春を待つ人 〜カフェ・ハルコと夢さがしのティータイム〜

楠木千歳

プロローグ

第1話 春待つ彼に出会う人

 冷えきった空気が肺を刺す。


 震えたのは寒さのせいか、それとも夜の闇に覚えた僅かな恐怖のせいか。

 無理やり大きく吸い込んだ酸素をため息に変えて、本条桃花ほんじょうももかは初めての駅に降り立った。

 無意識のうちに、右手をポケットに突っ込んだ。携帯電話を取り出そうとして、固いそれに指先が触れる。

 そうだ、電源を切ったんだっけ。

 結局それを引っ張り出さないまま、桃花はぬくぬくとしたポケットから手を引き抜いた。


 荷物は、高校の行き帰りに使うスクールバッグ一つ。三年間使い込んだそのバッグは、この辺りでは有名な私立高校のものだ。

 今時珍しい、腰まである黒髪をなびかせて、彼女はゆっくりと周囲を見回した。

 背後で電車の扉が閉まった。空気が抜けるような音を立てて、それは桃花を置き去りにする。


「……さて」


 人ごみに流されて歩きながら、彼女は低い声で小さく呟いた。

 目的地なんてものはない。「桃華公園前」という駅名に多少の愛着を覚えた、ただそれだけのことだ。両親と口論してそのまま家出してきたのだから、行く宛などあるはずもないのである。


 小さな駅でありながら、その改札はなかなか人の往来が激しい場所だった。しかし喧騒に満ち溢れているかといえば、そうでもない。静謐さを保つこの駅が、桃花はいたく気に入った。そういえば大人のデートスポットとして人気であると、同級生たちがはしゃいでいたような記憶が脳裏を掠める。


 人混みに流されて改札を出た。一番最初に通った車が右へ向かって流れたので、右へ折れることに決めた。

 吐く息は白い。三月に入ったというのに、今にも雪が降り出しそうな寒さが体の底からやってくる。その寒さを噛み締めるように、一歩づつを踏みしめるように、桃花はゆっくりと歩いた。


 カフェやバーの多い街だった。お洒落な門構えの店がいくつも軒を連ねている。桃花はカフェが好きだった。日常をほんの少し忘れて「贅沢なひと時を過ごす」という感覚がたまらなく愛おしくなるからだ。嫌なことも、面倒なことも、少し忘れて幸せな時間に浸ることができる。ただ、そんな桃花の興味を理解してくれる大人びた友人は、これまであまりいなかったけれども。


 是非昼間に来たいものだと思いながら、家出してきたという事実を忘れて思わず桃花の頬は緩む。


 やがて三叉路に行き着いた。

 どうしたものか、少し悩んで立ち止まる。

 ややあって下り坂になっている左の道を選び、彼女は歩みを再開した。

 繁華街にお決まりの、チェーン展開されているファストフードやカフェは無い。それらの存在を許さないかのように、静かに「個性」を主張しながら、こじんまりと店が建ち並んでいる。


 はた、と足を止めた。


 桃花の好みど真ん中を貫いたカフェが、そこにひっそりと息をしていたからだ。


 ナチュラルな薄茶の壁と対比させてか、焦げ茶の木枠にはめ込まれたガラスの扉。曲がった木の枝が取っ手になっているその店にかかる札は……「CLOSE」。

 残念さを隠しきれずああ、と口から声が零れた。

 白く可愛らしい文字で扉に記された片仮名「ハルコ」は店の名前だろうか。店外の鉢植えもセンスがいい。

 桃花は一歩、店の方へと近づいた。まるで吸い寄せられたかのように。

 クローズと書いてはあるものの、ほの暗い明かりが奥で灯っているのが見える。


 どうしよう。開けてみようか。


 普段の常識的な桃花なら、絶対に考えもつかない暴挙であった。だがしかし、今日の彼女は彼女ではなかった。

 なにせ、今まで一度も反抗したことのなかった両親に楯突いた挙句、家を飛び出してきたのだ。むしろこれくらいの方が正常な範囲と言えた。意を決して桃花はつかつかとその扉に歩み寄り、思い切って、だが少し遠慮して、静かにその扉を開いたのだった。


