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 十二月上旬、ジュネーヴ国際空港にプライベートジェットで到着したドミトリー・イワノフはチャーターしたヘリに乗り換え、ジュネーヴ郊外のデイヴィッド・シルバースタインの自宅へと向かった。それはデイヴィッドがオカダとシルバーストーンのファクトリーで会談した数日後のことだった。ヘリは広大な敷地内に設置されたヘリパッド(簡易的なヘリポート)へ着陸し、ドミトリーは既に本格的な冬の到来を感じさせる冷え込んだ機外へと降り立つ。ただ、ドミトリーの生活拠点はモスクワである。彼にとっては氷点下にさえなっていないこの程度の寒さは寒いうちに入らない。オリガルヒを出迎えたのは例によってデイヴィッド・シルバースタインの懐刀としてすっかりお馴染みのロバートだ。

「ようこそお出で頂きました。フライトはいかがでしたか?」

「最高だったよ」

「良かった。ボスがガレージで待っております。ご案内致しましょう」

 二人は徒歩で近くのガレージへと向かった。ガレージの車両用の扉は開いており、そこから二人は中へ入る。内部スペースではグラスを持ったデイヴィッド・シルバースタインが椅子に座って待っていた。彼の脇のテーブルにはブランデーのボトルとグラスとアイスバケットが用意してある。彼は酒の入ったグラスをドミトリーに渡しながら挨拶した。

「ようこそジュネーヴへ。まあ、一杯やろうぜ」

「よろこんで……あ、これは――」

 酒を受け取ってちょっと飲んだドミトリーは広大なスペースに駐車してある十数台におよぶデイヴィッド・シルバースタインご自慢のフェラーリ・コレクションの一台に注目した。「ラ・フェラーリですね」

「ご名答。どうだい、ちょっと近所を転がしてみるか?」

「いいんですか? ちょっとこれ飲んじゃいましたけど」

「いいよ、ドミトリー。ちょっとだったら大丈夫だろう」

 システム出力合計963㎰のハイブリット・ハイパーカーにドミトリーはデイヴィッドを助手席に乗せ、近所を軽く一周して戻って来た後は、ガレージにクルマを戻し、ブランデーを注ぎ足したグラスを持って、二人は揃って、自宅地下に設置されたマルチレーン及びペーパーターゲットの自動回収システムを備えたシューティングレンジへと向かい、ベレッタやグロックに加え、コルトにシグ、はたまたロシア人のドミトリーへの配慮からか骨董品のトカレフから最新鋭のイジェメックMP―443に至るロシア製半自動拳銃まで取り揃えたピストルコレクションから思い思いの銃を選び、心置きなく好きなだけ撃ちまくってさっぱりしたところで、段々に夕食時といった頃合いへとなった。

 ドライブと射撃を楽しみ、会話を弾ませ、食事時となった頃には、二人はすっかり打ち解け、親し気な友情といったものを育みつつあったのだが、暖炉とテーブルの四本の長いキャンドルに火が灯されたダイニングでスイスの特産品を使った前菜のマラコフ(グリュイエールチーズの揚げ団子)とクレソンのポタージュをたいらげ、メインの白身魚のムニエル、フィレ・ド・ペルシュに取り掛かろうとしていた矢先、話題が二か月前のハマスの攻撃に端を発するイスラエル情勢に及ぶと、ユダヤ系カナダ人とロシア人の両資産家の間に、ちょっとした緊張が走る予想外の展開が待ち受けていた。白身魚を爽やかでフルーティーなサンセールの白ワインで流し込んだシルバースタインはふとこう口走った。

「それにしても、イスラエルは大変なことになっちまったな」

「まだまだ長引きそうですね」

「イスラエル・ガザ戦争のお陰でウクライナ戦争の注目度がすっかり下がってるみたいだが」

「まあ、それはそうですね。最近はロシアも社会体制が安定してきましたよ。すっかり戦争に慣れて来た……そんな感じです。経済制裁の抜け道もしっかり確保し始めましたし、軍需産業も堅調です。一方、ゼレンスキー体制は汚職と厭戦ムードで脆弱化しつつあります」

