第11話 カレーのお供は水

「んー、やっぱり瑠衣ちゃんのカレーは美味しいー!」


 ひかるが満足げにため息を漏らした。

 今日は一緒に雑貨屋を経営している「あっちゃん」が仕入れで帰りが遅くなるとの事で、一緒に夕飯を食べることになった彼女。普段は共に食べるのは朝食だけなので、新鮮な光景だ。ムードメーカーの彼女がいるのといないのとでは、まるで騒がしさが違う。賑やかな夕飯もたまには悪くない、と思いながら桃花はカレーライスを口に運んだ。

 

 今日のメニューは瑠衣の作ったカレーである。実家のカレーとは違い、ハルコのものは色とりどりの野菜をふんだんに使う野菜カレーだ。独特の甘みが美味しく、密かにカレー好きな桃花としてはレシピを盗みたい美味しさだった。今度作り方を聞いてみよう、と思った。けっこう喜んで教えてくれるかもしれない。


「で? なんかあったの?」


 さりげなく全員のサラダを取り分けながら、将弥が尋ねる。そういう細かい気遣いに関して、彼は誰よりも女子力が高い。


「なんか、って……あ、新作案なら」

「そっちじゃなくて」


 箸のおしりがにゅっと伸びてきて、桃花の眉間をつついた。


「いだっ」

「いつもに増して険しい顔してるよ」


 はっとして額を押さえる。心配そうにこちらを見る、四つもの顔があった。


「険しいっていうより、落ち込んでるっていうか……ねえ? ひかる」


 瑠衣に振られたひかるも唸る。

 

「んー、言われてみればそうかも。生気がない、みたいな感じ?」

「そんな……死人じゃあるまいし」

「だって本当そんな感じだもん。影が薄いっていうか、存在感が希薄っていうか」


 随分な言い方である。しかし、自分の顔はそんなにわかりやすいらしい。そういえば先程も、秋仁に同じようなことを言われた。そして彼といえば……

 一層顔が暗くなった桃花に、一同は顔を見合わせた。


「無理にとは言わないけど、さ」


 ためらいがちな将弥の続きをマスターが引き取る。


「自分の質問が、つまらないことだと思ってはいませんか? 人生の先輩がこれだけそろっているのですから、何でも聞いたらいいですよ」

「そうだよ、遠慮は無しだよ。どんなにくだらない事でも笑ったりしないから言ってごらん」


 ひかるも援護射撃をくれる。

 分からなければ聞けばいい。

 その基本スタンスを繰り返されて、桃花の中で何かがゆっくりと外れた。


「皆さんは」


 桃花の言葉を一言も聞き漏らすまいと、全員の手が静かに止まった。桃花は俯いたまま……カレーのくっついたスプーンを見つめたまま、その問を口にした。


「どうして、それぞれのお仕事につくと決めたのですか」


 グラスに注がれた水までもが、静かにそれを聞いているような静寂だった。


「どうして、ねえ……」

 

 将弥が腕組みをして桃花の質問を反芻する。桃花は質問の理由を続けた。


「今日、偶然本屋で会った人と少し話をしていたら、流れで将来の話になって。その人はマンガが大好きで、絵もとても上手で、進学しないでマンガ家になるそうです。そういうのを聞いてしまうと……自分が、向き合うことから逃げ出した、ただの馬鹿みたいな気がして」


 『キミうた』の話をしている時は良かった。時間を忘れて楽しく話せていたのは確かだ。けれど彼と分かれて一人になって、色々と会話を反芻しはじめたら……ダメだった。


「好きなことがある人とか、それを仕事にした人というのは、どうやってそれを見つけたのかな、と。好きなことも興味のある事もない私は、どうしたらいいのだろうと」


 思ったよりも素直に言葉が出た。皆がきちんと耳を傾けてくれていると思えば、怖くない。そしてなにより、きっと彼らはそれぞれ異なった答えを持っている。


「んーと、誰から答える? これ」


 真面目な雰囲気を壊さないようにしつつも、軽い口調で問いかけたのは将弥の優しさだろう。


「じゃあ、あたしから!」


 名乗りを上げたのはひかるだった。豪快にカレーを一口頬張ったのは、将弥のトーンに合わせるために違いない。


「あたしはねー、特に好きなこととかなかったんだよね。確かに、ファッションとかおしゃべりはもともと好きだったけど、じゃあアパレル業界とか洋服屋さんの店員になりたいかって言われたらそこまでじゃなくー、みたいな、中途半端な感じだったかな。やりたいことがないって意味では、ちょっとモモちゃんに似てたかも」


 ひかるは懐かしそうに目を細めた。


「その点あっちゃんは、ちっちゃい時からものづくりが好きで手先が器用でね。将来は自分のお店持つって、ずっとそれが夢だったみたいなんだけど……」


 そこで将弥が吹き出した。


「あいつ、口下手どころの話じゃないからね」

「そうなの! 人と筆談レベルでしか話せないシャイなのに、接客とか出来るわけないじゃない?」


 筆談レベルのシャイというのはなんだ!?

 かなり気になるが取り敢えずそっちは後で聞くとして……桃花はもう一つの引っかかった方を、瑠衣に尋ねる。


「将弥さんと瑠衣さんって、『あっちゃんさん』の昔からのお知り合いなんですか?」


 彼女は野菜カレーの人参を口に入れながら頷いた。


「あれ、言ってなかったっけ? ひかるも入れて、私たち四人とも同じ高校なの。あっちゃんが先輩、私と将弥が同学年で、ひかるが後輩ね。とくにあっちゃんと私たちは生徒会も一緒だったし、けっこう仲良かったよ」


 あっちゃんは生徒会の一年先輩だったのだそうだ。学校で知らぬ者はいないくらい、三人は仲良しの有名グループだったらしい。


「眩しすぎる青春ですね……」


 瑠衣と将弥は美男美女であるし、ひかるの姉なのだからあっちゃんも美人だろう。だが彼らが生徒会とかいう華やかな学生時代を送っていたとは、想像もしなかった。


「将くんがここの一階に店出さないか、って提案してくれたお陰で、あの頃の仲良しだったみんなが集まっているの、すごい奇跡だと思ってるの」

「ひかるが販売員やってくれなかったら、完全に立ち消えてたけどね」


 ひかるが懐かしそうに目を細めた。


「あたしがあっちゃんのお店の販売員やろう! って思ったのは本当に偶然でね。ちょうどあたしが就職活動する前だったの、あっちゃんがお店を出すのを本格的に検討し始めたのは。就活とかめんどくさいし、あっちゃんの夢を叶えてあげられるならそれでいいかな、って感じで」


 堂々と「将来探しがめんどくさかった」と切って捨てるひかるに、桃花は唖然とした。


「その、後悔は」

「ないよ、全然! そりゃもうこれっぽっちも!」


 両親には一言「大学までせっかく行かせたのに」と呆れられたそうだが、反対はされなかったようだ。


「この仕事ってやってみたら楽しいこといっぱいあるし、色んな人と出会えるし。フツーの会社でOLとして働くより、あたしには全然合ってるのかもね」

「そうだね、君もあいつも会社の車輪になっちゃうと潰されるタイプかもな」


 でしょー、と明るく言う彼女には返す言葉もなかった。そんな姿も彼女らしくて、桃花にはとても眩しく映った。


「結局、ひかるもあっちゃんも『天職』を見つけたんじゃないかなって思うよ。私は、ここが天職かは分からないけど……でも、今は楽しいし、ここを良くしたいって思っているから、ハルコに来て幸せかな」


 瑠衣もひかるを眩しそうに見ながら、相槌を打った。


「瑠衣さんは……音大に行きたかったんでしたっけ」

「うん、そう。ホントは音大に行きたかった。それか美大。ピアニストになるんだって思ってた時期もあったくらいピアノが好きだし、絵を描くのもすごく好きだったから」


 瑠衣のピアノ好きは有名な話である。店内のBGMが彼女の演奏によるものだと知った時には、びっくりを通り越して愕然としてしまった。休日には時折リクエストにも答えてくれる。聞いた曲をコピーして弾くのもお手の物だ。


「けど、両親が亡くなって……ここにお世話になって」


 改めて聞くと胸が潰れた。瑠衣は好んで両親の話をしようとはしない。桃花の中では避けてきた禁忌の話題である。


「マスターは、本気でやりたいことならお金は出すって言ってくれたの。だけど……ここで働いているマスターと奥様を見てたら、『あ、自分の仕事はこれだ!』って直感的に思って……」

「瑠衣って大事な決定打を直感に委ねるよね」


 茶化すような将弥に、瑠衣は「悪い?」と噛みつく。


「まあ、上手く言えないけど。もしあたしがピアノの道を進んでたら、自己満足で終わってたかも、っていうのは今でも思うんだ」

「自己満足?」

「うん。我が出ちゃうっていうか、傲慢になっちゃうっていうか。認めてもらいたいって気持ちが強いから、結局周りに嫉妬とかしちゃって、潰れちゃったと思うんだよね」


 彼女の手元は適当にカレーを掻き混ぜていた。


「自己顕示欲って誰にでもあるものだと思うけど、それってどんなに凄い技巧で演奏できても趣味の延長でしかないと思うの。『働く』っていうのはさ、傍を楽にすること、だから。凄いって褒めてもらうために仕事するのと、あなたのお陰で元気が出ましたって言ってもらえる仕事をするなら、あたしは後者の仕事の方がしたい」


 ピアノでもそれが出来る人もいるだろうけど、やっぱりあたしは評価が欲しくなっちゃう人間だから。

 マスターと奥様を見てたらそう思った、と瑠衣は締めくくった。


「じゃー最後は俺か」


 瑠衣の視線を受け、将弥が引き継ぐ。


「モモちゃんが気づいてるかどうか怪しいので、一応言っておくね」

「はい……?」

「俺は昔、『デパートKUROKI』の跡取り息子でした。モモちゃんのご実家が、一部事業で提携しているくらいは流石に知ってるよね」

「えっ」


 さらりと告げられた事実に思わずスプーンを取り落とす。動揺を隠しきれなかった桃花に将弥は「やっぱりね」と呆れて肩を竦めていた。


 それなら、桃花がここへ来る時に父が即決したことも肯ける。デパートKUROKIの元社長と父は懇意だった、と小耳に挟んだことならあった。


「ま、ある程度ご立派なお家に生まれた俺だけど、絶対跡を継がないっていって散々反抗して逃げ回ってたのね」

「将弥らしい話でしょ」

「瑠衣は余計なこと言うな」


 形勢逆転、今度は将弥が跳ね除ける番である。


「実を言うと……俺には二つ年下の弟がいるんだけど、そいつがモモちゃんのお兄ちゃんみたいに、めちゃくちゃデキのいいヤツでさ。嫌になっちゃってたっていうのもあって。それでいっつもここに来ちゃ料理やって、逃げてた」

「兄を、知っているんですか」

「よーく知ってますよ。お互いに。学校は違ったけど、なんだかんだと一緒になる機会は多くてね。進学塾とか」


 おどけてウィンクした彼に、空いた口が塞がらない。別に、隠していたつもりは無いけれど一言も自分の出自を言ったことがないのに、将弥には全部知られていたなんて……

 動揺する桃花をよそに話は進む。


「それで、瑠衣もここで働くとか言い出すし、俺もそれでいいやって思ってじいちゃんに頼んだら」

「次の日目が開かないくらいに張り倒されていた、と。今思い出しても酷い顔だったねあれは」


 しみじみと呟いた瑠衣の言葉に、桃花はぎょっとしてマスターの顔を見た。


「そんなこと、ありましたかねえ」

「とぼけんなジジイ」


 小声で将弥が悪態をつくも、大きい声で言う勇気は無いらしい。


「でも、はっとはしたね。『仕事を逃げ場にするんじゃない。やるからにはプロになれ』って言われて、ギクってなった」


 それから一度家族会議をきちんとして、将弥は改めてマスターに頭を下げたらしい。


「色々、あるんですね……」

「仕事というのは本当に、人それぞれですよ」


 マスターが穏やかに言った。


「私も若い頃に起業しまして、その時のモットーといいますか、信念といいますか、それは『より良いもの、より本物に近いものをたくさんの家庭に届けたい』ということでしたね」


 老いを感じさせない、キラキラと眩しい瞳が桃花を捉える。デパートKUROKIを創業した時の話だろう。


「一線を引退した後は、妻の希望でカフェを始めることにしたのですが……その時も頭にあったのは、やはり『より良い商品でより良い時間を過ごしていただきたい』というのがありました」


 桃花は吸い込まれるようにして、マスターの瞳を見つめ続けた。


「簡単に言うと、結局私の願いというのは、出来る限りたくさんの人に幸せを届けたいという、その一点に尽きるのですね」


 嫌なことがあった時も、嬉しいことがあった日にも。

 お気に入りがそばにあって、そこで満たされるということ。

 マスターの目指す店の形が、そこにあるのだと思った。


「『人を生かす』という言葉は、おこがましいかも知れませんが『人を幸せにする』に通じるものがあると思います。幸せには人それぞれの形があるでしょうが、一時でも『満足だ』と思っていただけるような時間とサービスを提供出来たら、これ以上私にとっても幸せなことはありません」


 マスターの表情は、春の日差しのように穏やかだ。桃花は彼の目を見て、相槌を打つようにしっかり頷いた。


「人が生きる意味は、人を生かすことにあるような気がします。人生とは、人が生き、生かされることの繰り返しで成り立っている」



 難しい話になってしまいましたね、と笑ったマスターは、優しい表情の中に、希望に溢れたものを宿していた。


「要するに、向いてる向いてない、好き嫌い、じゃ言いきれないんだよなあ、仕事って」


 将弥が腕を頭の後ろで組んで独り言のように呟いた。

 大事なのは、自分が持ってる限りある人生を何に使うのかということ。


 ひかるが桃花の顔をのぞき込んで言う。


「だって興味無いんだもん、ってシャッター下ろす前に、一通り何でもチャレンジしてみない? もしかしたらさ、そこに運命の出会いが転がってるかも知れないよ?」


 はい拭きな、と瑠衣がティッシュ箱を差し出す。それを見て初めて自分が涙を流していることに気がついた。


「え、どうして、私、泣いて……」


 ぼろぼろと膝を濡らす雫。それは止まることを知らない。


「感情能面のモモちゃんが人前で泣いた! あたし、そんないい事言っちゃったかなあ」

「どう考えてもマスターか俺でしょうよ、少なくともひかるじゃないよ」

「自分で言うなアホ将弥」


 やいやいと言い合う声を聞きながら、桃花は心の中で首を横にふった。

 誰の言葉が、ではない。どれも大事な言葉だったけれど。

 全員の暖かい気持ちが、心の奥の方に流れ込んできたからだ。


 その時、ハルコに来客を告げるベルが鳴った。

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