第3話 いらっしゃいませ
朝食を食べ終えたひかるが「またねー!」と元気よくハルコを後にした。
彼女が下に降りれば開店時間はすぐそこだ。食器を下げて洗うのは桃花の仕事、後の二人はそれぞれ仕込みにとりかかる。
白いワイシャツによく映える、黒いエプロンは「ハルコ」の店員である証。胸の中央に白抜きでプリントされている英字ロゴは、絵を描くのが趣味の瑠衣がデザインしたものである。
シンクは調理台のすぐ横と、人目につかない長めのカーテンで仕切られた簡易作業室の中との二箇所にある。このパーテーションの内側に入ってしまうと、外の音が途端に聞こえにくくなる。集中出来る反面、時間感覚がなくなって作業効率が下がる場合もあるらしい。ちなみに、中にいる将弥のシルエットがふらふらと揺れている時は、十中八九睡眠旅の真っ最中だ。日頃の睡眠が足りていないのだろうか。
「モモちゃん、これよろしく」
「あとこれと、こっちとこれも」
「分かりました」
朝食分の他に、仕込みで使ったボウルや道具がどんどん隣に積み上げられていく洗い物の山。蛇口を捻って水を叩きつける。
洗い物は勢いが肝心である。水圧である程度の汚れを落とし、洗剤の使用量を極力下げる算段だ。
スポンジをよく泡立てて、出来る限りひとなでするだけで汚れが落ちるように。二度も三度も同じ所に触れるのは時間の無駄だ、と教わった。なかなかコツを掴むまでが難しかった。
油ものは、野菜だけしか触らなかった調理器具に重ねない。鉄則中の鉄則である。しかし桃花はそれも知らなかった。
洗い物一つでこんなに工夫するのか。
知らないことを教えてもらうのは楽しい。元々備わっている知識欲はこういう時、有効に働いてくれる。時計がわりにもなるタイマーを目の前の壁に立てかけて、表示を時折見ながら洗い続ける。ぼうっとしてしまって、スピードダウンに繋がるのを防ぐためだ。
キリの良いところで一度水を止めて手を拭いた。洗い終えた皿たちの、雪崩が起きそうな積み方にはもっと頭を使うべきだろう。
濡れた手の水滴を拭き取る拍子に気付くことがある。それは、手のひらの感触の違いだ。
(こんなにも変わるものか)
女子らしさ、にまるで興味の無かった彼女だが、これには少し驚いた。いや、正しくは少しだけ慌てている。
すべすべでふやふやとしていた学生時代の手に比べ、すっかり水分を奪われて皮が二重になったかのような分厚さになった。まるで手袋をはめているかのようだ。紙がめくれない、と指を舐めるご老人の気持ちが今ならちょっとわかる。
手の皮と言えば足の裏の皮もそうだ。立ち仕事に慣れなかった柔肌はこの二週間ですっかりがさつき、それこそ一枚の足袋を履いたように分厚くなった。しょっちゅう屈伸運動をしなければ持たなかった膝も、今はようやく少し慣れてきて楽である。それでも自室に帰ればへたり込んでしまう辺り、まだまだと言わざるを得ない。
「ありがとう、あとこれもよろしく」
また追加が来た。持ってきた将弥が少しだけ顔をしかめた。
「早くなるのは望ましいことだけど……ちゃんと周りの水滴、拭いておかないと瑠衣に怒られるよ?」
「……分かっています」
桃花は水浸しになった箇所を乱暴に台拭きでぬぐった。
「そこは素直にハイでいいのに」
「……はい」
「モモちゃーん、これもよろしくね」
よくもまあ、次から次へと洗い物が出てくるものだ。半ば辟易しながら今度は瑠衣の洗い物を受け取る。
「さすがに水、はね過ぎよ。拭いておいてくれる?」
「今やるところです」
「そこはハイでいいのよ」
「…………はい」
何度も同じことを言われるのは桃花のプライドが許さない。途端に不機嫌になった彼女の後ろで、将弥と瑠衣が顔を見合わせる。
一言物申そうと口を開きかけた瑠衣に彼は手を上げて制し、そのまま肩をぽんぽん、と叩いた。今はやめておけ、の合図だ。腑に落ちないながらも瑠衣は自分の持ち場へと戻ることにした。
その気配に気づいていないのは桃花当人だけである。
程なくして、ジンジャークッキーの焼き上がるいい匂いが漂い始めた。時を同じくしてカラン、と控え目に店頭のベルが鳴った。
