春、叱る人

第2話 おはようございます

 目覚ましが鳴った。


 朝から煩いと苦情が来るような、けたたましいベルの音ではない。水が流れるような涼しげで控え目な音、それが、桃花のケータイに設定された目覚ましアラームである。

 むくりと身体を起こしてケータイの鳴動を止めた。そのまま固まること三十秒。目をつぶったまま伸びをして、それからまたたきを数回繰り返す。

 昔から寝覚めだけは良かった。早く起きなさいなどと怒られた記憶は殆どない。

 もそもそと布団から這い出して、地面に足を……違う。ここはベッドじゃないんだった。

 立ち上がってカーテンを開ける。眩しい朝日がすでに顔を覗かせている。

 六畳一間の小さな部屋。ここにあるものだけが、今の彼女の全てだ。

 両親へ手紙を書いてくれたマスターのおかげで、桃花は一年という期限付きで「ハルコ」の上階に住み込みでバイトさせてもらえる事になった。

 彼女がここに引っ越して来て、約ひと月が経とうとしていた。



 てきぱきと枕元に並べておいた紺色のジャージに着替える。腰まである黒髪をゴムでまとめた。窓を開ければ、朝独特のひんやりとした空気が滑り込んでくる。布団を冷まし片付け、抜き足差し足でそっと部屋の扉を開けた。

 廊下を挟んで向かいには、自分の部屋と似た焦げ茶色の扉がある。まるでそれぞれがマンションの一室であるかのように仕切られた重厚な扉の向こうには、桃花の部屋より少し広い同居人の住居スペースが広がっている。同居人というのは「ハルコ」で働く先輩、斉藤瑠衣さいとうるいのことだ。

 朝に弱いたちの瑠衣は、騒音などで無意味に起こされるのを極度に嫌う。引っ越して三日目でその超不機嫌を体験してしまった身としては、極力不興を買うような真似はしたくない。


 足音を立てないように階段を降り、二階からは外付け階段に移動して外へ出る。部屋から降りてきた中の階段をそのまま下れば、カフェの裏口へたどり着く。つまり桃花が今暮らしているのは、ハルコのビルの三階だ。


 四月といえども、朝六時だとまだ寒い。一瞬震えながらも、桃花は両手を突き上げて体を伸ばし、左右に倒したりねじったりしてみた。

 さて、散歩の時間だ。空はどこまでも抜けるように青い。

 これが朝の桃花の日課になりつつあった。






「テーブルを拭く、窓を拭く、床を拭く、そしたら花瓶の水を取替えて、外の花の水やりをしてそれから……」


 歩きながら呟くのは、開店前の仕事の段取り。

『同じこと言わせんじゃないわよ』と目を吊り上げる先輩を思い出し、うっかりため息をつきそうになる。

 桃花はハルコに来てからというもの、このような調子で怒られっぱなしの毎日を送っている。


 斉藤瑠衣は文字通り、ハルコの看板娘的存在を担っている人である。

 高いヒールを控えめに鳴らし、細かいウェーブのかかった肩を越す長い髪をなびかせてにっこり微笑めば、大抵の男性がコロリと落ちる、と噂の美人(自称)な彼女は、この店に来てもう八年ほどになるらしい。桃花の目から見ても確かに瑠衣目当ての客はちらほら見受けられるし、応対も落ち着いていて貫禄を感じさせる。


『へえ、あなたが牧師様に拾われた迷える子羊ちゃんか。仲間じゃないの、よろしくね』


 最小限の荷物を持ってやって来たその日に遭遇した瑠衣。開口一番、桃花に言ったのがこのセリフである。

 牧師様というのはどうやらマスターのことで、瑠衣もかつて死にそうになっていたところを彼に助けられ、以後ここで世話になっているそうだ。


『名前は?』

『……桃花、です』

『かわいい名前。モモちゃんって呼んでいい?』

『……ど、うぞ…………』


 瑠衣はどちらかといえば桃花の苦手なタイプであった。天真爛漫というか、自由奔放というか。会話ではしょっちゅうおいてけぼりを食らうし、仕事中は怒られてばかりだが、しかし仲はそこそこ良好である。


『モモちゃーんご飯食べよー』


 彼女は仕事が休みの日でも、必ず桃花を食事に誘う。

 ハルコが夜の八時まで営業する関係上、営業日には賄いが出る。作る人は決まっていないがとにかく文句なく美味しくて食べるものには困らない。問題は定休日の食事である。狭い桃花の部屋にも台所はあったが、情けないことに桃花は包丁を触ったことすらなく、近所のコンビニ弁当のお世話になることがほとんどだった。


