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 ヒロノブが事故を知ったのは、映画を見終わった後だった。

 サウジアラビアGPの翌日、彼はチームがチャーターしたプライベートジェットでサユリと一緒にロンドンに向かう。飛行時間は約五時間半。この飛行時間だとかなり長い映画を一気見出来る。そこでヒロノブが選んだ映画はマーティン・スコセッシ監督作において初めてデニーロとディカプリオが共演を果たし、一部の映画館で勝手に途中休憩を入れられて配給側が規約違反を主張したで、まあまあ話題になった《キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン》だった。上映時間三時間二十六分。携帯電話で配信版を見る分にはどこで休憩しても規約違反にはならないだろう。途中で、ちょっとサンドイッチかなんか食ったりしてダラダラ見ても時間は大分余るはずだ。そこで同時上映としてはウディ・アレン監督作のムーン繋がりで《マジック・イン・ザ・ムーンライト》にした。こちらは上映時間九十七分。時代設定も1920年前後の禁酒法時代付近で被っているので、ウディ・アレンとスコセッシでその時代の描き方の比較が出来るのも一興であろう。

 禁酒法時代と言えば、酒を飲んでいるのを誤魔化す為に、酒っぽくない酒、カクテルが進化発展した時代だ。それから百年後、時代は一周し、現代においては、酒じゃないけど、酒を飲んでる気分を味わう為の酒っぽいソフトドリンク、モクテル(Mocktail、偽のカクテル)が人気を博している。しばらく次戦まで空くので、飛行中に酒を控える必要性は全く無かったが、ロンドンのヒースロー空港からはNSXを運転してモーターウェイ(英国の高速)を飛ばしてノーサンプトンに帰る予定だったので、ヒロノブはモクテル・モヒート(ミント、砂糖、ライムジュース、シュガーシロップ、ソーダ水)を注文し、ゆったりリクライニングシートで寛ぎながら、映画鑑賞を開始した。

 各自一例を挙げれば、《ゴッドファーザー・パート2》のビトー・コルレオーネや《レヴェナント:蘇えりし者》のヒュー・グラスと言った数々の英雄的人物群を演じて来た、デニーロとディカプリオだが、一転キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンでは堕落と腐敗を体現するクズ二人を演じた。英雄の物語もいいが、クズの話も面白い。彼らはオイル・マネーで運よく巨万の富に潤うネイティブアメリカン連中を食い物にし、私腹を肥やすのだ。デニーロが演じるウィリアム・〈キング〉・ヘイルは地域での有力な農場経営者として、保安官を務めつつ警察権力を掌握し、犯罪を隠滅する。そのキングの手下としてディカプリオ演じるアーネスト・バークハートもその犯罪に加担して行く。要は権力の堕落と腐敗がテーマだ。権力を握り、不適切行為を隠滅可能な環境が整うと、権力者はその環境に誘惑され堕落し、腐敗しがちだ。ヒロノブは物語を鑑賞しながら、ここ最近のスキャンダル報道を思い起こした。長年にわたってテレビ業界の頂点に君臨し続けた大物芸能人の性加害報道。去年コンストラクターズを制したレッドドラゴンのチームプリンシパル、クリストファー・ホーマーの不適切行為への告発と調査。これらのスキャンダルは、キングとアーネストが加担した事件と同様の権力者への誘惑の構造を共有している。より正確に言えば、大物芸能人のスキャンダルは事実関係が確定している訳では決してないので、誘惑の構造を共有している可能性がある段階であり、クリストファー・ホーマーはその後の調査結果でレッドドラゴンが申し立てを却下し無罪放免が確定したのでその可能性も消滅した。ただ問題なのは、その誘惑的な環境下に置かれた人間は、その誘惑に抗うことが出来るのかどうか、という点だ。誘惑されるのは一握りの極悪人なのだろうか、それともその環境に置かれれば、多くの普通の人々も同じように誘惑されるのだろうか。どっちだろう? ヒロノブはそんな疑問を抱きつつ、モクテル・モヒートを飲む。

 映画を見終わったヒロノブはすっかり疲れ切ってしまった。ヘッドホンを外し立ち上がると、軽くストレッチしてからシャドーボクシングをして体をほぐす。彼はまたシートに座るとロート製薬の目薬を差して、眼球の爽快感を堪能する。目はレーサーにとって大事な商売道具だ。しっかり保護して休ませないとな。予定を変更して、ウディ・アレンはパスして音楽でも聴こうか。彼は携帯電話のアプリ、YouTubeミュージックでここ最近のお気に入りをシャッフル再生してヘッドホンで聞いた。彼はアルバム単位で音楽を鑑賞する真摯な姿勢に辟易し、安直なシャッフル派へといつの間にか改宗していた。エド・シーラン、アン―マリー、テイラー・スイフト、ボン・ジョヴィ、クイーン。《ドント・ストップ・ミー・ナウ》。彼は歌詞を表示して一緒に歌った。


