第5話 ごめんなさい

 翌日はしとしとと静かな雨が降っていた。桃花は雨がどうにも好きになれない。良くないとは思いつつ、漏れるのはため息ばかりだ。

 散歩も出来なかったし、元気が出ない。なんとなく浮かない顔をしていると、瑠衣から背中に一発平手を食らった。


「こら、景気悪い顔すんじゃないの」

「す、すみません」


 お前のせいだ、と天気に責任転嫁して、窓を一瞥。朝ごはんの味噌汁が『僕でも食べて元気だせよ』と言っている。気がする。


「モモちゃんは雨、嫌いなんだ?」

「いえ、別にどっちでもいいです」

「顔と言葉が一致してないけど」


 素直じゃないなあホントに、とのセリフを言われるのは、一体何度目だろうか。咄嗟に口から小さな嘘を吐き出す癖は、なかなか治らない。


「そんな暗い顔してると、いい運気が来ないよ?」


 いい運気はいい笑顔から! と、ひかるが自分の口角を持ち上げて見せる。自分は無意識に顔をしかめたのだろう、ひかるが眉を曇らせた。


「瑠衣ちゃん、モモちゃんが嫌そうな顔してる」

「たぶん笑顔を作るための表情筋が欠損してるんだよ、許してあげて」


 あんまりな言い方に思わず講義の声を上げかけたが、言われる自分の表情なので飲み込んだ。代わりにご飯をかき込んで、味噌汁を飲み干す。


「ごちそうさまでした」

「あら、今日はまた随分と早い」

「モモちゃんって食べるの早いのに食べ方キレイだよね、どうして?」


 ひかるの問いに、育ちの問題だろうか、とは思ったが、なんとなく口に出すのは流石にはばかられて曖昧に首を傾げておいた。

 そしてその日、桃花はひかるの言う「いい運気が来ない」を身を持って体感することになる。




# # # 




 レジ業務は大分頭に入ってきた。


「なかなか覚えは早いね。いいんじゃない」


 瑠衣にさりげなく褒められたのは、覚えている限りで今日が初めてである。桃花は心の中で小さくガッツポーズをした。毎日の復習が少しは役に立っているということか。


「今日は接客行ってみる?」


 雨のせいか、いつもに比べて人の入りが少ない。今日ならば分からないところがあってもすぐ瑠衣に聞けるだろう。

 気は十二分に重かったが、今日を逃してはいつ教えてもらえるかも分からないのだ。チャンスを手放すよりは食らいついた方がいい。

 

「やってみたい、です」

「よし、その意気」


 瑠衣は満足したように頭をくしゃくしゃっと撫でてきた。


「忘れないようにきちんとメモ取って。それからこの略語リスト頭に叩き込んで」

「はい」


 渡されたのは、飲み物などの頭文字をアルファベット化したリストである。間違えたら大変なことになる。

 メニューの出し方、皿の持ち方、オーダーの流し方を一通りやったところで、男女二人組の客が入ってきた。大学生くらいのカップルと思しき二人。


「習うより慣れろってことで。じゃ、ファイト」


 ぽん、と背中を押されて、よろめきながらホールに出る。手と足が同時に出ていることに気がついたのは、後ろでそれを見送っていた将弥の方だった。


「ずいぶん緊張してるけど、大丈夫かなあの子」

「ま、大丈夫でしょ。何事も経験値よ」

「えらい強気になったねえ、どうしたの」

「ん、まあちょっと」


 瑠衣はからっとした笑顔を作った。


「あれから色々考えたんだけど、世の中には憎まれ役も必要って事よ。あんたはどん底に落ちるまで放置するタイプかも知れないけど、あたしにそれは出来ないからね。聞き入れられなくても、ガンガン言ってく事にした」

「……まあ、吹っ切れたならいいけど」


 桃花との距離をはかりあぐねていた、というのに気づいてしまうのが、この男の良いところであり悪いところだ。勘が良すぎて隠し事が出来ない。

 うじうじしてる瑠衣はキャラじゃないからなあ、と将弥が言う。どういう意味だ、と目を三角にすると笑ってはぐらかされた。


「程々にしときなよ? 傷つくお前は見たくない」


 ……しかも突然そういう優しさを投げてくるから、こいつは侮れないのだ。

 それってどういう意味、と今度は聞き返せなかった。




# # #




 忙しくない、というのは売上的にはどうかとも思うのだが、接客初心者の桃花としては有難かった。

 あっという間に午後である。普段は日光がわりとさして明るい店内も、こんなどんより色をした空模様では、時計を見なければ時間がわからない。夕方の四時を少しまわり、カフェタイムを楽しむ少ない客も落ち着いた。


 人前で喋るのはとにかく緊張する。これほど自分にアドリブ力がないとは思わなかった。ついには、カンペを伝票の上に潜ませている始末だ。失礼のないように、という意味では大目に見て貰えるだろう。


 ご注文はお決まりでしょうか。

 何になさいますか?

