第26話 山へ
(山へ)
翌朝、大学の山岳部の人たちが車で迎えに来た。
美晴が嫌がるような油握ったむさ苦しい男たちではなく、とても山とは縁のなさそうな美男子ばかりだった。
「なに、ここはホストクラブ?」
「光栄なお言葉……、お嬢様、荷物をお持ちします!」
美男子の一人がホストの真似をして、両手を差し出した。
私は、その手にリュックを渡すと……
「何が、何が入っているんだ?」と、美男子の彼が、その重さに驚いてよろけながら訊いた。
「え、えーと、ハーネスとかカラビナとか……」
「岩をやるのか? 昨日も急にクライム一式持ってくるように電話があったし……」
「岩、というより救助訓練かな?」と、私は笑って答えた。
「まあ、今回は夏合宿の下見だから、暇つぶしに、ちょっと岩を登るにはちょうどいいと思っていたけどねー」
「あ、はははー、そうでしょうー、きっとそのうち役に立つと思うわ。さあー楽しく行きましょうー!」
私は空元気に叫んだ。
でも美晴には悪いが、美男子ばかりに囲まれて、ちょっといい気分。
美男子たちは、「へーイー、」と、大声で返事を返してくれた。
お日様も昇り、沢渡まで来た。
環境保護のためにマイカー規制。駐車場に車を置いてタクシーに乗り換えた。
バスも出ているが、この人数だとタクシーが便利だという。
一度は来たいと思っていた上高地の大正池の風景も、車窓から通り過ぎていく。
「私、大正池見たい……」
昇さんは、私の何気ない言葉にも優しく答えてくれた。
「帰りに時間があったら寄ってもいいよ。でも、歩いて往復一時間以上は、らくにかかるよ!」
往復一時間以上と訊いて、足がすくむ。
「タクシーは?」
私は食い下がる。
「お金が掛かるよ……」
やっぱり、足どころか気持ちもすくむ。
「考えておくわ……」
登り口に着くと、タクシーから追い出され、美青年から重い荷物を渡された。
私的には、愚痴の一つも言いたいところだが、何しに来たと言われるのが落ちなので、昇さんのメンツも考えて、ここではとりあえず山ガールを演じた。
登り口からは、普通の林の中の散歩道。 明るいグリーンに輝くブナの林の中を歩く。
早朝とあって、空気も澄んでいて気持ちがいい。
都会のむっとくる蒸し暑さとはぜんぜん違う。
憧れていた高原の、それも山の麓に来ているんだ。ちょっと幸せ!
もう、人もたくさん出ていて、行き交う人に「おはよう」と、声をかける。
入り口から一〇分くらい歩いて河童橋。
すでに背中の荷物が重い。
でも、テレビや雑誌によく出てくる、見慣れた風景の中の、同じところに立っているのだと感激。
ちょっと来てよかったかなと思ってしまった。
空は抜けるように青い。
昇さんに立派に見える山の名前を一つずつ訊いてみるけど、訊いた先から忘れてしまう。
でも穂高、明神岳くらいは覚えてしまった。
梓川の川べりの木陰に作られた、木製のベンチとテーブルがあるところで、リュックを降ろして腰も下ろす。
休憩までとはいかないが、せっかくの名所とあって記念写真をみんなで撮った。
「今日も暑くなりそうだっ!」
美男子の中の誰かがいった。
でも暑いといっても気持ちの良い暑さだ。
ただ日焼けが気になる。日焼け止めグッツが役に立つといいけど……
登山が一部の山ガールを除いて、女の子に人気がないのは、この日焼けのせいかもしれない。
これさえなければ、こんな美しい所に来ないはずはないと思った。
しかし、梓川沿いを歩いて三時間。
良かったのは横尾山荘まで。
それを越えると、徐々に登りがきつくなり、道幅も狭くなって、岩だの石だのがゴロゴロ突き出たりしていて、足場も悪い。
ここに来てリュックの重みが肩に掛かる。
涸沢まで二・四キロの道しるべのある河原に着いた。
つり橋を渡って河原で休憩。
もう涸沢に着いた気分で、重いリュックを降ろして、日焼けもシミもお構いなしに天を仰いで寝転がる。
「はーあ、もう動けない……」
こんな荷物をしょって、こんな重労働するなんて、私の人生の中の最大の試練だ。
「良く頑張ったね。もうすぐ涸沢だ……」
ぶっ倒れている私を見て昇さんが、優しく声をかけてくれた。
「あと、何分くらい歩くの?」
「普通なら一時間半くらいかな? ゆっくり歩いても二時間もあれば着くよ。後は楽なものだから頑張って……」
「本当、……?」
その言葉は、ものの一〇分も歩けば嘘だと分かった。
突然、見上げるような急勾配に岩だらけの道。