「西側のプーチンへの敵対心もすっかり諦めに変質してしまい、領土奪還を放棄してNATOに加盟した上での停戦を促す風潮も強まっているとか」

「ええ、西側の支援も陰りが見えてきたようで」

「あのイスラエルの惨状を見せつけられてはもう国際世論もウクライナどころではなくなってくるしな」

「ひどいもんです」

「そもそも、あのネタニエフが油断していたから、こんな厄介なことになっちまったんだろ、結局。今回の軍事作戦に限ってはきっちりケリをつけてもらわんとな」

「まあ」

「あんなハマスみたいな卑劣なテロ組織は一気に叩き潰さないとな、完膚なきまでに、だろ?」

「あ、はい」

「あ、はいって、キミはどう思うんだね。ドミトリー。キミの意見を聞かせてくれよ」

「意見と言われても、意見というほどのものは……」ドミトリーは最初ためらったが、つい本心が出してしまう。「ただ、現在のガザの人道的危機を見る限り、最悪の絶望が放置されているのには歯がゆさを禁じ得ません」

「最悪の絶望……あんた、なにかい、あのろくでもないアラブ人共の味方かね、え?」

「いえ、決してそんな訳では」

「そんな言い方だと、そう聞こえかねないがね」

「これは失礼しました。お気を悪くされたのであれば謝ります。すみませんでした」

 素直に謝るドミトリーの健気さに殺気立ったデイヴィッドの心は幾分なだめられたことだろう。

「……いやいや、こちらこそ。つい、こっちの事情だけで余計なことを……ま、この話は終わりにして、デザートを味わおうじゃないか……相手の立場と都合を考えるイマジネーションが欠けていた所為でバカなことを言ってしまった、これは失敬ッ!」

 かような感じに事無きを得、丸く収まった後、二人は専属シェフのデザート、エンガディナー(くるみのケーキ)とバニラアイスクリームをこよなく味わいつつ、いよいよこの面談の本題へと話は進んで行く。

「おい、ロバート。例の物を」

「ハッ」

 デイヴィッド・シルバースタインの指令を受けたロバートは一旦、ダイニングを後にし、白手袋をはめた手でヘルメットを持って戻ってくる。

「さっきのお詫びと言っては何だが、これはエドゥアルド・ドミンゴがレースで使ったヘルメットだ。受け取ってくれ」

「ありがとうございます。本日の素晴らしいおもてなしとギフトのお礼と言っては何ですが、私もちょっとした物をお持ちしました」

 おもむろに立ち上がったドミトリーは、デイヴィッド・シルバースタインに歩み寄るとジャケットの内ポケットに手を入れる。ひょっとしたら武器でも取り出すのかと側近のロバートに一瞬の緊張が走ったが、ロシア人が取り出したのは武器ではなくUSBメモリーだった。彼はそれをカナダ人の前のテーブルの上に置き、自らの席に戻った。

「何だね、これは?」

「一種の鍵とでも申しましょうか」

「鍵?」

 ドミトリー・イワノフはスプーンでアイスクリームをすくいゆったり味わいながら説明を続けた。

「その中にはクラウドストレージへのリンクとアクセスする為のパスワードが入っています。そのクラウドストレージ内のデータを活用すればあなたのF1チームのパフォーマンスを飛躍的に向上させることが可能です」

「ほう。それが本当なら、素晴らしい話だ。そのデータについて詳しく聞かせて貰いたいね」

「もちろんです。そのデータは複数のアルゴリズムを核としてあるシステムを構成しています。具体的には、遺伝的アルゴリズムと強化学習アルゴリズムを融合したF1専用AIデザイン・ジェネレイターとでも言って置きましょうか。まずは遺伝的アルゴリズムが進化と自然淘汰を真似たプロセスでデータベース上の各パーツの全てのデザイン群から各種テスト結果を参考に最適なデザインを探し出し、それを土台として強化学習アルゴリズムが仮想空間内において仮想ドライバーによるシミュレートされたトラックのテスト走行によって得られたラップタイム、燃料消費、タイヤ消耗などの各種データからディープラーニングを無数に繰り返し、各種セッティングを最適化。そのフィードバックを基に更に最適なデザインを遺伝的アルゴリズムが生成し、それを更に強化学習アルゴリズムがディープラーニングで最適化する相互作用が絶え間なく無限に繰り返され、最速のF1マシンの車体のデザインを生成し続けるシステム。そのUSBメモリー内の鍵があれば、そのシステムを即座に運用し、マシン開発の効率とパフォーマンスは別次元へと進化を遂げるでしょう。控え目に言ってゲームチェンジャー、はっきり言ってしまえば……核爆弾みたいなもんです!」