「おや」


 人の気配を感じた家主が顔を上げた。

 マスター、と呼ぶのが相応しい、ロマンスグレーの男性がそこにいた。身長は自分と大差ないくらいで、さして高くない。

 グラスを綺麗に拭いていた手を止め彼は言った。


「CLOSEの札は……」

「出してありました。が、どうしても気になってしまって、つい」


 店の雰囲気が、とても気に入ったので。

 と付け足したが偉そうだったかと思い直し、慌てて、凄くいいお店だと思ったのでどうしても入ってみたくなったんです、などと言いなおしてみる。


「そうですか、それは光栄です」


 彼はにっこりと笑った。


「どうせなら一服如何です」

「良い、のですか?」

「ええ、もちろん」

「……頂きます」


 大したものは出せませんがどうぞ、と目の前のカウンター席を指される。

 制服姿でも、理由すら聞かずに一人の客扱いしてくれるのが心地よく、桃花は大人しくそこに腰を下ろした。コートを脱いで隣の席に置く。顔を半分隠していた白いマフラーも外した。ひりりと頬が痛んだ。


 店内を見渡す。

 広くはない。今腰掛けているカウンター席が合わせて五つと、机を挟んで椅子が向かい合っている席が六つ、窓際にあるだけ。カウンターとの距離も近い。

 壁のほぼ全面を占める窓ガラスからは、下の景色が見下ろせた。


「……下?」

「ああ、ここは二階ですからね」


 先程入ってきた場所から、階段などは上がっていない。怪訝そうな顔を悟られて、マスターが補足する。


「坂ですよ」

「坂……」


 ようやく思い至った。

 桃花は駅のある方からこの道を下ってきたのだった。つまりここは坂の上、そのまま下っていけばこのビルの一階が面している道に行きあたるのだろう。


「ますます、素敵なカフェ」


 思わず口から漏れた一言は、マスターの耳にも届いたようだった。微笑みながらコップを差し出される。


「お好きかな」


 白い上品なカップに注がれていたのは、湯気立ちのぼるココアだった。


「ええ」


 とても、と加えた一言が掠れたのは、今一番欲していた飲み物を当てられたからに他ならない。

 そっとカップに口をつけた。とろりと液体が喉を伝う。

 熱い。甘い。そして最後に少し、苦い。


「美味しい……」


 マスターは微笑みを崩さずに頷いた。

 暫くの間、沈黙とココアを啜る音だけが二人の間に横たわる。

 先に口を開いたのはマスターだった。


「御両親が心配なさっているのではないですか? お嬢さん」


 凍りついた。

 心配、なんて。

 しているに決まっている。


「……まだ」


 それでも。


「まだ、帰りたくなくて」


 我が儘なことくらい、分かってはいるけれど。


「そうですか」


 マスターは磨いていたグラスをそっと置いた。代わりに白い陶器のカップを手に取る。ココアの入っているマグよりも小さいそれに紅茶を淹れた彼は、カウンターの向こうから出てきたかと思うとおもむろに隣へ腰を下ろした。


「え……?」

「いや、貴女と少し、一緒にお茶がしたくなりました」


 にこにこと笑うマスター。ふと、亡くなってしまった自分の祖父の姿と重なる。


「この紅茶を飲み干してしまうまで、お相手願えますか」


 桃花は俯いた。飲みかけのココアの水面が揺れて、なんだか自分の心を映されたような気分になった。


「はい」


 黙って二人は中身を飲んだ。

 やがてココアが底をつきそうになった頃、桃花の口からぽろりとそれは飛び出した。


「……お話ししても、いいでしょうか……」


 不意に聞いて欲しくなった。帰りたくない理由。下らないその理由を。

 マスターはもちろん、と頷いた。


「どうぞ。私で良ければ」


 桃花は息を吸い込んだ。ココアを一口飲む。甘い液体が、少しだけ心のしこりをほぐす。


「……私、受験に失敗したんです。勉強して勉強して勉強して、絶対受かる、って太鼓判を押されていた大学に、落ちたんです」


 元来人付き合いの上手いほうではない桃花は、一人でいることが多かった。ショッピングや化粧、オシャレにもまるで興味がなかったので、必然的に学生時代は机に向かっている時間が長かった。勉強は苦にならなかった。その甲斐あってか、成績は超がつくほど優秀。周囲の勧めで、満を持して国立の大学を受けたはいいものの。


『滑り止めまで全部落ちるとはどういう事だ!? 判定はAだっただろう!』


 父の荒らげた声が耳に蘇る。


『あなた、そんなに怒らなくても……また来年、チャレンジしてもいいじゃない』

『馬鹿を言え。兄は一発合格だったぞ』

『桃花と拓梅たくみでは違うところもあると思うわ』


 母が宥めてはくれるが、父の怒りはおさまらない。


『大体、お前は大学に行く目的がちゃんとあるのか? もっと明確にして、行く大学を絞ればよかったんだ』


 その言葉が決定打だった。理性の緒が切れる音を聞いた。


 今まで大人しく勉強してきたのは、やりたいことがあったからでも、難関大学に受かりたかったからでもない。そうしていれば、誰からも文句を言われなかったからだ。何をやっても敵わない、自分の兄を見返してみたかったからだ。


