第4話 ただいま

 どさり。

 すとん、でも、どさっ、でもない。どさり、という音こそこの状況に相応しい。


「疲れた」


 部屋に入るなり崩れ落ちた桃花のことである。

 バタンキュー、という言葉は一体誰が思いついたのだろう、と桃花は思案する。上手いと感心せざるを得ない。いくら仕事の中身に慣れてきても「バタンキュー」な生活から全く抜け出せる気配のない桃花には、時折、学生時代の悠々自適ライフが恋しい。

 バイトということもあって、閉店時間まで居なくても良いことになっている桃花は、瑠衣や将弥に比べれば負担は軽い。二人とも適度に休憩を入れているとはいえ、仕事の多さは一目瞭然である。それなのに、こんなに自分は余力もなく軟体動物になってしまって、晩ご飯も賄いの世話になっているのはなんとも情けない。

 入口付近でヘタった桃花はなんとかしてエプロンの紐を解いた。

 大きなため息が口から漏れる。

 のろのろとワイシャツを脱いで洗濯カゴにその場から放った。シャツは言うことを聞かずにべろりと半分はみ出した。スカート、タイツ、体を締め付けているものを脱いでようやく解放される。下着姿で歩き回るなんて年頃の娘としては有り得ない行いだろうが、知ったことか。

 呼び鈴が鳴って晩御飯の呼び出しがかかるまで、取り立ててすべきことは無い。なけなしの体力を振り絞って一応ジャージだけは身につけ、畳まれている布団の横へ体育座りをした。

 布団はまだ敷かない。敷いたが最後ダイブしてしまって翌日まで起きられないのは目に見えている。そうなると唯一の息抜きと言っても過言ではない、朝散歩タイムをシャワーに当てなくてはいけなくなる。それは避けたかった。何度かやった事があるだけに笑い事ではない。


 今度の定休日には、暇つぶしになる新しい本を今朝見つけた本屋で買ってこよう、と決めた。やる気が起きれば大学受験用の問題集でもいいかも知れない。そのやる気が起きる確率は、朝目覚めたら自分が男に変身していた、くらいの確率で無いと思われるけれども。

 初の給料日はまだだが、家から持ち出してきた小遣いには十分の猶予がある。


「給料、か」


 呟いて、ふと父の顔が過ぎった。

 アルバイトの今の自分より、労働時間も責任も比べ物にならないほど多い父。ホテルオーナー、社長として働く社会人としての父を、桃花はよく知らない。忙しくてなかなか顔を合わせることはなく、家にいても夜中まで仕事部屋に篭ってパソコンと向き合っていた記憶だけはある。

 家を飛び出したあの日。

 本当はあの日、父は久しぶりに全休を入れてくれていたらしい。自分の合格祝いをするつもりで。

 ケータイの電源を入れると、何十件もの着信は全て家族からのものだった。あと五分、帰る連絡が遅ければ警察に届け出られる所だった、と聞かされてひやりとした。そこまで心配させてしまったのだ。

 怒り心頭の両親、特に父に自分の意見を述べるのは怖かった。


 勉強という二文字がもううんざりなこと。兄の拓梅たくみと比べられるのが堪らなく嫌だったこと。だが家事や手伝いをすることも嫌で、勉強に逃げた自分が存在したことも。

 その上で、「ハルコ」のアルバイトで働いてみたいと口にした。


 マスターから預かった手紙を恐る恐る差し出して、父の顔色を伺ったあの日を、おそらく自分は一生忘れない。

『自分で考えた結論がこれか?』

 そう尋ねた父の顔は能面のように表情が抜け落ちていた。

 怒られると思って反射的に首をすくめたが、自分の頷きに返ってきたのは「そうか」の三文字。


 そして電話をかけ始めた。

 相手は例のマスターだった。


「突然家出した娘が何を言い出すかと思えば、やっぱり大学を受けますじゃなくて働きたい、だもんな」


 怒る気も失せるというものだ。冷静に考えて自分に呆れる。


「マスターが芯からいい人で、しかもお父さんが偶然マスターの知り合いだったからなんとかなったものの……」


 知らない人について行ってはいけません、という教えなどすっかり忘れていた。

 縁があるという意味では、やっぱり自分はここに来るべきだったのだと思わずにいられない。

 

