その人、適当に紅茶とジンジャーエールを混ぜたことがあるらしいんですけど、割合を研究したら絶対美味しくなると思うとかなんとか」


 ティーソーダとは、簡単に言えば紅茶のソーダ割りみたいなものである。ティーソーダが存在するならば、ジンジャーエールの紅茶があっても理論上おかしくはない。


「なるほど、いい案かも知れませんね」


 黙って聞いていたマスターが相槌を打った。


「今までにない系統ですし、いいと思いますが。どうでしょう?」


 瑠衣も将弥も頷く。とりあえず案としては及第のようだ。ほっとしてため息が零れた。

 ひかるが良かったねえと背中を叩き、桃花も真面目な顔つきを少し緩める。



 完全に、油断していた。


「ところで」


 将弥が何気ない口調を装って話題転換の符号を口にした時、桃花以外の人間は皆、次に来る話題の察しがついていた。


「そういえばさっきモモちゃんが泣いた話題でも『知り合い』って出てきたよね、その人とティーソーダの人って、同一人物でしょ」


「なっ?!」


 不意をつかれた桃花は目を白黒させて視線を泳がせる。


「もーちょっと詳しく聞かせてもらおうか。その様子、俺達も知ってる人だよね」

「そ、そこまで分かるものですか!?」


 うっかり口をすべらせた桃花に複数の憐れみの視線が向けられたが、それが誘導尋問であったことにすら桃花は気が付かない。

 しかし次の瞬間、その目は好奇の視線へと早変わりした。


「アールグレイの、人、なんですけど……」


 それから桃花が質問攻めにあったのは言うまでもない。

 彼についての知りうる全てを説明し終わる頃には、時計もすっかり十時を回ってしまっていた。






# # #







「おはよう、ございます……」


 眠たい目を擦ってハルコの扉を開ける。昨日は少々夜更かしをし過ぎた。


「あれ、おはよう。お散歩今日は行かないんだ?」


 外に出る代わりにハルコの厨房を覗くと、将弥が既に朝ごはんの支度を始めていた。

 爽やかな朝日を受けて調理場に立つ将弥は物理的に神々しい。ありそう、こういう映画のワンシーン。


「少し寝坊してしまったので……」

「そっか」


 俺も眠いや、とあくびをする彼につられ、桃花もせり上がってきたあくびをかみ殺す。

 カウンターには座らずに厨房にそのまま入った。


「珍しいじゃん。どうしたの?」

「将弥さんの手つきを見てみようと思って」

「なにそれ、なんか緊張するんだけど」

「お手並み拝見です」


 普段一緒に仕事しているとはいえ、ぼうっと誰かの手元を眺めるような暇はない。桃花はじっと将弥の作業を見つめた。

 苦笑しながらも、彼の手早くご飯を器に盛るスピードが落ちることは無い。その上に昨日のカレーととろけるチーズを乗せ、オーブンに入れると今度は冷蔵庫からレタスを取り出した。


「焼きカレーですか?」

「そう」


 好物が二日続くなら大歓迎である。

 実家では思いつきもしなかった(というよりそもそも自分で料理などしたことが無い)が、とろけるチーズを上に乗せたあつあつカレーの魅力に勝てるものはそういない。


「やった」


 将弥が驚いたようにこちらを見た。


「……なにか?」

「いや……今、モモちゃん、『やった』って言ったかなと思って」

「言った、かも」


 無意識だった。


 うわあ激レア、と将弥が頬を緩める。


 言われてみれば、ご飯が美味しいと思っていても口に出すことは無かったかもしれない。自分の過去の言動を振り返る……うん。言ってない。


「もしかして、けっこう今まで失礼でした……?」


「いや。別に良いんだけど、そりゃ美味しいとか嬉しいって言ってもらえた方が作りがいはあるよね。もしかしてモモちゃん、意外とカレー好きなの?」


 昨日もおかわりしてたし、とやはり彼は目ざとい。


「あ、はい。ベストスリーに入るかも」

「へえ。覚えとく」


 いるなら手伝って、とばかりにドレッシングを調合したボールを渡された。混ぜろということだろう。

 レタスを水で洗いながら将弥が尋ねる。


「モモちゃんに問題です。美味しいレタスの見分け方は何でしょう」


 手を止めた。頭を巡らせる。なんだろう……

 

「ええと……見た目ですか。赤くなってないかとか」

「残念。ていうか赤いレタス置いてあったらその八百屋鮮度が問題だよね」

「じゃあ何ですか」


 けらけらと笑う将弥に正解をせっつく。


「正解は、重さです」

「重さ? 重い方がいいんですか?」

「と思うでしょ? レタスは軽い方がいいの。キャベツは逆ね、重い方が身が詰まってて美味しいしお得」


 春キャベツは軽いが、その分柔らかいのだそうだ。「なんかの役に立つかも知れないから覚えておきな」と言う彼に頷いて脳内にメモをする。そうこうしているうちにトマトをさくっと切ってしまった将弥がサラダを盛り付けた。


「将弥さん、まな板にトマトひと切れ残って……」

「それはモモちゃんの分。ドレッシングもかけときました。お手伝いしてくれた役得ね」


 混ぜただけで役得なんて、まるで子供扱いだ。ちょっと膨れそうになったがありがたくトマトはいただく。喉を酸味が駆け抜けた。


「ん、いつもと、違う」


 味に違和感。将弥がにやりとこちらを見る。


「正解。今日のはいつもの調合じゃなくて、ちょっと遊んでみました」

「マスタードで辛いけど……いつもよりまろやか、かも」

「よく分かったね。砂糖の代わりに蜂蜜入れたんだ」


 いい舌してるなあ、と将弥が感心したように唸った。


「いい舌ってさ、小さい時からいいもの食べてないと育たないんだ」

「そうなんですか」

「うん。だからモモちゃん、ご両親に感謝しないとね」


 少し固まってから、頷いた。ためらいなく頷ける日は、きっと近い。そう信じて。



「おはよー……あっれ珍しい。モモちゃんだ」

「おはようございます」


 昨日散々遅くまで騒いだ後だ、朝のテンションが毎日低い瑠衣の今日の寝起きはどんなやら、と冷や冷やしていたが、それは取り越し苦労だったらしい。割としゃきっとした顔をして瑠衣が降りてきた。


「んー、いい匂い。焼きカレー?」

「そうそう。もう焼けるよ、席ついて」


 仕上げにミントティーを注いだ将弥からグラスを受け取り、四人分席に並べた。


 伸びをしながら瑠衣がカウンター席に腰掛けた。桃花も隣に座る。

 勇気を出して、ここはひとつ。


「瑠衣さん」

「……んー?」

「昨日のカレー、すっごく美味しかったです」


 将弥同様、瑠衣の目が驚きに満ちる。構わず桃花は続けた。


「私、けっこうカレー好きで……良かったら、今度教えてもらえませんか、その……野菜カレーの作り方」

「いいよ、いいけど……どうしたの急に。料理目覚めた?」


 これには将弥も目を見開いていた。構うものか、やっとひとつ、興味を持てそうな事が見つかったのだから。


「はい。まずは包丁の使い方から教えてください」


 瑠衣と将弥が顔を見合わせた。そして、同時に吹き出した。


「え、ひどい、ちょっとそこ、笑うところですか」

「笑うところだよ」



 嬉しいの、あたしも将弥も。

 頭をめちゃくちゃに撫でられて、桃花は抗議の声を上げながらされるがままになっていた。

 朝から賑やかな声が外まで響き渡る。

 

 それはどこまでも青い夏の空に吸い込まれて消えていった。

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