 説明を聞き終えたデイヴィッド・シルバースタインは、しばらく静かに黙考を続けた後、根源的な問題に言及する。

「AIか……まだF1マシンのデザインレベルだったら、なんてことはないが、これが政治、軍事方面に応用され人間が支配されることになったら……世の中一体どんな感じになるんだろうな」

「もしAIが人類より優れているなら、AIは人類を支配する権利を有するでしょう。優れたものが劣った者を支配してきたのがこれまでの地球の支配者であった人類の歴史における客観的な原則です。支配者がAIになったからといって、その原則に反論するのは手遅れ、ではないでしょうか?」

「そのような意見にはいささか容易には賛同しかねるね、ドミトリー。かつてのどこかの独裁者が言いそうな言葉だ。だが、これはありがたく受け取っておくよ」

 デイヴィッド・シルバースタインはそう言い、USBメモリーをジャケットの内ポケットへ収めた。


 年が明けると、ペルシャ湾に浮かぶ島国、バーレーンで二月二十二日木曜日から三日間のプレシーズンテストが始まる。テストが実施されるバーレーン・インターナショナル・サーキットではテレビやインターネット中継もあり、その翌週三月二日土曜日に初戦バーレーンGPを控えているので、実戦的な準備や調整が遂行される。初戦のバーレーンGPと次戦サウジアラビアGPのみ年間スケジュールにおいて例外的な土曜日開催であるのはイスラム教の断食月、ラマダンの開始日と関連している。ラマダンの開始日が三月十日日曜日であることからサウジアラビアGPが三月九日土曜日に前倒しになり、それに合わせて前週開催のバーレーンも土曜日開催に前倒しになったのである。

 バーレーンは近未来的な建造物群が林立する素晴らしい街並みを誇り、その首都マナマのフォーシーズンズ・ホテル・バーレーンベイにオカタ・ヒロノブは滞在し、所定の日程をこなしていく。その五つ星ホテルは、二つのタワーを中央部で大きく連結する特徴的形状で、美しいビーチを目前に臨むバーレーンでも最高級のホテルだ。強豪チームへの移籍による待遇向上をヒロノブはこのポストモダン建築と玄関付近のなんらかの動物、きっと馬とかを思わせる抽象的彫刻、そしてとてつもなく天井が高い豪華で重厚なロビー付近の内装を眺めながらしみじみと実感していく。

 これほどの高級ホテルとなれば、中には当然高級レストランが数軒入っている訳だが、栄養管理及び体重管理の観点からドライバーは、サーキット内に各チームが運搬し組み立てる仮設の建物、ホスピタリティユニットでチーム専属シェフがドライバーの好みやトレイナー役であるパフォーマンスコーチ(パーソナルフィジオ)のアドバイスを基に作る食事を取る場合が多い。チェックイン翌朝、目を覚ましたヒロノブはコーヒーを飲み、フィジオと軽くジョギングしてからシャワーを浴び、移動。サーキットのホスピタリティーユニットで果物、蜂蜜、ナッツを加えたオーツ麦のお粥と、アーモンドバターを塗った雑穀入りのトースト、レモン汁を絞った水、緑茶の朝食で腹ごしらえを済ませ、いよいよテスト初日に臨むことになる。

 テスト走行の場合は各種データ採取用の器具が追加で装備され、それを含めた各種センサー、データロガー、GPSシステム等のテレメトリーデータ、オンボードカメラ映像等によりレースエンジニアやメカニックがマシンを分析していくが、最終的にはドライバーの感想次第でセットアップ(各マシン・コンポーネントのセットアップ・パラメーターによる調整)は変わってくる。このドライバーのフィードバック能力の差で、セットアップのクオリティーが左右され、最終的なラップタイムやレースペースに大きな影響が出る。単純にここでドライバーの知性が試される訳なので、ただ単に速く走ればいいってものでもない。マシン特性によって器用にドライビングスタイルを変える能力も必要ではあるが、若干そこまで器用ではない場合、自分好みのマシン特性に上手く絶妙に誘導するフィードバック能力の重要度が増す。器用でフィードバック能力も高い、プラス単純に速いと当然無敵なのでトップチームのナンバーワンドライバーを任される訳だが、オカダ・ヒロノブの場合は単純な速さ、器用さはあっても、フィードバック能力の点で若干難があるのが玉にきずと言われても仕方ない面がややあった。とは言ってももう四年目である程度経験もあるので、それに物を言わせて順調にテストを終え、翌週のバーレーンGPへとスケジュールは進んで行った。