 それをひょんなことから知った(ゴミ出しの際にコンビニ弁当の空き箱を発見した)瑠衣が、休日も何かと世話を焼いてくれるのだ。


『え、包丁持ったことないの?! どこのお嬢様?!』


 瑠衣に投げられた一言が痛かったのは、遠い昔の話では無い。


 瑠衣のことを思い出しながら緩やかな坂を下り切ると、お世話になっていたコンビニが見えてきた。都心で見る派手な色遣いの同系列店舗とは違い、外観は周りに合わせてかナチュラルな茶色にしてある。

 中は都心のそれとまるで変わらないのにな、と桃花はぼうっと考えた。外見で人を判断してはいけない最たる例だなどと、下らないことが頭をよぎる。


 今日は反対に曲がってみよう、といたずら心が起きて、いつもと違う左の道をセレクトした。コンビニを曲がってしばらく行くと、奥には文具屋があった。店先に展示されているペンケースやボールペンが可愛い。手書きの黒板によると、一階に文具、ニ階から五階までが本屋になっているらしい。

 学生時代に比べればめっきり使う機会が減ったとはいえ、文具や本といった類は好きだった。あまりイメージにないと言われるが、漫画も好んでよく読む。小説や漫画は桃花にとって、勉強の息抜きに束の間現実を忘れさせてくれる大切なアイテムだった。

 特に気に入ったものは、シリーズで買って揃えていたりもする。一日中居ても楽しめそうな店だ、と心が浮き足立つのを感じた。そういえば去年の手帳が四月始まりだったので、今年の分はまだ買っていなかったと思い出す。いつか絶対に寄ろうと決めた。

 また暫く進む。時計を見ると六時半を少し回ったところだった。そろそろ帰らないと……適当に見当をつけて曲がる。見慣れた路地裏に出た。方向音痴の自分だが、大分この細い道を攻略してきた気がする。七時までには店に帰らないと。瑠衣が起き出してくる前にやらなければいけないことはいっぱいある。


 一度着替えに戻ってハルコに下りると、キッチンに立っている先客がいた。


「あっ」

「モモちゃんおはよう。はい、君の負け。これで十敗目、だっけ?」

「ああっ! おはようございます!」

「残念でしたー。また明日チャレンジしてね」


 桃花が室内に入るか入らないかのタイミングで笑顔を振りまいた、コックコート姿の青年。


「なんで将弥さんの挨拶はいつも早いのか……」

「挨拶ってのは、されたらするってもんでも、そこに誰かがいるからするってもんでもないの。反射なの反射。これ鉄則」


 仮に誰もいなかったとしても、別に恥ずかしいことでも何でもないし。むしろ気付かなくて挨拶できない方が失礼じゃない? とは、以前将弥が桃花に言った言葉である。

 先に挨拶するのがなんとなく恥ずかしい、という心理は見透かされているようだ。当たり前の事を言われて唇を噛んだ。

 そう簡単に、先に挨拶する習慣がつくわけない、とは、見当外れも甚だしい言い訳であることくらい分かっている。ただ自分の非を認めたくないだけだった。同時に、何度言われてもなかなか踏み出せない自分が恥ずかしくもあった。


 彼、黒木将弥くろきしょうやはハルコのシェフである。


 桃花がハルコに入る初日、「挨拶くらい新人からするのが基本じゃない?」と至極真っ当な注意をした将弥は、言動のチャラさに定評はあるものの根は真面目人間らしかった。

 彼が作る料理は美味しい。カフェには採算のとれるメニューしか置いていないが、賄いになると和食でも洋食でも、なんでも幅広く作ってくれる。本人は「ちゃんとした所で習ったわけでもないし、大したことないよ」とよく口にしているが。しかし密かに料理雑誌を集めて勉強していることは、隠しているつもりで隠しきれていない厨房下のダンボール箱を見れば歴然だ。努力家なのである。