入ってきたのは初老の男性である。
温厚、という二文字がぴったり来るような優しげなその人に、三人はピタリと声を揃えて挨拶した。
『おはようございます』
「おはよう。みなさん元気そうで何よりです」
カフェ、ハルコのマスターである。
「今日も明るく楽しく働き、お客様に良い気持ちでお帰りいただけるように努力いたしましょう。ハルコのモットーは」
『人を生かす』
「はい。よろしくお願い致します」
『よろしくお願い致します』
儀式的な朝の挨拶を終えると、店先の「CLOSE」の札がひっくり返された。
桃花は先ほどの気分を入れ替えるべく、一つ大きな深呼吸をした。
開店から十分と経たないうちに、朝のお客様が一人来て、二人来て、よく見る顔ぶれが揃う店内となった。朝の客はまばらである。飲み物一杯の客も多いので、慌しくはない。
狭い店内は、一日中そこそこ賑わっている。
目立って閑散としていることもなければ、長蛇の列が出来るわけでもない。それぞれ特色を出したカフェが軒を連ねる、この街並みのせいもあるだろう。
午前中はOLやサラリーマン、午後は学生が多い。近くに高校や専門学校があるのも関係しているかもしれない。仕事前に一服したい人、学校終わりに予習復習をしたい人など、そのほとんどは一人でやってくる。常連客の中には店員と会話を楽しむものもいるが基本は静かだ。
店内にはオシャレなピアノのCDをかけている。過去にピアノを習っていたこともある桃花だが、知らない曲だ。もっとも、性格に合わずすぐにやめてしまったせいかもしれないのだけれど。
マスターは朝から奥で帳簿をつけている。お客様にコーヒーを淹れるのは、大抵瑠衣の仕事だ。
「手が空きました、何をしたら良いですか」
洗い物を一通り片付けて手を拭いた。小声で瑠衣に尋ねると、カウンターから客席の様子を伺っていた瑠衣がこちらを向く。
こうして自ら聞くようになったのも、瑠衣に習った賜だ。おろおろ、うろうろしているばかりで役に立たず、そんな自分が嫌になりかけていた桃花に、瑠衣は「分からないなら聞けばいいのよ、聞けば。何したらいいですかって。そしたら答えてあげられるから」と明快な答えをくれた。誰かに答えを尋ねることは、ずっと悪いことだと思ってきた。学校のテストは、最初に正解を見てはいけないものだから。けれどそうではなくて、学ぶ過程を大切にすべきだったのだ。基本的なことを痛感させられる二週間だった。
「こっちは大丈夫。将弥は?」
「あ、じゃあテイクアウト用のクッキー詰めるの頼もうかな」
先ほど焼きあがったジンジャークッキーが程よく冷めたようだ。料理だけでなく焼き菓子も大抵のものは自ら作ってしまう将弥を、桃花は心の中で密かに女子の敵認定している。
にやりと笑った将弥に悪意を感じたのは決して気のせいではないだろう。
「この作業は初めてだったよね」
「はい」
最近このクッキー焼くのサボってたからなあ、と苦笑いしながら、冷ましたクッキーを鉄板ごと作業台に並べていく。次に将弥が用意したのは、英字のプリントされたオシャレな透明の袋とリボンタイだ。
「まず袋の中にクッキーを十枚詰めます」
「はい」
「次に上の部分をこう持って、これをこうやってこうやります」
「……はい?」
「そしてこのリボンをこう」
「いや待ってちょっと早すぎて見えな――」
「そして最後にこう」
「っ……分っかんねえ!」
「モモちゃんって普段絶対敬語崩さないのに、脳内処理能力がパンクするとすっごい言葉が雑になるよね」
はっとして口元を抑えるがもう遅い。
「なに、ギャップ萌え狙い?」
「将弥さん相手に狙う意味が分かりません」
「だよねー俺もそう思う」
もう一度、作業をスローで見せてもらう。
今度の説明は丁寧だった。どうやら先ほどはからかって遊んだだけらしい。
「この小さい袋に、ジンジャーくんを10人くらい入れます」
向きはどうでもいいようだ。人型をしたジンジャークッキーが手早く放り込まれる。
それは分かった。
「あ、折れたらはじいといてね。売り物にならないから」
