夏、変わる人

第8話 アールグレイの彼

「梅雨が終わった匂いがする」


 桃花の口から独り言が落ちた。

 じめっとした空気に地熱が混ざっているのを感じたら、それは夏の合図である。早朝からこの湿度では、今日の気温はいったいどこまで上がるのか。考えたくもなくて、つい眉根が寄ってしまう。暑いのは寒い日以上に苦手だ。

 ただ、空が高いのは悪くない、と思う。

 そんなのはわがままかしら、と思うと笑いが口のはしからこぼれていった。独りで笑っているウォーキングの女子。変人だ、やめよう。慌てて笑みを消す。空に向かって高く伸びをして、桃花は歩き始める。


 連日の雨でしばらくご無沙汰していた散歩も、ようやく再開だ。新緑の葉を雨が滴る美しい季節は過ぎ、猛暑がすぐそこまでやって来ていた。桃花の散歩服も半袖に変わった。この時間帯はぬるい風もちょうどいい。

 今日は駅の方へ向かって歩いてみよう。夏の匂いが、いつもとは違う方向へ靴の先を向けさせた。





 まず、花屋が目に入った。

 店員だろう、茶髪でゆるくウェーブのかかった女性が花の手入れをしていた。長めのエプロンがよく似合っている。

 ちょうど振り返った彼女が、にっこり笑って会釈する。


「おはようございます。お散歩ですか?」


 先に挨拶されてしまい、はっとした。将弥がいたら間違いなくげんこつが落ちているだろう。


「おはようございます。朝、早いんですね」

「そうですね、お花って生モノなので」


 大変なんです、といいながらも、その笑顔は爽やかである。花が好きだということが伝わってきて、桃花もつられて笑顔になった。

 会釈して散歩を再開する。

 この街に来た時の第一印象もそうだったが、歩いてみるとやはり随分と同業者の多い街だと感じた。

 コーヒーの専門店、パンケーキの美味しい店、和菓子カフェ。こじんまりした喫茶店。


 次の休日にはひとりカフェでもしようかな、と思ってから、軽くびっくりした。少なくとも三ヶ月前の自分なら、そんなことは思いつきもしなかっただろう。もともとカフェに興味はあったけれど、好奇心よりもためらいが勝って、大抵の場合は入ることを諦めていたからだ。だから、カフェ巡りは憧れにしかすぎなかった。

 

 父と母が知ったら特にびっくりするだろうな。兄は多分顔をしかめるだろう。妹は……「中身どこで入れ替えてきたの」くらいの悪態はつくかも。


 家族のことを考えると、胸の奥がつきりと痛む。

 元気にしているだろうか。

 こちらからは便りも出さないし、普段すっかり忘れているくせに、時々思い出したように心配するのだから自分勝手である。






# # #






「高校生に一票」

「俺は大学生に一票かな」

「あー、将くんずるい! あたしも大学生って言おうと思ってたのに! んんん、でもみんな一緒だとつまらないから……じゃあ、浪人生に一票」


 ひかるの『浪人生』という言葉に、三人の視線がピタリとこちらを向いた……ような気がした。


「浪人生ですが何か」


 桃花は黙々と将弥特製フレンチトーストを切り分けていた手を止めて、三人の方を見やった。古くなってしまった食パンも、卵と牛乳の液に浸せばご馳走に早変わり。シナモンシュガーをまぶして食べるのがハルコ流である。


「イヤ別に、モモちゃんの事がどうこうって話じゃないよ。モモちゃんくらいの年齢だよねって話なだけで」

「そうそう、そんなに尖らなくてもいいじゃない。だいたい、モモちゃん殆ど受験勉強してないんだから浪人生というよりフリーターじゃないの?」

「……それは否定できません」


 将弥、瑠衣、ひかるがやっているのは、定期的に行われる「お客様の年齢当てゲーム」だ。

 なお、正解を導き出せることは殆どない。会計の時にたまたま免許証が見えたりするか、よっぽど長話でもする間柄になるかしないと、そんなプライベートな事が分かるはずもないからだ。

 不毛であるとは知りながら、このゲームが意外と面白い。ひょんなことから当たると、その翌日は大盛り上がりである。

 大抵、噂になるのはどこかしらクセのある人だ。例えば……


「絶対に毎回アールグレイのストレートを頼むんだよね」


 その一、利用頻度が高く、毎回同じものを頼むといった特徴がある場合。


「そうそう、いっつも勉強してるのかと思いきや、意外とノートにおっきく絵描いたりしてるんだよね。漫画みたいなイラスト。目のおっきい女の子とか、剣を構えてる男の子とか」


 その二、ふと見た時にしていた行動がちょっとユニークだった場合。


「それで多分、毎回ハルコに寄った後必ずうちに来てるんですよ。この間の木曜日、紺のシャツがすっごく似合ってたイケメンくんでしょ?」


 その三、イケメンか美女。


「そう、多分それ。黒髪でふつーの学生っぽい子。あの早い時間帯でスーツは見かけた事無いから、学生なんだろうなー」

「来るようになったの、六月の頭くらいからだっけ。梅雨を撃退しちゃいそうなくらいの爽やかくんだよね」


 言うなれば除湿系男子?