来るんじゃなかったと後悔の一念。
「こんなところ過弱い婦女子がこられるわけない!」と口に出して言ってしまった。
言ってしまってから辺りを見回して、誰も聞いていなかったことに少しほっとする。
更に背中の荷物が重く肩に食い込む。
歩いても、歩いても、一向に涸沢のかの字も見えない。
そしてまた、登り……
「お姉さん、頑張って!」
「由加ちゃん、来てたの……?」
「だから、お姉さんにとりついて、迷わないように一緒に登るって言ったでしょう」
「そうだったー、でもお兄さんに見つかっちゃ駄目よー!」
「分かっているわー、他の人には見えないみたいよー」
「それは良かった。それにしても由加ちゃん、登るの大変じゃあないの?」
「ぜんぜん平気。楽しいよー!」
由加ちゃんは、さっちゃんを抱えながら、後ろ向きで私の前を歩く。
「いいなー、幽霊さんは……」
それから二時間ひたすら登る。
道は更に狭くなり、更に岩なのか石なのかわからないような険しい道を進む。
もはや平たんな所を探すのは困難だった。
そして低い木々の間を抜けると、視界が一気に広がった。
「涸沢だ……」
そこは大きく抉れたすり鉢のような所で、穂高岳、涸沢岳、北穂岳をすり鉢の淵とすると、私たちのいる所はすり鉢の底にあたる。
「凄ーいー、なんて雄大な眺め……」
東山魁夷の屏風絵を思わせるような日本画的色彩。
緑の木々と岩の黒、灰色の砂浜のような細かな砂利、今年は雪が多くまだ雪渓が到る処に残っていて、純白のアクセントをつけている。
東山魁夷でも涸沢までは登りに来なかったのかな?
来たら絶対に絵にしていると思った。
それから一〇分歩いてテント場。
この一〇分もきつかった。
よろけながらリュックを降ろして、その場にへたり込んだ。
そしてリュックを枕に空を仰いだ。
少し雲が出てきていた。
「今日の日程はこれでおしまい。後はテントを張って、明日の奥穂高登山に備える。ゆっくり休んでいいよ。でもお昼ごはんを食べてからね。一緒に食べようー」
私は、奥穂高と聞いても、どの頂が奥穂高か知らなかった。
「どこでもいいやー、明日のことは、明日考えよう……」
昇さんのお昼ご飯という声に、私はムックと起き上った。
私のために大分ゆっくり休憩を多く入れながら登ってくれたので、涸沢に着いたころには、大きくお昼を過ぎていた。
私は、へたり込んだまま靴と靴下を脱いでリュックからお弁当を出して、石のテーブルに置いた。
前を見れば見事な自然の驚異の技。
何百億年の昔、氷河が削り取ったという滑らかな曲線。
しかし、頂は鋭くとがっていて、今も崩落を繰り返して谷に落ちていると言う。
私はそんな風景を見ながら朝、遥さんが作ってくれたお弁当を食べた。
お弁当には、ローストビーフ、グラタン、筑前煮、たまご焼きと炊き込み豆ご飯、それとお漬物と梅干が二個添えてあった。
この風景よりもお弁当のほうが美味しいと思った。
「さすが遥さん、ありがとうー!」
私が美味しいお弁当に、舌鼓を打っていると昇さんが来た。
「はい、コーヒー、お弁当美味しかったねー!」
「うん、素晴らしい風景と美味しいお弁当でもう最高。これインスタントではないのねー?」
「そう、コーヒー好きなのがいてね。俺はインスタントは飲まないって言ってね。重いのにいつもミルと豆とドリップペーパーを持ってくるんだー!」
「すごいこだわりねー、誰……?」
「あいつ!」
指差した方向には、今もコーヒーをドリップしている、眼鏡をかけた美男子がいた。
私はカップを上げてお礼を言った。
「後で氷河を渡りに行くかい、といってもあそこに見える雪渓だけどね。本当はここよりもそこが絶景ポイント。よく雑誌に出てくるのがそこからの写真。ここからだと山が陰になって見えないんだ。散歩コースになっているよ、というよりも明日いく奥穂高に登る登山路の途中だけどね。本当は散歩しながら、あそこに見える山小屋に買出し……、雪渓からだとちょっと遠回りだけどね。素晴らしい風景だから、散歩しながら行こうと思って……」
「ええ行くわー、こんな綺麗なところ、少し散歩したい気分。それに私も買出し手伝うわー!」
「そういってくれると思った……」
美味しいお弁当も食べて、今日の宿も決まったところで……
でも、テントだけれどもね。
気持ちは軽く元気が出てきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます