第9話 意外なアイスコーヒー
その頃、噂の渦中の人間、桃花は雑誌コーナーの前にいた。
(将弥さんが本を探してみろって言うから、来てみたけど……)
すっかり行きつけと化した、春先に見つけた例の本屋。定休日の半分は、気がつくとここで過ごしてしまっている。
ただ休みの日に行くのはいつも決まった書棚なので、雑誌のエリアには足を踏み入れたことがなかった。とりあえず右から左へ、表紙の一覧をざっと見てみる。有名な俳優や女優の姿が並ぶ中に、料理の写真らしき表紙も混ざってはいるが、果たしてこれが目当てのものなのだろうか。
いったい、どれを読んだらいいか分からないんですが。
飲食に関することであっても、本の種類はまさに多種多様だ。毎日の食卓に並ぶような作り置きおかずの本から初歩の家庭料理、はたまたサンドイッチ、パン作り……どれも料理初心者の自分には役立ちそうなものばかりだが、今日の目的はそれではない。
しばらくして雑誌のコーナーにいても問題が解決しないことに気付き、専門書のコーナーへと移動した。
手始めに紅茶とサンドイッチの本を探そう。ざっくりと的を絞って桃花は本を漁り出した。
「自分の食べたいものをメニュー化しました!」という思考回路は、あいにく桃花には備わっていない。
それならばまず、ヒントのもとになりそうな王道や基本を勉強しよう。カフェで出しているメニューのことを学ぶのは、有意義に思えた。
いくつかパラパラと手に取って眺めてみる。どれも美味しそうな写真が載っている。写真のアングルや、机に置いてある小物に至るまでオシャレだ。
しばらく悩んで桃花が手に取ったのは、「サンドイッチと紅茶の本」というなんの捻りもないタイトルのものだった。
タイトルの捻りが無いだけに、書いてある中身もシンプルだ。基本の作り方や淹れ方、注意点も書いてある。ご丁寧にも季節ごとに章が分かれていて、それぞれオススメの組み合わせまで載っていた。これならカフェにあるメニューと照らし合わせながら、これからの時期に合いそうな一品を見つけられるのではないか。少し希望が見えてくる。桃花はうんうん、とひとりで頷いた。
多少値は張るが、熟読する用に一冊手元においてあって損は無いだろう。
財布の中身を確認する……よし。大丈夫。
昔の自分なら考えなしに即買いしていただろう。恵まれていたのだ、人の働いたお金で好きなものを好きなだけ、選びもせず買えていたのだから。ちょっと大人になれたような気がして、誇らしい。
趣味にお金を割きすぎると生きていけないことが分かったのは、つい先日の事だ。新しい本を買おうと思って財布を開いたら……そう、何も入っていなかったのである。お札もカードも何も。あの時の心臓の冷え方と言ったらなかった。
これやめます、とレジで言うのは恥ずかしい。絶対にやりたくない失敗のうちの一つだ。その時は恥を忍んで、やらざるを得なかったわけだが。
レジのおじさんにも顔を覚えられてしまっているので、生暖かい視線を向けられたのが居た堪れなかった。あれほど死にたいと思ったことは無い。
ということで今日はきちんと確認を済ませた。大丈夫。
レジは先程まで眺めていた、雑誌コーナーのそばにある。本を持ってそこそこ列の出来ていたレジに並ぶ……と。
視界に飛び込んできた表紙に、思わずカエルが潰れたような声が出た。
「な゛……」
どうして、どうしてさっき見落とした……!?