 なんだか面白くなさそうに頬杖をついて、将弥が瑠衣に相槌をうつ。

 

「童顔な感じがいかにも年下男子ですって感じで、なんか庇護欲掻き立てられるって感じよね」


 身長が低いのが惜しいけど、またそこが可愛いっていうか! とひかるが目を細めている。瑠衣も頷いた。


「でも女々しいのとはちょっと違うんだよねー。草食男子なんですけど肉は好きですみたいな? ロールキャベツみたいな??」

「わーかーるー! 凄いわかるー! あと指がキレイ」

「さすがひかる、見てますな」

「おふこーすっ。そういう瑠衣サンこそ、チェック細かいですねぇ、このこの」

「まあね。ついやっちゃうよね」

「でもなんでわざわざうちの雑貨屋に寄るんだろうな。男の人で習慣的に雑貨屋に寄ってくれる人って少ないんですよ? 彼女さんがいるならまだしも、一人で来る人」


 わいわいと盛り上がり始めた彼女達の輪に入れず、将弥はため息をついていた。


「自分があんな風にチェックされてると思うと、おちおち外でコーヒーも飲めないな……」

「まあ、確かに」

「彼女とカフェデートするのが俺の夢なのに」

「……へー」


 彼のデートプランにさして興味はない。だが、将弥も十分に外見がいい方である。店員間で噂になるレベルを十分に満たしている、恐らく彼の場合は現状でも、「ハルコのシェフの人、かっこいいよね!」とでも噂されているのではないかと桃花は思う。


「というか将弥さんって彼女居たんですか」

「は?」

「いや、一緒にカフェに入る予定のある人、居たのか、と思いまして」


 ゴン、と鈍い音。慌てて隣を見ると将弥が頭をテーブルに打ち付けた音である。


「悪かったな! 夢だよ! 希望だよ!」

「あ、地雷でしたかすみません」

「地雷とか言うな俺が気にしてるみたいじゃねえか」

「ワイルド将弥さんが発動しています。引っ込めてください」

「……おっと、失礼」


 ごちそうさまでした、と丁寧に両手を合わせて食器を下げる桃花。通りすがりに他人の分を一緒に下げるくらいは、もう呼吸のように当然になっている。


 将弥も立ち上がって、いつの間にかどうやったら「アールグレイの彼」に近づけるか論争へ発展した瑠衣とひかるのカップを乱暴に取り上げた。強制的に朝ごはんタイムをお開きにした将弥の不機嫌な原因は、話に熱中していた彼女達が知るはずもなかった。



 噂の「除湿系男子」が訪れたのはさらにその二日後の事である。

 よく晴れた昼下がり。散歩日和だなあ、と思うのはここがクーラーの効いている室内だからであって、この時間に外へ出たら焼け焦げて死ぬことは必至だ。こんな日には紅茶やコーヒーより炭酸が飲みたい、などと思いつつ机を拭いていたら、ふっと背後に人が立つ気配がした。振り返った桃花は何も考えずに挨拶を繰り出した。


「あ、こんにちは」


 ついうっかりいらっしゃいませと言えなかったのは、思考回路が仕事モードになっていなかったせいだ。一瞬冷や汗が落ちる。

 今朝方噂になっていた彼がそこにいた。暑かった外からやってきたはずで、確かに額に汗をかいてはいるのに、なぜか清涼感の漂う爽やかな笑顔を浮かべている。

 こちらは顔を覚えているものの、彼からすれば桃花は初対面レベルでしかない。

 怪しかったかしら、と内心うろたえているのを知ってか知らずか、彼はその涼しげな笑顔のまま、目の前の机を指差した。


「こんにちは。ここ、いいですか?」

「はい、もちろんです」


 うわあ、眩しい。後光で目が焼けそう。

 机の隅を拭いて手早く撤退する。ごゆっくりどうぞ、と付け足せたのは自分としては上出来だった。


「よく出来ましたー、でもあの人はメニュー持っていかなくてもほぼ決まってるんだからオーダーまで取ってこようねー」


 台拭きを洗おうと厨房に戻ると、先ほどのやり取りを見ていたらしい将弥にメニューブックでこつん、と頭をはたかれた。


「うっ」

「はい、行ってこい。頼れる先輩は現在休憩中です」


 そのとおり、瑠衣は現在休憩中である。ここはこの数ヶ月で彼女から叩き込まれた接客術を存分に発揮する機会だ。

 急いで戻ると彼は背負ってきたリュックから勉強道具らしきものを引っ張り出して広げるところだった。


 落ち着いて、落ち着いて。こういう時はどうするんだっけ、とりあえず深呼吸だ。それから。


「いつもご利用ありがとうございます。ご注文は、アールグレイのストレートでよろしかったですか?」


 青年は一瞬虚を突かれた顔をした。

 あれ、何か間違ったかこれは。もしかして。私の人違いだったりした?