 予選当日の金曜日、トラブルが発生した。予選前の練習走行、FP3の最中、ヒロノブのマシンの油圧系にオイル漏れが確認される。これをもし修理するとすれば時間的に予選に参加出来なくなるので、(通常であれば)最後尾スタートになってしまう。よってこの時点での最適解としては、各走行毎にパネルをちょっと外してオイルを注ぎ足す方式を採用し、実行した。それ意外の車両の状態は素晴らしかったので、余裕でQ3まで進み、オイル問題によるタイムロスの影響でQ3も一回しかアタック出来なかったものの結果的に以下のような予選リザルトのデリバーに成功した。


 1  ヤン・ヘンドリクス(レッドドラゴン)

 2  ヒロノブ・オカダ(DB)

 3  レオ・ノーラン(マクレーン)

 4  フランク・シルバースタイン(DB)

 5  ロドリゴ・マルケス(レッドドラゴン)

 6  クリス・スミス(シュツットガルト)

 7  シモン・ルクラン(ロッソコルサ) 

 8  アルベルト・サンチェス(ロッソコルサ)

 9  オリバー・ピアース(マクレーン)

 10 ジョン・エリオット(シュツットガルト)

 11 レオン・ヒューズ(ファエンツァ)

 12 ロベール・ガリエナ(モンターニュ)

 13 エリック・オゾン(モンターニュ)

 14 ドナルド・リチャーズ(ファエンツァ)

 15 カイル・クリステンセン(バース)

 16 アダム・アルトン(ウィルソンズ)

 17 ハンス・ローゼンベルク(バース)

 18 ミッキー・スターク(ウィルソンズ)

 19 ビクトル・ベルガー(アルファ・ミラノ)

 20 ワン・イーチェン(アルファ・ミラノ)


 ヒロノブは素晴らしいスタートを決めた。ただ、先行するヘンドリクスも同様だったので第一ターンでオーバーテイクは決められなかった。バーレーンはリア・リミテッドのサーキットだ。つまり、リアタイヤの損傷が大きい。全車ソフトタイヤのスタートで2ストップの戦略を選択する。こういったタイヤ摩耗の厳しいサーキットで2ストップの場合は特にタイヤの消耗ペースの予測を誤りピットタイミングが遅れると先にピットインしてフレッシュタイヤでスピードが上がった後続車にアンダーカット(先にピットして先行車のピット中に抜く)されるリスクが大きい。指示はエンジニアが出すとは言え、必ずしもエンジニアが正しいとは限らない。一流のドライバーは、自己判断で戦略修正を提案したり、的確なフィードバックでエンジニアの適切な判断を促すスキルも併せ持つ。ただ、言われた通りやってればいい訳ではない。ヘンドリクスのマシンとは戦闘力的には互角と言ってよかったが、戦略、スキル共に、ヒロノブは彼に一歩及ばない。レースペースはヘンドリクスが上回り、徐々にギャップを広げられる。三位以下は大きく引き離したものの、昨シーズン二十三戦中十九勝を挙げた史上稀にみる天才との名声を欲しいままにするヘンドリクスには太刀打ち出来ないままチェッカーフラッグが振られ、DBレーシングのドライバーとしての初戦は二位でフィニッシュする。

 勝利は逃したとは言え、初の表彰台、初ポディウムだ。嬉しくない訳がなかった。ヒロノブはこの頃は既にセラピストだったサユリと交際中で私生活では同棲もしていたので、レースウィーク中も同行し、部屋は別だが同じホテルに宿泊していた。すぐにでもお祝いをしたかったが、ナイトレースで終了時間も遅く、連戦でスケジュールも立て混んでいたので、翌日の日曜日に次戦開催国サウジアラビアに移動し宿泊先のモーヴェンピック・リゾート・アルナウラス・ジェッダに到着した後ホテルから数百メートルの日本食レストラン『ノブ・ジェッダ』で夕食を共にすることにした。