それは「絶対に折るな」という意味の裏返しだろうか。脅しとも取れるセリフをさらりと口にした将弥に背筋が凍った。桃花は目を皿にして次の工程を見守る。
「まず、袋の口を持ってセンターを決めます。上から五センチくらいのところで折り目をつけて、と」
いいながら袋の口を整え、縦半分のラインに折り目をつけた。さらにそこから一回折り返す。
「上から見てZ字になったのわかる?」
折り目の根元を押さえながら上を見せられる。なるほど、上下の線が長いZだ。
「そしたら、右側を同じ幅で折り返していきます」
Zの下の部分を、一番最初の折幅に合わせて折った。続いて左も同じように折る。
「この時に根元で支えてる指は外しちゃダメだよ。ずらさないように気をつけて。折り目がついて汚くなるから、失敗しても折り直さないこと」
最後にリボンタイで根元を捻って止めた。口側を上に開けば……
「わ、扇みたい」
店先のプレゼント包装モデルでよく見かける、綺麗な扇状形になっていた。
「そう。この扇の半径が長すぎても短すぎてもかっこ悪いの。見本はこれだけど、やりながら研究して。センターを決めるのがポイントだよ。じゃ、よろしく」
取り残された桃花は見本をしげしげと眺めた。よし、と小さく気合を入れると、製造用のビニール手袋をしてクッキーを引っつかむ。衝撃で折れやしないかとびくびくしたが意外とジンジャーくんたちは丈夫だった。速度が落ちては意味がない。
桃花はふとエプロンのポケットに入れたタイマーの存在を思い出した。
記念すべき出勤一日目。就職祝いと称して将弥から持たされた防水機能付きのしっかりしたタイマー。
『モモちゃんってさあ、負けず嫌いなタイプでしょ』
『は?』
会ったときから、人を試すような笑みを浮かべていた将弥。なぜこんなものを、と訝しんだが、使う局面はすぐに現れた。
「はいこれ五分で洗って」
「それが終わったらこれを十五分で片付けて」
「これ詰めて。十分」
とにかく彼らの指示は、時間で飛んでくるのである。つまり、これを使って時間を計れ、という意味だったのだ。
人の悪い笑みの理由が分かって、やはり桃花は若干のいらだちを覚えた。
私を試している、と受け取りますがよろしいか。
これは彼からの挑戦状だ。ただ言われるだけの能無しはいらないという意味だと、桃花は受け取った。
やってやる。完璧に。
この時すでにまんまと将弥の策略に嵌っていたのだが、それを彼女が知る由もなかった。
束の間の回想を終えて桃花は再び目の前のジンジャークッキーと睨み合う。
一個目のタイムを計る。二十三秒。十個なら二百三十秒、つまり三分と五十秒。約四分として、これだけ詰め終わるには……
「十六分。アラームを十五分としてセット」
桃花の孤独な戦いの火蓋が切って落とされた。
「あんたってヒトをこき使うのが上手よね」
「酷いなあ、人の生かし方が上手いって言ってよ」
「それはさすがに良く言いすぎでしょ」
戦いのゴングが鳴り響いた簡易作業室の外では、呑気にそんな会話が繰り広げられていた。
呑気に、とはいえ彼らの手は忙しく動いている。瑠衣の目は店内を見渡すことも忘れない。
「でも正解でしょ? 彼女にタイマー持たせたのは」
「まあ、それは」
「あの手のタイプの子はねえ、単純作業だといつまでもダラダラダラダラやっちゃうんだよね。嫌いなことは早く終わらせようとか、そういうバイタリティは皆無だからね」
「……そうなの?」
不思議そうな瑠衣の表情に、将弥はうん、と頷いた。
「ま、俺にも心当たりがあるってことさ」
「ふーん。あんたのことはどうでもいいけど。けどあの子……いや、うん」
何かを言いかけてやめた瑠衣を見て、将弥はふむ、とあごに手を当てた。
「気になるなら、マスターに話してみれば」
「え?」
「俺も一緒に聞いててやるからさ。夕飯の後にでも時間つくろうよ。な?」
ぽんぽん、と彼女の肩を叩く。瑠衣は少しだけ顔をしかめて、しかし小さく頷いた。
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