 一瞬にして腹の奥底が冷える。「肝を冷やす」という言葉がぴったりくるこの状況に、次の言葉をどう続ければ良いかと視線をうろうろと彷徨わせてしまう。


「覚えていて下さって嬉しいです。それで」


 そのセリフが返ってきて、桃花はあからさまにほっと一息ついてしまった。と、青年が笑いを噛み殺したような表情になった。


「……あ、すみません。あの…………ほっとしましたって顔に、書いてあったので」


 バレてた。

 どうやら、自分はもっとポーカーフェイスの訓練をしないといけないようだ。

 真っ赤な顔を隠すべく頭を下げて、そそくさと厨房に戻る桃花を、青年は面白そうに見送っていた。




# # #




 とんでもない話を聞かされたのは、その日の夕飯の席である。


「メニューブックの入れ替え?」

「うん。そろそろ暑さも本格的じゃない? もういい加減交換しないと、まずいかなと思うんだけど」

「確かに、ホットのコーヒー紅茶は段々出なくなってきたよな。でもまだ今年の新作がなあ、出来てないんだよな」

「そうなのよね」


 カフェ「ハルコ」の売りは、落ち着いて過ごしやすい店の雰囲気と、紅茶の種類の豊富さである。コーヒーももちろん、豆に拘ってマスターの信頼している焙煎家から直接仕入れてくるものだ。だがフレーバーティーを数多く置いているという意味において、この辺りのカフェで並ぶ所は無いだろう。

 聞けば、アイスのフレーバーティーをメインに載せたメニューブックがあるという。今のメニューは生姜紅茶など、ホットで美味しい紅茶がメインで載っているものだ。


 瑠衣の作ったトマトとモッツァレラチーズのまかないパスタをゆっくり味わいながら、桃花は説明を聞いていた。付け合わせのマリネも、程よい酸味が爽やかで美味しい。


「新メニュー、考えなきゃなあ……」

「割とうちは常連さんが多い店だから、飽きられるっていうのが一番怖いよね」


 なぜかさっきから、チラチラとこちらを見てくる瑠衣と将弥の視線が気になる。だが新メニュー提案など、新人の自分には縁のないことだ。決まったものを覚える努力だけはきちんとしよう、と考える。

 またちらり、と将弥が桃花の方を見た。


「結局、ある程度はメニューを入れ替えていかないと新しい客層も見えてこないしな」

「そうね――マスター、どう思います?」


 桃花と同じく、黙々と食べていたマスターのフォークが止まる。


「そうですねえ」


 深く考えた様子もなく穏やかな空気のまま、マスターは爆弾を投下した。


「良いのではないですか? 新メニューは桃花さんが考えるということで」




 聞き間違いかと思った。が思い過ごすには衝撃的すぎる。思わず桃花はパスタを喉につまらせ、盛大にむせた。


「あーあー大丈夫? はい、お水」


 コップに水を注いでくれた瑠衣の肩が、プルプル震えていた。将弥に至っては、机に突っ伏して笑いを堪えている。

 

「ごっ……ふっ………………っん。はっ、はあ…………で?! 私が何ですって?」

「新メニューの、開発だって」


 やはり、聞き違いではなかったようだ。


「は?! いや無理でしょ何考えてんの頭おかしいって無理無理無理」

「どうしようマスター、モモちゃんが壊れちゃった」


 半笑いの瑠衣が目尻を拭う。どうやら先ほどからの視線は、いつ桃花にこの難題を振るかというアイコンタクトだったようだ。人の動揺を見て笑うなんて、ととりあえず二人を睨んでみる。だが効果はない。


 桃花の「何をどのようにしたら良いかまるで分かりませんので無理です」の一点張り攻撃は、「取り敢えず近くのカフェのメニュー偵察とかはどうでしょう? ああ、資料集めに本屋に行くのも良いかも知れませんね。明日は私が仕入れの休みですから、店番に出ることにしましょう。と、いうことで桃花さんの明日の業務は市場調査です」とのマスターのセリフにより、棄却された。


 かくして桃花は、次のステップへと踏み出したのである。






# # #






「それにしてもマスター、昨日は見事な獅子の子落としだったねえ」

「止めろその話。思い出しただけで俺の腹筋が仕事しなくなる」

「あれだけあたしたちが仕掛けにいってたら、モモちゃんも気づくかと思ったんだけど」

「いやあ。あの子は鈍感鈍子ちゃんだからな」


 翌日。日中に繰り広げられている店番二人のそんな会話を、桃花が知るはずもない。


「まあ、この手の無茶振りは俺達も通ってきた道だから。これも大事な仕事のうちの一つだし」

「自分が考えた商品が売れると、嬉しいしね」

「俺が昔言われた『明日までに新作スイーツ試作してこい』よりは全然難易度低いでしょ」

「そうかもしれないけど。でもあの子、そもそも食とかドリンクとか、あんまり興味無いでしょ? そういう子が突然あんな事言われてパニックにならないかなって、ちょっと」

「習うより慣れろ、だろ? これを機会に好きになってくれればいいんだけど――さて、どうかな」

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