 サウジアラビアの臨海大都市、ジェッダの美しい海岸沿いにアルナウラス・リゾート・センターと呼ばれる一帯があり、そのホテルとレストランもその一帯に属する。ホテルは細長く海上に張り出した岬の先端に位置する低階層のヴィラ・スタイルで海上に浮かんでいるような景観を堪能出来る。『ノブ・ジェッダ』も同様にビーチサイドに位置し、日本食レストランとは言え、内装は和風な感じではなく、疑似南国カリブ海風で、料理の見た目も欧米風に美しくアレンジされている。『ノブ』は元々、オーナーシェフの松久信幸がロバート・デニーロとの共同出資でニューヨークに一号店を出店して大成功し、その後、新たな共同出資者らと共に世界各国に支店を展開するグループへと成長した。ちなみに松久信幸はデニーロ主演映画『カジノ』で日本人大富豪イチカワ役で出演して以来、俳優としても活躍している。

 席に案内された二人はまずドリンクをオーダーした。レースウィーク中で当然酒を控えているヒロノブにサユリも合わせて二人ともノンアルコールカクテルを注文するヒロノブはタイ・ライチ、サユリはココナッツ&アップルにした。食事は二人とも同じテイスティングメニューと呼ばれる七品コースにした。一品目のアミューズブーシュ(小さい前菜)はノリ・タコ・キャビア。メキシコ料理におけるアボカド、玉ねぎ、唐辛子で作ったソース、グアカモーレにキャビアをトッピングした物をトルティーヤの代わりに海苔でゆるく巻いた料理だ。二品目は中トロの刺身、最初から柚子醤油とハラペーニョ(唐辛子)で味付けしてあるのでカルパッチョに近い感じで、コリアンダーが添えてある。三品目が寿司の盛り合わせ、カニ、エビ、サーモン、中トロ、付け合わせは普通にガリだった。ただこれも最初から柚子醤油でネタに味が付いている。前菜の後の四品目がシイタケのサラダ。五品目がメインコースの魚料理で『ノブ』のシグナチャーディッシュ、黒酢味噌の黒鱒。六品目はメインの肉料理、和牛テンダーロイン(フィレミニョン)のステーキ。七品目がデザート二種類。アイスクリーム入りの餅とチョコが一皿と、ピンキー・パブロバが一皿。パブロバとはオーストラリア由来のメレンゲを焼いて作る菓子で、焼いたストロベリーメレンゲの殻の中にチョコクリームと柚子のシャーベットが入っている。コースの構成としてベースは和食だが、一般的なフランス料理を踏襲しつつ中南米テイストを織り込んだような印象だ。『ノブ・ジェッダ』でのサティスファイイングなディナーを終えた二人は店を出てタクシーでホテルへ戻ると、それぞれが宿泊する別々の部屋へと入る。ヒロノブはレースウィーク中はドライブ以外にもインタビュー、イベント、ファンとの交流、ミーティング、スポンサーとの活動、ネットフリックスの撮影、ホテルのジムとスパでのトレーニングとリカバリー等スケジュールが目白押しだ。余計な事をやってる暇はない。ただ、今回に限ってはそれは、サユリにとっても同じだった。彼女も今週末は密かにちょっとした仕事を控えており、それには入念な計画と準備が必要だった。

 出だしは順調だった。トラブルを抱えた先週とは異なり、ヒロノブはフリープラクティスでトップタイムを出し、クオリファイイングに突入、初ポールポジションへの期待が高まる中順調にQ3へ進出したまでは最高だった。

――Fuck! What the fuck was he doin'? Smith interrupted me! What a fuckin' idiot!

 シュツットガルトの元世界チャンピオン、クリス・スミスによる走行妨害によりタイムを大きく落としたヒロノブは予選を九位で終える。テレビ中継では予選後、マシンから降りたヒロノブの憤慨し、全く納得できない様子が映し出されたことは言うまでもない。それに引き換えライバルのヤン・ヘンドリクスは堂々のポールポジションへと楽々と駒を進めたのであった。だが、本戦の七ラップ目で風向きが変わる。

 サウジアラビアはストリートサーキットながらタイヤ消耗が少ない高速サーキットで全車、1ストップの一択だった。DBレーシングのスコット・シルバースタインのクラッシュ(左前輪を内壁に接触させたダメージで制御不能になり、外側のバリアに突っ込む)によるイエローフラッグをきっかけとした無線からのエンジニアの指示でミディアムからハードに交換しようとピットインしたヘンドリクスだったが、交換後何らかの原因でフロントジャッキが外れなくなってしまい十秒ほど余計に時間がかかってしまった。ピット中ヘンドリクスは苛立ちを無線でレトリカルに表現した。

 ――Beautiful. Fuckin' beautiful.