  I am a sex machine, ready to reload

Like an atom bomb about to

Oh,oh,oh,oh,oh explode


 彼はサユリが彼の肩に手を掛け話し掛けてきたのに気づき、ヘッドホンを外した。

「ねえ、大変よ。こっち来て」

「え、ああ」

「歌なんか歌ってる場合じゃないよ」

「例のあれか。無罪放免が一転、クリストファー・ホーマーがやっぱりクビになったのか?」

「その程度であなたの歌を邪魔すると思う?」

「うーん……思う、ね」

「とにかく、こっち来てよ」

「ハイハイ、分かりましたよ、ッたく」

 サユリに連れられえて機内のラウンジスペースに行くと、壁に設置された大型テレビの前に同乗するチームスタッフ、スポンサー関係者、マネージャーらが集まり、ニュース番組を見ていた。眼鏡を掛けた有名ベテランアナウンサーが速報を伝える。


ええ、繰り返しお伝えします。先ほど入りました速報なんですが、現地時間午前十一時頃、ですから今から三、四十分程前になりますでしょうか、昨年のF1世界チャンピオン、ヤン・ヘンドリクス選手がサウジアラビアから自宅のあるモナコに帰国する為に搭乗しましたプライベートジェットが、ええ、目的地でありますフランスのニース・コートダジュール国際空港に着陸直後に爆発するという衝撃的な事故に巻き込まれた模様です。ええ、ただいまご覧頂いておりますのが、事故発生直後の現場の映像です。これはもう、非常に危険な状況であるのが見てとれます。これは、ヘンドリクス選手でしょうか……ストレッチャーで救急車に運びこまれえている様子ですね。先ほど一部映像に乱れがございました。お詫び申し上げます。

ハイッ、たった今、最新の情報が入りました。ええ、現在、ヘンドリクス選手は病院に搬送され、意識不明の重体という情報が入っています。繰り返しお伝えします。現在、ヘンドリクス選手は病院に搬送され意識不明の重体とのことです。どうやら一命はとりとめたことは確かな状況です。事故の原因はまだ不明ですが、航空関係の専門家による緊急の分析によりますと航空機のメンテナンス不良やテロの可能性も指摘されております。

ヘンドリクス選手は、昨年のF1世界選手権で見事に優勝し、キャリア通算二度目の世界チャンピオンに輝いたばかりでした。この事故により、ヘンドリクス選手のファンや関係者はもちろん、世界中のモータースポーツファンに早くも大きな衝撃が広がっておりますが、現時点では、不幸中の幸いと言っていいのかどうか、どうやら一命はとりとめたとの最新情報が入ってきております。

ええ、では引き続き、事故の詳細について、新しい情報が入り次第お伝えしてまいります。ハイッ、では、一旦次のニュース、行ってみましょう……


 イメージが去来する。爆風に襲われるヘンドリクス。取り巻きに助け起こされるヘンドリクス。見よう見まねの心臓マッサージを施されるヘンドリクス。ストレッチャーに乗せられ、救急車に運び込まれるヘンドリクス。走り去る救急車を茫然と見送る取り巻き……レーススタートのグリッド。ポール・ポジションの俺。フィニッシュラインを一位で通過し、窮屈な車内でコンパクトなガッツポーズ(fist pump)を繰り返す俺。表彰台のシャンパンファイトでシャンパンをラッパ飲みしてからのご満悦の俺。いや、いかんいかん。つい余計なイメージまで去来してしまった。天才の不慮の事故によって成功を掴む凡人のイメージだ。これじゃただのクズじゃないかッ! 凡人……俺はどうあがいても天才にはなれない。才能が違う! そんな凡人の俺がだ、ヘンドリクスの不慮の事故によって成功し、それを喜んだからといって、何が悪い? 俺の所為で奴が重体になった訳じゃない。俺はただ、棚から牡丹餅を見つけて喜んでいる食いしん坊の無邪気な子供に過ぎない。俺は喜んでいるが、俺は無罪だ! 無罪だ! 俺はただ単に正当な権利を純粋に行使しているに過ぎない。権力による誘惑に屈し、罪を犯した《キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン》のキングやアーネストのようなクズなんかじゃない。俺はただ単に正当な権利を純粋に行使して喜んでいる食いしん坊の無邪気な子供に過ぎない。俺は、俺は、無罪だ!


 ヒロノブはとにかく酒が飲みたくなった。重体と言うからには、きっと最低でも半年は復帰は不可能。ヘンドリクスの今季のチャンピオン獲得は絶望的だ。ライバルの破滅による輝ける将来の展望に祝杯を挙げたくなった。モクテルじゃないモヒートが飲みたくなったヒロノブはチームスタッフにモヒートを注文した。酔っぱらったらNSXを運転出来ない。そんなことをしたら、パクられて大変なことになってしまう。パクられる以前に普通に危ないし、世界共通倫理にきっと反する。倫理はきっちりと尊重したいヒロノブは予定を変更し、ロンドンのホテルを予約し、しばらく滞在することにした。せっかくロンドンに滞在するからには、《Restaurant Gordon Ramsay》でサユリと夕食を共にしたい。なかなか予約が取れない人気ミシュラン三ツ星レストランだったが、奇跡的にウェブサイトから簡単に今晩の予約が取れた。誰かキャンセルでもしたのかな。ライバルが破滅し、ホテルとレストランの予約も済ませてすっきりしたヒロノブは心置きなくモヒートを堪能しながらシャッフル再生した音楽を鑑賞した。