よく考えれば今日は二十六日。とある月刊誌の発売日だ。すっかり忘れていた自分が許せない。
無情に進んでいくレジ待機列とはうらはらに、桃花はその雑誌の表紙から目を離せないでいた。
自分の大好きな少年マンガが、巻頭カラー拡大版で載っている雑誌がそこにあったのだ。
今日は仕事の本を買って終わり、と決めたのだ。だが、しかし。
「お次のお客様、こちらのレジへ……」
呼ばれてはっと我にかえる。マンガ雑誌が遠ざかる。もっと早く気づいていれば……いやどの道、予算的にも、今月はこっちの本しか買えない……というかそもそも公休扱いとはいえ一応仕事中……ああ、さようなら、私の雑誌……………………
上の空で会計を済ませる。袋に入れてもらった本を持って、もう一度だけ雑誌コーナーに行った。
ちょっとだけ。ちょっとだけの立ち読みなら休憩と見なされるだろうか。うん。ちょっとだけだから。
本、こと漫画に関しての「ちょっとだけ」がちょっとにならないことは自分がよく知っているのに、棚に上げて書棚へ近づく。
主人公がこっちを向いて、自信満々な笑顔で腕組みをしていた。
ああどうしよう、買ってって言ってる。この子絶対買ってって言ってるよ。
伸ばしかけた手をすんでのところで引っ込めた。ダメだ。今読んだら絶対買いたくなる。そしたら今月買う計画の文具が買えなくなる計算に陥る。ダメだ、ダメだってば。
そして、そんな葛藤をする桃花の一部始終を眺めていた人がいた。
「それ、好きなんですか」
すっかり目の前の漫画雑誌と対話を始めていた桃花は、その言葉で心臓が跳ね上がった。
「あっ、大丈夫です買わないのでというか買えないので万引きするつもりはもちろんありません不審な動きをしていたのなら謝り……」
「や、あの、そこは疑ってないから大丈夫ですが」
聞き覚えがあるような声。
違和感にはた、と顔を上げる。
自分とさして変わらない目線でぎこちない笑みを浮かべていたのは。
「……こんにちは」
「あ、あなたは」
ハルコで今噂の『アールグレイの彼』だった。
「え、あ、奇遇、ですね……どうして、こちらに」
びっくりしすぎて、一瞬少年漫画雑誌のことは吹き飛んだ。
聞かなくても、ここの店員なのだということくらい分かる。レジのおじさんと同じエプロンをつけているからだ。しかしこれだけこの本屋に入り浸っているのに、桃花は彼に会ったことがない。
「それ、俺のセリフじゃないですか? 今日お仕事は?」
「あ、公休、というか。宿題を出されたので参考資料を見に来たのですが……」
「そうでしたか。それで、それ」
「えっ……あ、これ?」
彼の指差した先には、例の漫画雑誌がある。
桃花の体中の血液が沸騰した。
「いや違います! これは仕事とは関係なくて、その、おまけっていうか? 趣味っていうか? たまたま見つけちゃったっていうか……その……」
言い訳を考えているうちに、「アキちゃん」と女性が呼ぶ声がした。
「はい!……あ、すみません。時間だ。あのー……お姉さん」
「は、はい?!」
私ですか? 私のことでしょうか、その『お姉さん』という代名詞が指す人物は。
「ちょっとここで、待ってて頂けますか? 俺今日のシフト終わりなんです。あなたと少し、お話したいんですけど」
「は、あ……?」
「すぐ来ますから」
青年はダッシュで「スタッフオンリー」と書かれたの扉へ消えた。
「アキ、ちゃん……?」
それが彼の名前なんだろうか。
呼ばれた彼のあだ名の可愛さと、彼の子犬のような雰囲気がマッチしすぎていて、なんだか妙に納得してしまう。
「お待たせしました。ちょっと外行きましょう」
思わぬ速さで彼が戻ってきた。そのままずんずんと店の外へ出て行ってしまう。桃花は慌てて彼の後を追った。
正直なところ、あまり気乗りはしない。そもそもお嬢様女子高出身者である桃花と話が弾む相手ではなさそうだし、彼が喋りたい、と言ってくれた意図も掴めない。桃花としては、ハルコの先輩方へカワイイあだ名の判明という土産話が出来ただけで十分なのだが……