これにより大きく順位を大きく落とし、着々とポジションアップしていたヒロノブの後塵を拝してしまう。その後、一躍トップに躍り出て快走を続けたヒロノブだったが、怒涛の猛追で二位に浮上したヘンドリクスは最終ラップ、遂にヒロノブを射程に捉えホィール・トゥ・ホィールの攻防からの熾烈なオーバーテイク合戦が繰り広げられる。二人のドライビングスタイルは対照的だ。ヒロノブはジェームス・ハントやアイルトン・セナのような情熱的なレーサーで、ヘンドリクスはここ最近ではニキ・ラウダやアラン・プロストを彷彿させる緻密で冷静なタイプに属すると言える。攻撃的でレイトブレーキングが特徴的なヒロノブに対して、冷静さと高い一貫性が特徴的なことからタイヤマネジメントにおいて一枚上手だったヘンドリクスが、ヒロノブの猛ブロックを潜り抜け、フィニッシュ直前0・053秒差で抜き去り、劇的な二勝目を上げ、ヒロノブはまたしても二位止まりの結果に終わってしまう。ゴール直後、担当エンジニアはヘンドリクスに無線で手放しの称賛を送った。

――Yes! Unbelievable!

――Yeah, copy guys.This is for you, guys! This is for you.

2011年以降、現代F1はタイヤ供給においてピレリ独占時代に突入して以来、エンターテインメント性の向上を目的としてピレリは意図的に消耗率を高く設定したが、意図の成功に対する評価は多岐に別れ、結果的に情熱や攻撃性よりも緻密さと冷静さが結果に直結する傾向に陥ってしまった感は否めない。

F1は特殊な競技だ。それは他のモータースポーツと比較しても同様だ。F1は他に類を見ないほどチーム間におけるマシンの性能差が大きい上、本来は性能差を抑制する目的で2021年に導入された予算制限ルール(コストキャップ)の影響で、当初の開発に失敗したトップチームが予算制限の所為で後からアップデートでの挽回が困難になり、シーズン毎にチーム間の順位が大きく入れ替わることも珍しくないという新現象も発生した。ただ大方は性能差抑制の効果を発揮しつつあるコストキャップだが、それでもドライバー本人のパフォーマンス以外の外的変動要因は依然多大であり、そのことが勝利の概念を相対化させる。例えば今シーズンのヒロノブにおいても、初戦は二位で大喜びだったのが、この二戦目においては同じ二位でも、全く嬉しくない訳ではないにしても悔しさのほうがはるかに大きかった。マシンの性能面ではヘンドリクスとほぼ互角、あるいはヒロノブの方が有利だったかもしれない。バーレーンとは対照的にタイヤ消耗が少ない高速サーキットのサウジアラビアでは戦略よりも空力を中心としたマシン性能差が結果に大きく反映されやすいにも関わらず、ドライバーの力量の違いで負けた。僅差の二位とは言え、実質的には完敗に近い。戦闘力がグリッド上で最低だった昨シーズンと比べればその相対性はより強調されるだろう。昨シーズンの低迷期においては九位でさえ完勝と言って差し支えなかったのだ。

ほろ苦い表彰式を終え、インタビューを済ませたヒロノブはデブリーフィングの為、ホスピタリティーユニットへ向かう。ホスピタリティーユニット内の会議室の前にある休憩所でデイヴィッド・シルバースタインとサユリが彼を待ち構えていた。ヒロノブはまずデイヴィッドに惜敗を詫びた。

