第6話 ありがとうございます

 カフェエリアに通じる扉の前で、桃花は大きく深呼吸した。

 泣き腫らしたまぶたは重い。ドアノブにかけた右手が震える。深く息を吸い込むと、肺がぎゅっと締め付けられるように痛かった。桃花は目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出して扉を開けた。

 すると。


「――はーーーいお疲れ様!」


 パン、と乾いた音が鳴り響く。場違いな程に陽気な瑠衣の声が、桃花の耳に届く。引きこもりの耳に鳴らされたクラッカーは痛かった。桃花は目をしぱしぱと瞬かせ、それからゆっくりと店内を見回した。


「な、なにごと……?」


 何かがツボに入ったらしい瑠衣は、バンバンと机を叩いて笑い転げている。桃花は状況が読めなかった。こってり絞られると思って決意してきたのに、空いた口が塞がらないとはこの事だ。

 訳が分からないまま「まあ、座りなよ」と将弥に定位置の席を勧められ……座る直前にはたと我に帰った。


「あの、私、皆さんに謝らないといけない事が」

「発言を許す。言いたまえ」


 完全に酔っ払いの状態の瑠衣が、顔を上気させて返答する。しかし桃花は同じ土俵には乗らなかった。ここで、きちんと伝えなければ。そのためにたくさん泣いたのだから。


「今日は、──ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」


 いらないプライドは捨てろ。

 何も怖いことなんてない。この優しい人たちに見捨てられる方がよっぽど怖い。

 深呼吸をする。大丈夫。きっと彼らなら受け止めてくれる。

 

「今日は、というよりも、来てからずっと、だったと思うのですが。私がつまらない意地やプライドを張っていたせいで、皆さんに嫌な思いをさせたり、お店にご迷惑までおかけして、本当にごめんなさい」


 しん、と店内は静まり返った。


 怖くない。

 呪文のように心の中で繰り返す。それで自分の罪が、消える訳では無いけれど。


「迷惑をかけなくなる所まで、なかなか至らないとは思いますが……これからは、言っていただいた事を真っ直ぐ受け止めて」


 変わりたい。

 自分が嫌いだった自分から。


「この店の恥とならぬよう努めていく所存でございますので、どうかこれからも変わらぬご指導の程、よろしくお願い致します」


 正面から丁寧にお客様に向き合うこの店の、一員になりたかった。頭をぐっと下げて、みんなの答えを待つ。

 沈黙が何よりも痛かった。それを破ってくれたのは、やはり彼だった。


「良かったですね」


 マスターは初めて出会った時と全く同じセリフで、桃花の心を溶かしてくれた。

 

「あなたが気づくのを、皆待っていましたよ」


 将弥がぱちぱち、と手を叩く。まばらな拍手がハルコを満たしていく。

 もう涙は流さないと決めていたのに、不覚にも自分の情けなさが染みて、桃花はまた泣きそうになった。



「と、いうことで!」


 パシン、と一際大きく手を叩いて拍手を打ち止めにした将弥が、改めて桃花を椅子に座らせた。

 

「今日はモモちゃんがお客様に初めて怒られた記念日ー!」

「キネンビーーーうぃーーーー!!!!」

「あの、将弥さん。さっきから気になっていたのですが、瑠衣さんに何が……?!」

「あーこの人、酒にメチャクチャ弱くてね。調子に乗って、さっきパウンドケーキ用のラムレーズン食いまくってたから、多分そのせい」

「レーズンで酔える人って、本当にいたんですね?」


 よく見ると目元がほんのり赤い。酔っ払いのよう、ではなく、正真正銘の酔っ払いだったのだ。


「モモぉ、おとなになったんだなあぁぁ、おとなのかいだん登ったんだなあぁぁぁ」

「だ、誰か助けて……ッ」


 完全に絡み酒モードの瑠衣に、がっしりと腕を組まれて桃花は動けなくなった。ただの水のグラスをだんっ、とテーブルに置いた瑠衣を、マスターも将弥も知らぬ振りである。


「ああいうキレっぽい客はなあ、きにすんな」

「は……え、はい……」

「ああいうひとってのはとにかく、自分にあたえられた理不尽を人にも味あわせないと気が済まねんだ。あんなヤツにいちいちヘコんでたら、体も心ももたねぇよう」

「はい……」

「けどいわれたことはけっこー真っ当なんだから、そこは覚えとくんだぞ」

「はい」

「次はやるな」

「はい」


 酔っ払ってはいても、心底から桃花のことを心配してくれているのが分かる。だから真面目に返事をする。

 

「クレームがあった時は、気まずいかも知れないが会計前にサービスでクッキーくらい渡してみろ。いがいところっとゆるしてくれる場合もある」

「物で解決しよう、みたいな感じで嫌がられることはありませんか?」

「ばぁか。感情が伴わなきゃそりゃあ相手だってきづくよ。けどな? ちゃんと心がありゃあそれは伝わるもんなんだ」


 大層なものを渡すと引かれる場合もあるからな。レジ前に置いてある焼き菓子ぐらいが妥当だろ。


 瑠衣はそこまで言うと、バタン、と机に突っ伏してすうすうと寝息をたて始めた。桃花は今のひと言ひと言を、心の中にメモしていく。

 使う時は出来れば来て欲しくないが、一生他人に謝らないで済むほど、接客業は甘くないだろう。

 いつか後輩だって出来るかもしれない。その子が失敗した時は……瑠衣のように一緒に、泥を被る覚悟で傍にいてあげられるような人になりたい。

 少なくとも、生きていく上で役に立たない事ではないはずだ。


 将弥が寝入ってしまった瑠衣の肩に上着をそっとかけた。しばらく寝かせておくつもりらしい。


「瑠衣がここに来たばっかりの時もね、色々失敗したんだよ」

「は、はあ……」

「お客さんの書類にコーヒーこぼしたり」

「え」

「食器を五枚同時に割ったり」

「……え?」


 それは本当に瑠衣の話なのだろうか。驚いて顔を上げると、将弥は困ったように笑いながら「全部ホントだよ」と言う。


「コーヒーの名前も覚えられなくて、よく間違えてたし。お客さんに散々怒鳴られたね」

「えええ……」


 ぴくり、と瑠衣が動いて、薄目を開けた。自分の話をしていると分かったのだろうか。将弥を睨むような角度で目線を動かし、囁くようにぽつぽつと語り出す。


「将弥だって似たようなもんじゃん……元栓締めないで帰ってマスターに怒鳴られたり」

「――瑠衣さん? ちょーっと黙ってくれる?」


 今度は将弥が固まる番だった。だがしかし瑠衣の口は止まらない。


「クッキーに砂糖と間違えて」

「おい、止めろ。あれは半分以上お前のせいだろうが」

「あとわぁ、むふふ。あっ! そうそう。砂糖の佐藤さ」

「その口縫われたいか?」

「んっふっふっふっふ」

「口の中に今すぐ熱々の鉄板突っ込んで喋れなくしてやろうか」

「将弥さんが、怖い……!?」


 ドスの効いた低い声が瑠衣に突き刺さる。別人かと思われるくらい口の悪くなった将弥に、桃花は戦慄を覚えた。

 厭味ったらしく将弥さんに怒られるのも怖いと思ってたけど、本気出したら普段の比じゃないのかも。

 手加減されていたのかと思うと、感謝すら湧いてくる。


「あの二人もね、高校を卒業してすぐ、ここへ来たのですよ」


 マスターがぎゃんぎゃんと騒ぎ立てる彼らを見つめながら穏やかに言った。


「最初はそれはもう、失敗の連続で。あの頃はまだこのカフェも始まったばかりでしたし」


 懐かしそうに細められた目が、どこか遠くを見ている気がした。


「私の方も試行錯誤だったもので、彼らの教育まで手が回らなくて。妻の雷がよく落ちたものです……ねえ、桃花さん」

「はい」

「人を生かすというのは、難しいことですね」


 人を生かす。

 それは『ハルコ』の掟とも言うべき、大事な指針。


「なかなか出来る事ではありませんが……それでも、私は」


 マスターはここではないどこかを見つめたまま、にっこりと微笑んだ。


「この体が動くうちはせめて、出来るだけ多くの人に、各々が輝ける場所をあげたいと思うのですよ」


 それが人を生かすということの真髄なのかどうかは、私にも分かっていませんがね。

 それが最後の約束でしたからねえ、との呟きに、「誰とのですか」などという、無粋な質問はしなかった。代わりに「私は生かされています」とだけ答えると、「ならば良かったです」とほっとしたような返事があった。


「あれ、なんか静かになっていませんか」

「ダメだ、完全に寝落ちた」

「あの、ワイルド将弥さんもカッコよくて需要があるかもしれませんが、私は普段の将弥さんの方が良いかと……」

「え? あ、ああ。ごめんね。うん。こいつがあんまりなもんだから、つい」


 いつもの調子に戻った将弥が、目元を和らげて桃花を見る。ついほっとして、大きなため息をついてしまった。


「さてと。前哨戦はこの辺にして、晩御飯にしよう」

「瑠衣さん、食べずに寝てしまいましたが大丈夫でしょうか?」

「死にはしないでしょ。後で部屋に連れていくよ」


 何事も無いかのように言ってのけた将弥の発言に、ふと違和感を覚える。

 

「将弥さんと瑠衣さんって、どういう関係なんですか……?」


 口に出した瞬間しまった、と思った。一瞬将弥が表情をごっそり無くした、気がした。

 

「あー、うん。どういう関係、ね」

「いえ、すみません。つい疑問が予期せぬタイミングで口から転げ出ただけです。気にしないで下さい。いつも仲が良さげだなあと思っただけです、そう」

「いや、別にいいけど。幼なじみって言うには付き合いが中途半端だし……ねえ。俺にもどう言ったらいいんだか」


 強いて言うなら、高校時代の同級生から同僚かな? と答えた将弥の目は、もう桃花を見てはいなかった。


「まあそんなことより、お待たせ」


 ほかほかと湯気の立つ茶碗を差し出されて、桃花は固まった。


「お、お赤飯?」

「もしかして嫌い?」


 慌てて桃花は横へ首をふる。ちょっとびっくりしただけだ。実家では妹が嫌いなせいか、滅多なことでは出されなかった。

 

「なら良かった。これうちの伝統なんだよね。お客さんに叱られた日は赤飯。あの時間からわざわざ浸水して炊いたんだよ?」


 何となくではあるが、誰が決めた風習か分かるような気がする。

 寝落ちた瑠衣をそのままに、皆で手を合わせて一口目を運ぶ。久しぶりに食べる赤飯の味は、どこか優しくて懐かしい味がした。




# # #




 数日後。

 会計伝票を差し出したその姿に見覚えがありすぎて、桃花はしばらくピタリと固まった。

 件のOLだったからである。


「あの……先日は、大変失礼致しました」


 きょとん、とした表情で小首を傾げる彼女は、どこからどう見ても愛らしい小動物のようで、以前の鋭さはまるでない。


「あ、ああ、あの時の」


 桃花の顔を凝視してはっと思い出したのか、ばつが悪そうな顔をする。


「ごめんなさいね、私もあの時はちょっと、なんていうか……虫の居所が悪くて。思わずあなたに当たっちゃったの。よく考えたらそんなに怒ることでもなかったのにね」

「いえ。拭き残しがあった上に失礼な態度を取ったのは私です」


 私です、と言いきったのは、桃花の意地だ。この上ミスを店の所為や人のせいにしたくはなかった。

 私が悪かった、ごめんなさい。だからどうかこの店のことは、嫌いにならないで。


「あの、また来ていただいて、有難うございます。良かったらこれ、召し上がって下さい」


 レジ前にあったクッキーの包みをさりげなく渡す。びっくりした彼女の手元に無理やり押し込んだ。


「やだ、悪いわよ」

「気が済まないわがままだと思って、受け取っていただけませんか」


 休憩のお供にでも、と言うと渋々ながら彼女は受け取ってくれた。「ありがとう、また来るわね」との言葉を言いおいて。


「随分と高等なテクニックを習得したじゃないの」


 後ろから小突いてきた瑠衣に済ました顔で返事をする。


「瑠衣さんが教えてくれたんですよ?」

「え?」

「まさか、たかだかラムレーズンごときで記憶がすっ飛ぶほど酔える人がいるとは思いませんでした」

「……」


 瑠衣がしまった、という顔をした。


「あの日?」

「あの日ですね」


 あちゃあ、と額に手をやる彼女。


「他には? なんか偉そうに言ってた? あたし」

「色々とご教授頂きましたよ」

「なんか、ごめんね」

「何がですか?」


 まさか瑠衣から謝られるとは思わず、慌てて後ろを振り返る。

 先ほどのOLと同じようなばつの悪い顔をした瑠衣が、そこにいた。

 

「自分が出来てもいない事を、すぐ偉そうに言っちゃうからさ。もしあたしが意識がないうちにそんな、説教みたいなことしてたら、その」


 嫌いにならないで。

 そんな声が聞こえた気がした。

 桃花はふっ、と笑ってしまった。

 

「大丈夫ですよ」

「え?」

「そんなことで嫌いになったりしません」


 進んで過ちを庇い、罪を一緒に被ってくれるような人を。


「なんていうか……瑠衣さんって不器用なんですね」

「知らないけど、まあよく言われる」

「そんな瑠衣さんが私は好きですよ」


 一瞬で顔を赤く染めた瑠衣に、軽いげんこつを食らった。照れ隠しだと分かっている桃花は、ただ笑顔をこぼすだけだ。


「ばーか。あんたに言われても嬉しくないっての! ばーか! ばーか!」


 素直じゃないのは瑠衣さんも大概じゃないですか、と言うと反撃がきそうだったので、そのまま微笑むだけに留めておいた。


 季節は移っていく。

 OLの彼女が出ていった入口から、新緑の爽やかな香りと共に、新しい客が訪れた。


「いらっしゃいませ」


 ここは都会の片隅にある小さなカフェ。

 小さな幸せという名の春をお裾分けする、優しい彼らのいるお店。

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