 将弥が鼻歌を歌いながら野菜を刻む音がする。それをBGMに、テーブル拭き、窓拭き、床の掃除など、毎日のルーチンワークをこなしていく。

 今日こそは、今日こそは、将弥さんには負けたけど、瑠衣さんにこそ先に挨拶しよう。

 いい加減、変わらないとダメだ。


 そう考えていた矢先、かすかに蝶番の軋む音がして、奥の扉からふわふわした茶色の髪の毛がのぞくのを捉えた。


「おっ、おはようございます瑠衣さん!」


 声がひっくり返りそうになる。顔に羞恥の熱がのぼる。

 瑠衣は寝ぼけ眼のまま驚いたように桃花を見つめ……顔をしかめた。


「朝っぱらからそんな大声ださないでくれる、頭痛くなるから」


 ――勇気を出して咲かせた花はあっという間に枯れた。


「おはよう瑠衣。折角モモちゃんが元気よく挨拶してくれたのになんだその言い方は。いくら眠いからって怒るなよ」

「あー……ごめん。怒ってない。モモちゃん、おはよ」

「……おはよう、ございます」

「モモちゃん、今のでいいよ。自然体で出来るようになるまで、ファイト」

「……」


 言うことがマトモなだけに人を傷つけもするが、将弥はフォローも早い。桃花は彼の一言でちょっとだけ救われた。

 カウンター席の真ん前にどっかり陣取った瑠衣の左隣へ、桃花も腰掛ける。

 サラダを作り終えた将弥が四人分のトーストたちを並べ、彼自身もキッチンから出てきて桃花の左隣に座った。日常の風景。カフェ「ハルコ」の朝食タイムの始まりである。


「モモちゃん、だいぶ皿洗いに慣れてきたよね」


 こんがり焼けたトーストを咀嚼しながら瑠衣が言った。細いスタイルの割に彼女はよく食べる。そして美味しい物に目がない。


「うん。速くなったね」


 まだまだだけど、と付け足すことも将弥は忘れない。最後の一言に若干傷つきながら、これは舞い上がらせない為の愛のムチだと思うことにした。


「じゃあ今日はレジ打ちやってみるか」

「れ、レジ打ち?!」


 思わず声がひっくり返る。


「出来た方が安心じゃない? 万が一、将弥もあたしもいない時があったらどうする?」

「料理が出せないので営業不可能です。閉店してください」

「……ごもっとも」


 隣で聞いていた将弥が吹き出した。


「おっはようございまーすっ」


 チリリン、と風鈴のような音が鳴る。裏口からひょい、と女の子が顔をのぞかせる。

 ゆるく着こなしたオーバーオールが可愛い、小柄な彼女がふりふりと手を振った。


「おはよう、ひかる。今日も変わらずかわいいねー」

「はいはいおはよう。ありがとー」


 将弥の軽口に対するあっさりとした彼女のあしらいは慣れたもので、誰も突っ込まない。


「なになに、ついにモモちゃん接客デビューするの?」


 ひと皿残っていたトーストの前に座り、豪快に頬張ったひかるが首を突っ込んだ。


「接客というか、レジ業務をね。そろそろいいかなあと思って。もちろんマスターに確認はとるけど」

「いいねえ接客。楽しいよ?」


 ひかるがきらきらと目を輝かせて言った。

 ハルコの下の一階にて、二人で雑貨屋を営んでいる彼女からすれば接客なんてお手の物だろう。桃花の胸中など分かるはずもない。

 全く、他人事だと思って。今の心境を漫画で例えるなら、ヒロインを人質に取られた上で聖剣を捨てろと脅され迫られている主人公レベルの緊張感なんですが。

 半ば意味のわからない言い訳を脳内でしながら桃花はサラダを口に運ぶ。


 ちなみに、ひかるとともに雑貨屋を営む「あっちゃん」という人物は、どうやらひかるの家族らしい。本名は知らない。ひかるが「あっちゃん」としか呼ばないから。察するに、姉か何かだと思うのだが。

 未だに会った事がないのはあっちゃんが朝極端に弱く起きられないのと、営業時間も定休日もハルコとほぼ被っているのでなかなか桃花と顔を合わせる機会がないせいだ。

 きっと「あっちゃん」も相当の美人なのだろう、ということはヒカルの横顔から容易に想像がつく。性格もひかるに似ているとしたら、とっても賑やかで明るいお店のはずだ。

 是非一度来て欲しい、と言われてはいるが、まだまだ自分のことに手一杯で、下に顔を出すほどの余裕はない。

 眉根を寄せて厳しい顔をしている桃花の眉間を人差し指がずい、と押した。


「うっわっ?!」


 犯人は、ちっちっ、と横に指を振る瑠衣だ。

 

「そんな厳しい顔しなーいの」

「そうだよモモちゃん。せっかくの可愛いお顔が台無しだよ?」

「接客は笑顔が肝心なのよー? はい笑って!」


 ひかるの無茶を完全無視してトーストをかじる桃花。


「ねえ瑠衣、モモちゃんつまんないよう……」

「いま笑えないのに笑顔で接客なんてできないぞー」

「で、出来ます。必要なら仕方ないですから、やれます」


 本当は接客が怖い癖に、せめてもの強がりである。「もー可愛くないんだから!」と笑ってアタマをぐしゃぐしゃ撫でてくる瑠衣の手を避けながら、面倒な事になったと桃花の胸中は全く穏やかではなかった。

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