気乗りしなくても一応待っていたのは、礼儀として勝手にいなくなるのもどうかと思っただけである。
しかも、今日の桃花は最低レベル外に出られるギリギリの格好である。
完全プライベートな時に、まさか誰かに出くわすとは思ってもみなかった。もともとオシャレに興味の無い性格も手伝って、よほどのことが無い限りジーパンとTシャツのセットしか着ない。例に漏れず今日もその組み合わせだ。
もう少しマシな格好をしてくればよかったと思ったが、考えても無駄なことだとあっさり諦めた。別にデートでもあるまいし。
「この辺でゆっくりできそうなところって言うと……俺のお気に入りはハルコなんですけど、お姉さんはちょっと気まずいですよね。そしたら……あ、あそこの喫茶店とか、どうですか? 付き合ってくれるお礼に、俺が奢ります」
「はあ……」
話って、立ち話では収まらないくらい話し込むつもりなのか。
桃花が煮え切らない返事をすると、「ダメ……ですか?」と子犬のしょんぼり顔のような目でこちらを見てくる。言いようのない罪悪感に襲われた。まるでこちらが悪いことをしたみたいだ。
「まあ、少しだけなら……」
「やった! ありがとうございます」
彼の顔がぱああ、と効果音がつきそうなくらい明るくなる。ピンと立った耳と、ふりふりする尻尾が見えるのは幻覚だろうか。犬のような愛嬌を振り撒くイケメンが、行きましょう! とわくわく顔で目の前の小洒落たカフェを指差した。桃花は『これもカフェメニューの調査の為』と自分に言い訳をして、店の扉を潜ることにした。
夏の日差しと彼の後光にやられて、暑さが限界に近かった、というのもある。
カフェは木目調の落ち着いた店内で、ハルコの雰囲気とよく似ていた。
「結局、待っててくださる間に買わなかったんですね、雑誌」
窓際の二人がけの席に案内されるなり、『アキちゃん』がそんなことを言うので、桃花は分かりやすく膨れた。
「買えない事情がありまして」
「ああ、金欠?」
そういう繊細な話題について、あけすけに言わないで欲しい。桃花にむくむくと怒りが湧いてくる。
「それで、なんの御用ですか、大したことがないなら帰りますけど」
「え、いや、別に用という用でもないんですが」
「それなら別に、わざわざお話しすることもありませんよね。私も用は無いので」
「あっ、ちょっと待って!」
本気で帰ろうかと思った。せっかく癒し系イケメンだと思っていたのに、こんなイメージをぶち壊すようなことしてくれちゃって。
富士山は遠くから見るからこそ、美しく壮麗で憧れなのだ。登れるくらい近くに来てしまったら、それはただの山と同じである。イケメンもそれと同じだ。話してみたらイメージが違ったなんて、よくある話すぎるではないか。
「あの、すみません! そうじゃなくて、あの」
彼は慌てて背中のリュック――カフェで見た時と同じものだ、と桃花は思った――を漁りはじめた。仕方がないので少しだけ、猶予を与えることにする。
一応は彼もハルコの客だ。乱雑な応対を自分がすることで、ハルコのことは嫌われたくない。
但し面倒だという気持ちは顔には出ているだろう。それくらいの自覚はあるが、隠す気は無い。
彼はそのリュックから、おもむろに一冊の雑誌を取り出した。
「あ゛」
本日二度目の潰れたカエルが、桃花の口から出現した。
「俺もこの雑誌、好きで買うんです。朝一で買って、鞄に入れてて……良かったら、読みませんか」
待って。
この状況って……つまり、どういうこと?
脳内で誰かがソロバンを弾き始める音がした。
本当は今すぐにでも飛びつきたい。だが他人から借りるのには抵抗がある。というか今借りて、隣に見知らぬ人がいる状態で漫画を読みふけるのも気が引ける。
では他人でなければいいのか?
いいのか?