 マスターとの電話こそ長電話になったものの、あっさりと許しが出たのはある意味では誤算だった。

 ただ最後の最後まで、父の表情は何を考えているのか読めずじまいだった。母は始め動揺を隠せず右往左往していたが、腹をくくった後の対応は早かった。


「失礼な話、ただのカフェのマスターとホテルオーナーの間になんの繋がりが……?」


 気にはなるが、詮索しても何も産まない、意味の無い事だ。頭を振ってそれを追いやった。


「今日やったこと、一応まとめとくか」


 予習復習に関してだけは、誰よりもプロである。伊達に進学校での成績トップクラスを誇っていた訳ではない。

 折りたたみの小さな簡易ちゃぶ台に向かって、桃花は今日初めて習ったレジ業務について覚えている限りのことを整理した。

 現金の会計に慣れるのは早かった。所詮レジは会計の場面においてだけなら、高機能の電卓みたいなものである。

 辿々しい商品確認のセリフは、慣れてくると信じたい。

 はた、とボールペンが止まった。


「……クレジットの場合は?」


 複雑な操作があったのは覚えている。

 脱ぎ捨てたエプロンのポケットを漁ると、殴り書きのメモが出てきたが読めなかった。リングタイプの小さなメモ帳は「初日からメモとペンを忘れてくるような奴は俺なら雇わない」という父の言葉に従って家から持ってきたものだ。


「いつもは触らないこっちの機械を使って……?」


 ダメだ、忘れた。しばらく頭を捻ってみたが思い出せない。

 まあなんとかなるだろう、とスルーしようとしたが、いやいや後で瑠衣さんにきちんと聞いた方がいいな、と考えを改める。ちょうど最後に会計をしたお客さんが、自分の同僚に「新入社員は分かりもしないことを勝手に引き受けて捌いてくるから困る。ちょっとでも分からないことがあったら普通は一々確認するよなあ?」とこぼしていたのを思い出したからだ。

 分からなかったら逐一聞く。自分にとっても大事なヒントだと思った。思い込みは失敗のもとだ。

 ルーズリーフを仕舞う。今度、気分が上がるファイルでも買ってこよう、と脳内の買い物リストに入れた。


 それから、どれくらいぼうっと時間を過ごしていただろう。

 ピンポーン、と間の抜けた呼び鈴がなって、夕飯の支度ができたことを告げる。桃花は幾分か回復した体力で下に降りた。



# # #



 瑠衣は自分用に淹れてきたミルクティーのカップを弄びながら、カウンターの向こうに立つマスターをちらりと盗み見た。

 どこから切り出すべきか。そればかり考えている。


「あー、モモちゃん。今日は先お風呂使っていいよ」


 夕食の賄いの後片付けをほとんど終え、瑠衣が弄んでいるコップを下げようか、下げまいかと逡巡していた桃花が眉根を寄せて自分を見た。

 普段の瑠衣なら真っ先に部屋に帰るので、警戒されても仕方が無い。おまけに、普段ならマスターを置いて先に帰る通いの将弥までもがだらだらと居座っている。何もないという方が無理な話だ。

 「今日は後にゆっくり入りたい気分なの」と言うと、腑に落ちなさそうにしながら桃花は上にあがっていった。

 その後ろ姿を見送って、マスターはやれやれ、とでもいうように大きなため息をついて瑠衣に向き直る。


「珍しいですね、夜は一日の疲れを癒すことに命を懸けているあなたが」

「それは褒めているんですか、貶しているんですか」

「別に、どちらでもありませんよ」


 マスターは微笑みを湛えている。その表情を半ば面白くないと思いながらも、瑠衣はカウンター席に座り直した。


「彼女の、事なんですが」

「ええ」


 言わなくても通じる。桃花のことだ。


「はっきり言って、彼女にハルコの仕事は、向いていないのではないかと思います」


 その言葉に、マスターはグラスを拭く手をわずかに止めた。薄暗い店内の光が一段と落ちて鋭さを増したような気がした。瑠衣は一瞬、その冷たい空気にたじろぐ。


「ほう」


 だがマスターが口にしたのはその一言だけだった。

 暫く沈黙が二人の間に降りる。ややあって、

 

「その理由は?」


 マスターが何でもないことのようにそう尋ねた。

 

「ええ、と、まず」


 妙な緊張感に喉を詰まらせながら、瑠衣はマスターに言おうと思っていたことを頭で順に整理する。


「人の話を聞いていないのか、聞いても忘れてしまうのか……自分のやり方を、変えるのが極端に苦手なようなんです。それから、勝気な性格のせいか、注意されても、すぐにハイと言えない。促されてやっと、という感じです」


 言い訳が先に立つ者は、十中八九客相手でも同じことをする。多少自分に非がないことでも、あるならば尚更、潔く頭を下げることが出来なければ信頼を失う。個人のではなく店そのものの信頼を、だ。接客業とはそういう仕事である。


「それから?」

「それから? ……ええっと」


 まるで意に介さない返事の仕方に、瑠衣の方が泡を食う。マスターはグラスを磨くのを止めない。


「非常に、やりっ放しが多くて」


 今日もクッキーの口をとめるのに使っていたリボンタイが出しっぱなしだった。


「片付けも苦手みたいで、正直元の場所に戻っていないことが多すぎて困っています」


 物を探すという無駄な行為は、自分の自覚以上に大きなロスタイムを産む。それに無駄を感じないのは仕事が出来ない人の典型である、と瑠衣は思っていた。


「それで?」

「そ、それで……?」

「それだけですか? 貴女が思ったこととは」


 それだけも何も、社会人として致命傷な二つではないか。

 将弥はだんまりを決め込んでいる。「一緒に聞いててやる」という一言は、援護射撃をしてくれるわけではなく、どうやら本当に「聞いている」だけのことだったようだ。やや裏切られたような気持ちになりながら、瑠衣は急いで言葉を探す。