 以上でよろしいでしょうか。


 「ご注文の品はおそろいになりましたか?」は本来の日本語に基づくとNGである。そろう、の尊敬語である「おそろい」は品に対して使うものではなく、人に対して使うもの。言われてみれば確かにそうだが、うっかりすると言いかねない。

 丁寧にしようと心がけ過ぎて「こちら」「○○のほう」といった単語を連発しそうになるのも危ない。実際さっきやらかした。


「デザートのほう、お待たせいたしました」


 どっちの方だ、と自分で突っ込みたくなる。敬語は割と家庭内で厳しく躾けられた方だと思っていたが、実際にこのようなシーンで使うとなると難しい。これは自室での復習が必要である。

 気づかぬうちに渋い顔になっていたのか、瑠衣に「笑顔!」と囁かれた。机を拭きながら笑顔って気持ち悪いのでは? 大丈夫か? と思いながらも無理やりに口角を上げてみる。


「もっと爽やかに笑いなよ」


 悪魔が悪巧みを思いついた時みたいだよ、と将弥にからかわれたので、「なら将弥さんの笑顔によく似ていますね」と返したら軽いげんこつが降ってきた。


「まったく、かわいくないねえ」

「別に可愛さは求めていませんので」


 桃花にとって「可愛い」という言葉の価値など、その程度のものである。


 今桃花が拭いたばかりのカウンターの席に、営業廻り中のOLらしき女性が腰掛けた。


 雨で濡れたカバンをタオルハンカチで拭き、険しい表情でパソコンを引っ張り出す。なにか仕事でトラブルでも発生したのか、機嫌があまりよくないようだ。若干恐れながらも、「いらっしゃいませ」とだけ言う。奥から瑠衣がメニューを持ち出してくる気配がしたので、後は任せることにした。初心者に気が立っている客の相手は、まだ難易度が高い。

 その女性が、眉をひそめて固まった。


「すみません。ちょっと」


 一番近くにいた桃花に話しかけている声である。機嫌悪そうだなあ、などとぼんやり考えていた桃花は、ワンテンポ気がつくのが遅れた。

 

 次に飛んできたのは舌打ち。

 瞬間、冷水を直接ぶっかけられたように心臓が冷えた。


「あ、はい」


 とりあえず返事を。何が気に食わなかったのかは分からないが無言はまずいと直感が告げている。


「ここ」


 乱暴に指し示された箇所には、白く一筋に残る僅かな拭き残しがあった。




「あ、すみません」

「すみませんって何なの。そういう時は普通『申し訳ございません』って言うもんよ。気づかないで大事な書類でも置いてたらどうするつもりだったの、あなたに責任取れるの?」


 完全に足が竦んだ。

 蛇に睨まれた蛙。注目が自分に集まっているのが分かる。

 相手は怒っている。そういう時は? どうしたらいい?

 そんなに怒るほどの事でもない、ともうひとりの自分が言い訳をする。私は悪くない。

 違う。それは違う。自分のミスでお客様を不快にさせた、その罪に大きいも小さいも無い。


 謝る、という単語が頭を過ぎった。なんて言う? どうしたら許してもらえる?