 サウジアラビアから午前九時に出発し、ロンドンのヒースロー空港に到着したのはイギリス時間で正午頃だった。しばらくターミナルのショッピングモールをうろついてから《ランガム》に移動し、チェックインを済ませ、ゆったり部屋で寛いでからレストランへ向かう。

 《Restaurant Gordon Ramsay》は比較的こぢんまりとした親密さを意識した内装で照明は大分明るかった。上流階級の家庭のホームパーティーに招かれたような感覚だ。席につくと注文する前にウエルカム・ワインが自動的に提供される。英国産スパークリングワインのGusbourneだった。地球温暖化で寒そうなイメージの英国もブドウ栽培に丁度よくなってきたらしい。二人は最高額のコースメニュー、Carte Blancheをオーダーした。出てくるまで何を注文したのか分からないミステリーメニュー方式である。ファーストバイトの小さいカナッペの後がアミューズ・ブーシュ。スィートコーン、黒トリュフ、春玉ねぎのコンソメスープ。そしてファーストコースはコルチェスターオイスターとキャビア、バターミルク、ディル(ハーブ)。上部の小容器に英国産オイスターとキャビアが載せられ、下の平らな皿にディル入りバターミルクが敷かれている。ここは料理一品毎にその料理に合ったワインをペアリングし、少量をグラスで提供する方式だった。ファーストコースにはオーストラリア産Grosset Rieslingの白がペアリングされた。

 ヒロノブは野暮用を思い出した。温かい料理だと冷めるけど、これなら暫し余裕がある。ちょこっとメールしようと思ったヒロノブだったが、携帯電話を忘れて来たことが発覚する。仕方ないか、サユリに携帯を借りて、マネージャーに電話しよう。

「すまん。ちょっと野暮用を思い出したんだ。マネージャーに電話したいから携帯貸してくれよ」

「忘れてきたの?」

「ご名答」

 サユリはフォークを置いてから、ハンドバッグから携帯電話を取り、ヒロノブに渡した。

「ゴメン、ちょっと行ってくるよ」

 レストルームへ向かう通路の途中へやって来たヒロノブはそこでそそくさと野暮用を済ませてから思い付いた。さっき出て来たワイン何だったかな、ちょっとあれここで検索して、あたかも予め知っていたかの如くサユリの奴に詳細情報を教えて博識をアピールしとくか。彼はブラウザのアイコンをタッチし検索画面を開く。検索入力欄の下に直近の検索履歴が連なる――


  ジェッダ 国際空港

  キング・アブドゥルアズィーズ国際空港プライベートターミナル 経路

  キング・アブドゥルアズィーズ国際空港プライベートターミナル レイアウト

  ジェッダ レンタカー

 硝酸アンモニウム


 硝酸アンモニウム? ヒロノブはブラウザで検索する。ウィキペディアには以下のような説明があった。


  アンモニウムおよび硝酸塩のイオンから成り立っている白い結晶の個体である。主に高窒素肥料として農業で使用されている。その他の主な用途として、鉱業、採石、土木建設向けの爆発性混合物の成分としても使用され、北米で使用される爆発物の八割を占める、普及した産業用爆発物である……


「野暮用は済んだ?」

「えっ、あ、ああ」

 ヒロノブは振り向いて大柄なサユリを見上げる。

「ちょっと長かったから気になっちゃった」

「あ、すまんすまん、戻ろうか」

「うん」

ハイヒールを履いたサユリの身長なら背後から俺の頭部越しに、悠々と携帯画面を見下ろせるだろう。サユリは俺が見ていた画面から判断して、俺がサユリについて何らかの形で今回の爆発事件に関わっているのではないかという疑いを抱いているであろうことは容易に想像できよう。よく分かんないけど何らかの《悪の組織》? 的な物の関係者として事件に関わっているか、あるいはその実行犯ですらある可能性もある。事件の真相の手掛かりを得たと思しき俺はその《悪の組織》にとって厄介な不利益をもたらすかもしれないと組織が判断し、俺の抹殺指令が下されるかもしれない! ヒロノブはそんな想像を膨らませながらコルチェスターオイスターを食べたので、全く味わうどころではなかった。ほとんど何を食べているのかさえも分からなかった。

「おいしい?」

「ああ、もちろん」

「あんまり、おいしそうに見えないよ」

「まさか! 気のせいだよ」

「さっき、ちょっと気になったの。そう言えば検索履歴、消してなかったなって――うっかりしてた」

「い、一体全体、何の話だい?」

「ねえ、心配しなくても大丈夫だよ。余計な事を考えなければ大丈夫だから」

 F1ドライバーの恋人はニッコリ笑って、ワインを飲み干した。

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