ソロバンが回答を出した。
桃花はきちんと彼に向き直り、無造作に右手を差し出した。
「本条桃花です、十九歳です。カフェ・ハルコのアルバイトとして働いています」
「……えっと?」
意図を読めなかった彼が、困惑顔でその手を見つめている。ここまで来ると桃花もヤケである。早口で次の言葉をまくし立てた。
「お友達になりましょう、見知らぬ他人から本をお借りするのは気が引けるので」
桃花の言葉を聞いた彼の顔が……驚きの表情から爆笑に変わるまで、そう時間はかからなかった。
「あ、ははっ!! おかしい、やっぱり面白い!」
「……は?」
「すみません、ちょっと、タイム」
桃花から顔をそむけて、くつくつと笑い出す。右手の引っ込みがつかないまま彼女はしばらく待たされた。
「……はー、笑った。すみません」
「いえ良いのですが。どうなんでしょう、お友達の件」
そろそろ右手を上げているのも限界である。バタバタ振っていると、ためらいがちにその手が握られた。
あ、男の人の手だ。
気づいてしまった自分が憎い。そもそも手を差し出したのは自分の方なのに、赤くなってどうする。
「もちろん。こちらからお願いしたいくらいだったので」
除湿系男子は結論、どこまでいっても除湿系男子だった。今ならもれなく、窓から差し込む真夏の太陽の後光付き。
「俺は、榛名秋仁(はるなあきひと)って言います。十八歳の高校生です。篠田書店でバイトしてます」
よろしくお願いします、と言った「アキちゃん」は、何がツボだったのか、やっぱりくつくつとまだ笑っていた。
「とりあえず、なに頼みますか? 俺は……今日はコーヒーな気分だから、アイスコーヒーにします」
つい、珍しい、という表情をしてしまったのがバレたらしい。その顔が「飲めるの?」という問いかけの顔に見えたのか、「俺だってコーヒーくらいは飲めますからね」とちょっといじけたような返事が帰ってくる。
「ハルコは特に紅茶が美味しいから、紅茶を頼むだけです。コーヒーも好きですから」
「……何も言っていませんよ」
あまり可愛い、と言われるのは好きでは無さそうだ。好きな男性の方が少ないかも知れないけれど。
桃花もメニューブックに目を落としてみる。
どうせなら、マスターからの宿題も片付ける一環にしたい桃花である。ページを穴が開くほど見つめていると、また彼に笑われた。
「そんなにおかしいですか? 私」
「ああ、いえ? 気を悪くしたならすみません。かわいいな、と思っていただけです」
ぼん、と自分の顔から火が出る音がした。
そういうことを素でいう人、本当に実在するんだ。
「店の新メニューの為に、市場調査して来いって言われているんです」
「あ、それでメニューじっくり見てるんですね」
「いけませんか?」
「いえ。どうぞごゆっくり」
悩んだ後に桃花も紅茶を決め、オーダーした。瑠衣さんの方がメニュー回収の仕方が丁寧だな、と思ったのは若干の贔屓目かもしれない。
「お先にどうぞ」
注文が終わると、秋仁は真っ先に桃花に例の雑誌を手渡してきた。
「え?」
「読みたいでしょ?」
「それはもちろんですが……今朝買ったなら、榛名さんもまだ読んでいないでしょう? 悪いですよ」
「俺は別に、家に帰っても読めるし。ネタバレさえされないなら、オッケーです」
桃花としては一応初めて「お友達」としてカフェに入ったのだ、多少雑談するのが礼儀かと思ったのだが。まるで意に介さない彼のせいで、目の前にある漫画に抗えない。
「では申し訳ありませんが、自分の世界に入らせていただきます」
「どうぞどうぞ。俺も自分の世界に入りますので」
桃花はおずおずと雑誌に手を伸ばした。桃花が本に没頭し始めるのを確認して、榛名もシャーペンと罫線の入っていない自由帳のようなノートを取り出す。程なく二人の手元に飲み物が到着したが、桃花は例の巻頭カラーの話が読み終わるまで、そのことに気が付かなかった。
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