 口がカラカラに乾く。喉が貼り付いて空気しか出てこない。

 待ちかねて女性が次の言葉を放とうとした、その時だった。


「申し訳ございません。私どもの教育が行き届いておりませんで、ご迷惑をお掛けいたしました。言い聞かせておきますので、どうかお許しいただけませんでしょうか」


 凛とした、だが静かな声が耳を満たす。

 それに押されて、ようやく桃花の体が金縛りから開放された。


「申し訳、ございませんでした。大変失礼を致しました」

「……最初からそう言っとけばいいのよ。スタッフ教育のなってない所」


 その言葉が深々と桃花の胸を抉った。

 瑠衣が丁寧に机を拭き直す。桃花はただ呆然とその場に立ち尽くしていた。


「メニューをお持ちいたしました、どうぞごゆっくりお過ごし下さいませ」

「ゆっくりなんてしてる暇ないのよこっちは。貴重な時間、無駄にしないでよね」


 メニューを差し出した瑠衣はそれには何も答えず、もう一度お辞儀をしてから無言のまま下がった。桃花を引っ張ることも忘れずに。


「もう上がりな」

「え、でも」

「これ以上、あの人刺激しない方がいいし。あなたも今パニックでしょ」


 瑠衣の口調は無駄に優しかったが、怒られない方がかえって怖くて、桃花は始終俯いたまま、彼女の顔を見ることも出来ずにハルコのカフェエリアを後にした。

 閉じた扉の向こう側で、瑠衣と将弥がどんな表情で自分を見送ったのか。考えたくもない。

 のろのろと部屋へと続く階段を上がる。部屋に入った瞬間に緊張の糸が切れた。


 なんで、あんな八つ当たりみたいにキレられなきゃいけなかったんだろう。

 なんであんな、理不尽な怒られ方をしなきゃいけないの。

 なんで瑠衣さんが謝らなきゃいけなかったの。なんで店のことまで、言外に貶されなきゃいけないの。なんで時間に余裕が無いことまで、私たちのせいなの。


 なんでなんでなんで。

 桃花の頬に、静かな涙が伝った。こんな事で泣きたくないのに、どういうわけか涙が止まらなかった。

 一日中振り続けている外の雨にも負けないくらい泣いた。せめて声は絶対出すもんか、唇から血が出るくらい強く噛んだ。酸欠になって変な嗚咽が漏れた。臓器から空気の玉みたいなものがせり上がってきた。


 なんで。

 感情を涙にして吐き出したら少し落ち着いた。

 体の中の水分という水分がなくなって呆然と窓の外を眺めた時、見つかったのはズタズタに切り刻まれてもひしゃげない、つまらないプライドを捨てきれない自分の顔だった。


 なんで八つ当たりされたの。

 それは私が八つ当たりされるような態度を取ったから。


 なんであんな理不尽な怒られ方をしたの。

 それはすぐに謝らなかったから。


 なんで瑠衣さんが謝ってくれたの。

 それは私が謝らなかったことを、店側として誰かが責任を持たなくてはいけなかったから。


 なんでハルコのことを言外に貶されたの。

 それは私が店の顔に泥を塗ったから。


 気づいたら全部自分のせいだった。大小の差はあれど、原因はどこかしら自分にあった。

 そうしてやっと、桃花は言われてきた言葉の意味に気がついた。


『素直じゃないね』


 たった一筋の拭き残しをこじれさせたのは、自分の『素直じゃない』言動のせいだった。

 たぶん将弥も瑠衣も、そしてひかるでさえも、何度も桃花に警鐘を鳴らしていてくれた筈だった。

 朝ごはんの時、洗い物の時、些細なやり残しから器具の片付けまで。

 あの時きちんと「はい、すみません」と言える癖がついていたなら、こんな事は起こりようがなかった。

 そして、それを言えなかったのは。

 そんな「出来て当たり前」みたいな事をわざわざ言われる自分が許せなくて、「言われなくてもできる」ように取り繕いたかっただけのプライドで。

 どこからどうみても、新米ひよっこの自分に出来ることなんて皆無なのに。

 ましてやずっと、部屋の片付けまで親に甘えてきた分際で、そんな奴が生まれて初めて働いて、一人暮らしもどきをしようというのに出来ることなどあるはずもない。

 マスターと初めて出会った時に言われた言葉を思い出した。


『何事も修行と経験、自分に出来ることがあると思って取り掛かるのは間違いの元です』


 その通りだ、と思った。

 いつ自分は偉くなったのだろう。学年順位の一位は、人生ゲームの一位じゃない。もっと言えば人生に一位も二位もない。与えられた場所で、誠実な仕事をしているかどうか。それが問われるだけだ。

 夕飯を知らせる間の抜けたベルがなるまで、桃花は扉の前から一歩も動くことができなかった。

 降りたら、まず謝ろう。

 それだけ決意して、ようやく彼女は立ち上がった。

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