 

「えっ、と……敬語はきちんとしているようですがその、とっつきにくいというか、愛想の欠片もないというか」

「はい」

「こちらが歩み寄っても全く隙を見せないというか、威嚇されているような感じすらあって」


 しどろもどろになっているとふっと彼が微笑んだ気配がした。


「瑠衣さん」

「はい」

「人を育てるというのは、並大抵な事ではありませんね」


 彼女の目の前に、一杯のミルクティーが差し出された。いつの間に淹れたのか。静かに揺れる水面を見つめて、瑠衣は押し黙る。

 

「それでいいと思うのですよ」

「……」

「彼女の性格によるものや、ご家族の教育の中で教えてこられなかったこともいっぱいあるでしょう。慣れない環境でむしろ、泣き言も言わずよく頑張っているように、私には見えますがね?」

「それはそうかもしれませんが、しかし……店の不利益が目に見えていて、そのような原因を作る店員を置いておくことには、納得出来ません。わざわざマスターが、『バイトを探している』という嘘をついてまで、未熟な彼女を雇った理由も――」

「瑠衣さん」


 今までになく覇気を纏った口調が彼女の名を呼んだ。 

 鋭い目つきとその声で射抜かれる。その目の奥にギラリと炎が一瞬過ぎったのを、瑠衣は確かに見た。

 焼かれる。とっさにそう思った。


「貴女のその気持ちは嬉しい。店のことを良く考えてくれているのも分かります、ありがとう。ですが」


 覚えておいて欲しいことがひとつあります。


「ここはただ人を『雇う』だけの場所ではありません。共に生き、共に生かされる。彼女を『生かす』為であるならば、この店が被る一つや二つの不利益など、喜んで被りますよ、私はね」


 グラスを所定の位置に戻したマスターの顔はもう、いつもの穏やかな笑顔に戻っていた。


「人間、どんなに先回りをして注意されても、事が起こってからでないと気づけない事が多いものです。起こってから初めて『ああ、こういう事だったんだ』と分かる。貴女にも経験はありませんか?」


 それは、ありすぎるほどある。

 カップの湖面を見つめたまま、瑠衣は押し黙るしかなかった。


「ま、マスターならそう言うと思ったけどね」


 そこでようやく、静観していた将弥が口を挟む。


「瑠衣は面倒見が良すぎるからな。色々気になるんだと思うけど、もう少し長い目で見てあげたら。俺はあの子、伸び代あると思うけど」

「……そうじゃない、とは言わないけど」


 なおも言い淀む瑠衣に、マスターは再度微笑んだ。


「いつか、彼女がここではない社会に出た時に恥ずかしくない人であるように。貴女にはそう、お願いしましたね」


 桃花がきた初日。確かに瑠衣はそう頼まれていた。

 

「はい」

「彼女はずっと、ここにいる人間ではありません。戻るべき場所に戻るための、修行を積んでいるに過ぎないのです」


 まるで、マスターが自分に言い聞かせているような口調だった。答えあぐねていると「ですから、」と彼は続けた。


「どうか、嫌われても、傷ついても、貴女だけは彼女の味方でいてあげてください」


 無理なお願いをしているでしょうが、どうか、貴女だけは。

 懇願のようなマスターの頼みは、すぐに首を縦に振るのが難しい。なぜそんなに彼女に対して思い入れるのか、瑠衣には分からなかった。はいともいいえとも言えない自分の気持ちが、情けなかったり恥ずかしかったりで行き場がない。

 ぽん、と肩を叩かれる。はっとして振り返ると、いつの間にかカウンターの中から出てきて隣に腰掛けている将弥がいた。


「難しいことは考えなくていいんじゃない。瑠衣は瑠衣のままで。そもそもあのタイプは、自分に非があろうが無かろうが、人に何か言われるのを極度に嫌うからね。せっかくいい事とか正論言っても、タイミング間違えると全く聞く耳持たないぞ。悪くすると、お前の嫌われ損で終わる」

「あんた何、エスパーかなんか?」

「違うよ、心当たりがあるだけさ」


 頬杖をついた彼が、すっと瑠衣から視線を外す。


「いいとこのお嬢様で今まで特に目的のなかった子なら、それに見合う努力なんて知るはずが無いってこと」


 将弥の「心当たり」を、瑠衣は知らない。

 瑠衣は冷めかけたミルクティーを、やり場のないモヤモヤとともに一気に煽って片付けた。

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