「マシンも速かったし、今日は勝てるレースでしたが、私の力不足で……申し訳ありません、会長」

「いいよ、いいよ。二戦連続二位も立派なリザルトだ。ただ、そろそろ優勝も見たいのが正直なところだがな。次は期待してるぞ」

「頑張ります」

 ヒロノブはサユリに顔を向ける。

「やあ」

「素晴らしいレースだった。おめでとう」

「ありがとう」

「次はきっと勝てる。そんな予感がする」

「だといいが。じゃ、ちょっと行ってくるよ」

「うん」

 サユリが口にしたその「予感」は満更、何の根拠も無い訳ではなかった――その夜、彼女の計画は遂に実行の時を迎える。


 サトウ・サユリは彼女の本名ではなく、彼女は日本人ですらなかた。とある独裁体制社会主義国に生まれた彼女は、大学在学中、諜報機関から勧誘され、極秘施設でスパイとしての訓練を受ける。近接格闘術、銃器の使用、暗殺、比較文化、語学、尾行、変装、開錠と建造物侵入、盗み、爆発物の製造と使用。彼女は元々大学で日本語を専攻していたが、施設では徹底的な日本人化訓練を受ける。訓練を終えた彼女は先端テクノロジー奪取を目的とした任務を与えられ日本へ派遣される。彼女は偽装パスポートを使い北京経由で、日本へ入国、ハニートラップと偽装結婚による任務を遂行したが、その任務は最終的に十分な成果を得られなかった。祖国から責任を追及され、身の危険を感じた彼女は祖国を裏切り日本から米国へ脱出。以来、そこを拠点として仲介組織と契約しプロのコントラクト・キラーへと転身したのだった。

 サウジGP翌日未明、深夜一時。モーヴェンピック・リゾート・アルナウラス・ジェッダの一室のドアが静かに開く。同様にドアを静かに閉じた彼女はエレベーターへと向かう。薄手のドレス、パンプス、パース。ちょっと軽く、知り合いと飲みに行くような出で立ちだ。エレベーターを降り、ロビーを通り過ぎ、ホテルの玄関を出ると、彼女は待たせてあったタクシーに乗り、所定の場所が書かれたメモをドライバーに渡す。タクシーが目的地に到着し、彼女は降車するとほど近くに路上駐車してあったミニバンへと歩みより、運転席のドアに手を掛ける。彼女のパースにはクルマの鍵が入っているのでドアロックは自動開錠される。彼女はエンジンのスタートボタンを押し、クルマは静かに走り出す。

 キング・アブドゥルアズィーズ国際空港プライベートターミナル1専用駐車場。ミニバンが姿を現し、他のクルマの少ない奥側で停車する。彼女は一度運転席から降り、後部座席へ移動しスライドドアを閉める。ドアがスライドオープンし、再び彼女が姿を現すと、タクティカルジャケット、カーゴパンツ、ミリタリーブーツに着替えている。色は全て黒だ。彼女はリアハッチへ移動し、ハッチを押し上げる。荷台にはかなり大型の装置一式が置かれている。グラビティ・インダストリーズ社製グラビティ・ジェットスーツ。背中に背負うバックスラスターにジェットエンジン一基、両手用のハンドスラスターにジェットエンジンが各二基。エンジンは取っ手のトリガーで起動、コントロールする。付属のヘルメット。ヘルメットのバイザーにはヘッドアップディスプレイを装備し高度、速度、残燃料が表示される。彼女はヘルメットを被り、バックスラスターを背負い、両手をハンドスラスター内部に入れ、取っ手を掴む。彼女はトリガーを引き、全五基のジェットエンジンを起動、大空へ舞い上がった。

 彼女はエンジン出力を最大にし、最高速度時速137キロでターミナル・ビルディングを飛び越え、降下し、空港敷地内の所定のプライベートハンガー付近に着地する。彼女はジェットスーツを脱ぎ去り、プライベートハンガーの通用口に向かい、カーゴパンツのポケットから取り出したピッキングツールを使用してドアを開錠し、内部へ侵入する。彼女はプライベートハンガーに格納されているプライベートジェット、ダッソー・ファルコン900EXを目にする。エアステアを登り、入口から機内に入ると正面にギャレー(食品保存及び配膳設備)とその左にトイレ、操縦席がある。彼女は右に方向転換し客席へと向かう。ギャレー右側のクローゼットを通り過ぎると第一セクションに入る。テーブルを挟んだ向かい合わせの一対の客席のセット(ダブルクラブ)が通路を挟んで二対。続いて第二セクションは通路右に二列のダブルクラブ、通路左に横長のソファ。最も奥の第三セクションには、通路左にテーブルと単体の客席、通路右にフルサイズのベッド。奥にはトイレと浴室がある。この第三セクションがプライベートジェット所有者の個人的スペースだ。

 彼女はタクティカルジャケットの胸部ポケットからペンケースほどの大きさの装置を取り出し、コントロールパネルを操作してから背面の両面テープの覆いを剥いで、ベッド下部の裏面に接着する。必要な作業を終えると速やかに機外へ退出し、プライベートハンガー通用口からジェットスーツの場所に戻り再装着、ハンドスラスターのトリガーを引く。

殺し屋は「ちょっとした仕事」を済ませ、闇夜へ姿を消した。

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