『大学、行ってからやりたいことを決めても遅くないと仰ったのはどこのどなたでしたっけ』


 自分でも恐ろしいくらいに冷えきった声が出た。


『高学歴を獲得しておけば就職に有利だからっていうけど、このご時世、やりたい仕事に就ける人が一体どれだけいるんですか? やりたいことやりたいことって、お父さんだってそれを諦めて家を継がされた口でしょう? 親心だなんだと言って、結局は自分の体裁が気になっているだけなんじゃないの』

『桃花……!』


 母が制する声を無視し、桃花は父をきつく睨みつけた。


『おい、誰に向かってそんな口を聞いているんだ!』

『他でもないあなたですけど?』


 母が少しでも桃花を慰めようと作った彼女の好物のカレーの上に、持っていたスプーンを力いっぱい叩き込む。


『有名大学を出ていなかろうと、自分の仕事は自分で見つけますのでどうぞ御心配なく』


 額に青筋を立てて父が立ちあがる。それよりも一瞬早く、桃花はリビングを後にした。

 今まで立てたこともない大きな音で扉を閉めて。




「そうでしたか。そして、そのままここへ?」

「はい。飛び出してきて」


 落ち着いて言葉にしてみた、今なら分かる。

 考えること、選ぶこと、決めること。面倒くさいそれら全てを放棄して、決められたレールを歩いてきたのは自分自身だ。それがうまくいかないからといって、両親に八つ当たりする権利はどこにもない。


「私が、悪いんです……」

「一概には言えませんがね。お嬢さんがなにも言ってこなかったというのは、一つの原因ではあるでしょうが」


 マスターはじっと聞き入ってくれていた。その上で、桃花を不必要に庇うことも怒ることもしなかった。


「でも、そのことに気がつかないまま、人のせいにしたままで、大人になる人も多いですから。今気がついて、良かったですね」


 大学に受からなかったことは、幸運でもあったのでしょう。

 マスターは穏やかに言った。


「それで、どうしたいのですか貴女は」

「え、っと……」

「この先の人生を、ですよ」


 桃花は言葉に詰まった。正直に言って、全く考えたことがなかったのだ。


「分かり、ません。今まで学校の勉強以外、本当になにもしてこなかったので。ありったけのお金を持って歩いても、それだけでは……生きていけない」


 飛び出してきて初めて気づいた。

 住むところもないホテル暮らしでは、いつか資金の底が尽きる。出されたものを食べ、用意されたものを着るだけの生活に慣れている自分には、野宿をする勇気も方法もない。お金を稼ぐにしても、バイトの面接に必要なモノすら、桃花は知らない。

 自分は世の中の仕組みに対してあまりに無知で、無関心過ぎた。それは無関心でいても毎日困ることなく生活できるくらいに、恵まれていたということだ。


「それなら」


 マスターも最後の一口になる紅茶を飲み干した。空のカップがテーブルに座った。


「うちで働きませんか」

「……え?」

「もちろん、貴女の御両親に了解が取れれば、の話ですが。まだ未成年ですから親の了承は絶対ですが、ちょうどひとり、人を雇おうかと考えていたところでね」


 何でもないことのように淡々と、マスターはそれを口にする。


「ああ、経験則は問いません。来年またもし受験するならば、浪人中の一年間だけ、一日数時間でもいい。机の上では出来なかった『お勉強』に、興味はありませんか?」


 ココアはすっかり飲み終えたのに、喉が乾いて張り付いた。僅かに手が震える。


「まるで、使い物にならないと思うのですが」

「何を仰る。最初から使い物になる人なんて、一握りの天才だけですよ。何事も修行と経験、自分に出来ることがあると思って取り掛かるのは、間違いの元です」


 その通りだ。マスターの言葉に恥ずかしくなって俯く。

 少しして桃花は顔を上げた。


「ありがとうございます。家に、帰ります。帰ってきちんと、話をします。両親と」

「はい。それが良いかと」


 マスターはまたにこりと笑って頷いた。


「暴言を吐いたこと、自分が間違った事については、ちゃんと謝ること」

「はい」

「それと、心配をかけたことも」

「はい」

「ああそれと、御両親に私からお手紙を書きましょう。ちょっと待ってて頂けますか」


 マスターは一度奥へ引っ込んだ。桃花はその背中を見送った。

 彼女の心は嘘のように軽くなっていた。

 今までのことは全て、この人と、この店と出会うためだったのかもしれない。虫の良すぎる考え方だが、そのようにも思えてくる。


 桃花は、決めた。

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