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 サンフランシスコはシーフードの街だ。マーティンはチョピーノの濃厚なスープを味わいながら、彼の暗黒時代に思いを馳せた。彼はかつてそこで権利を剥奪され、世界から隔絶されていた。彼は少年時代に犯した暴力事件の罪で少年院に入っていた。彼はそこで看守の横暴、嫌がらせ、執拗な暴力的虐待に苦しめられ、まずいメシを食わされた。そこでのスープは粗末な古い材料が、いい加減に調理され、味は限りなく薄かった。しかし今や彼はかつて隔絶されていた世界に溶け込み、美味いメシを食える権利を取り戻した訳だが、その自由は彼が生活を営む社会体制によって確固として保障された自由ではない。それは不確かな自由だった。彼は法執行機関によってその身を追われる逃亡犯だった。

 マーティンが食事をしていたのはサンフランシスコの人気シーフードレストラン〈Anchor Oyster Bar〉のテーブル席だ。彼は一人ではなかった。彼と向かいあった席では彼のガールフレンドが一緒に食事をしていた。彼女の名はメアリー、年齢は三十歳。マーティーは彼女より大分年上で、四十六歳だった。テーブルの上にはチョピーノを始めとした各種料理が並んでいる。チョピーノはトマトソースをベースに雑多な魚介類を煮込んだイタリア系移民由来のサンフランシスコ発祥のスープ料理でディップ用にスライスしたバゲットのガーリックトーストがセットで付いてくる。チョピーノの他にはシーザーサラダと砕いた氷の上に盛られた生ガキ。生ガキにはホースラディッシュ入りカクテルソースとアップルサイダービネガーの小鉢が皿の中央に置かれていた。最初に出て来たボストンクラムチャウダーは既に食べ終え、辛口白ワイン、ピノグリージョをボトルで注文し一緒に飲んでいた。

「説明してくれる? 今度の仕事の話」メアリーは生ガキをピノグリージョで流し込み、こう尋ねた。

「きっかけは例によってSNSさ。運良くいいクライアントを見つけたんだ」

 SNSは毒だ。マーティンはあらゆる人物のあらゆるSNSを探訪、散策し彼の新たな犯罪の芽を摘み取ろうとしていた。無邪気なSNS利用者は彼のような血に飢えた毒蛇に無防備な喉元を曝け出し、今にもその毒牙で地獄の苦しみに転げ落ちようとしながらも、無邪気に犯罪の種になる個人情報を垂れ流し続ける。だが、もしその毒蛇同士が出会ったとしたら……彼はSNS上でとある人物に遭遇し、接触、交流を重ねる内に相手がとあるロシア企業関係者であることが明らかになった。カネの匂いを嗅ぎ取った逃亡犯はロシア企業関係者をより安全で秘匿性の高いメールサービスへと誘導する。そこでのやりとりでそのロシア企業関係者の所属する組織はここ最近から某F1チーム関係者と友好関係を築きつつあり、そのF1チームにとって価値のある情報を渇望していることが発覚する。その組織が望むような情報であれば、手段の合法性を問わず多額の報酬を支払ってでも取引に応じるであろう。そのロシア企業関係者は正しく望み通りの人物と交流していた。マーティンはハッカー集団のリーダー兼プランナーとしてその非合法活動によって生計を立てていたのだ。

 少年院を出所したマーティンはその後大学でコンピュータサイエンスを専攻した後、米軍に志願制度で入隊し、イラク戦争に従軍する。彼はそこで情報工学の知識を評価され技術担当兵に配属された。終戦後帰国したマーティンは、CIAから接触を受けハッキング部門であるCCI(Center for Cyber Intelligence)内のユニット、OSB(Operations Support Branch)に配属され、サイバーウエポンの研究開発及び物理的介入作戦のサポートを担当した。勤務では高評価を獲得したマーティンだったが問題は私生活だった。彼はカジノのブラックジャックにハマり、多額の借金を被る。そのような弱みを敵対勢力の情報機関に嗅ぎつけられてしまったマーティンは、カネ目当てで彼らに機密情報を売却するようになる。絶対バレない自信があったマーティンだったが数回の取引の後、防諜機関の捜査網が狭まりつつあった気配を敏感にも感じ取る。彼は瞬時の判断で全てを投げ捨て、偽造IDを調達、逃亡犯として無頼なハッカー稼業へと身を落とすこととなった。

「ターゲットの選定は済んだの?」クライアントの説明を聞き終えたメアリーが話を進める。彼女は集団内でネットワークスペシャリスト兼スキャナーを担当するマーティンのビジネスパートナーでもあった。集団の人数は四名。それぞれが全般的なスキルを擁するメンバーが選抜されてはいたが、メアリーの場合、リーダーであるマーティンと最も親しい間柄であることから最大の拘束時間を確保可能であるという理由もあり、計画初期段階から情報を共有し、プロジェクトの準備段階で二つの大きな役割を果たしていた。第一にターゲットとなるデータやシステムにアクセスする為の技術やサービスの選択と提供。例えば、偽装や隠蔽に必要なプロキシ(中継サーバー)とVPN(暗号化ソフト)、トロイの木馬やバックドアなどの侵入技術を準備する。第二は各種ツールによるプロトコル、OS、ポート、サービスの検出及びネットワークの構成と脆弱性の探索である。

 マーティンはチョピーノにバゲットをディップし、しっとりとした食感とガーリックとトマトソースが織りなすフレーバーを存分に楽しみながら、彼が選定したターゲットについて説明を始めた。

「いい獲物を見つけたよ。正にクライアントに打って付けさ。ライバルのトップチームが開発した次世代テクノロジーだ」

 彼がターゲットの選定作業を始めたのは、このデートに先立つ二か月前のことだった。彼はIT大手各社が提供する各種クラウドサービスプロバイダーからロシア人に最も相応しいと思われる情報を探索する。まずはクラウドプロバイダーの公式サイトやブログ、プレスリリース、ケーススタディなどを調べ、どのような業界や企業、組織がそのクラウドサービスを利用しているか、どのようなデータやアプリケーションをホストしているかなどの情報を得る。加えてクラウドプロバイダーのクラウドベースのソフトウェアやプラットフォームを利用しているユーザーや開発者のレビューやコメント、フォーラムやSNSなどを調べ、どのようなデータや機能が利用されているか、どのようなメリットやデメリットがあるかなどの情報を得る。そのような地道な作業を経て、彼は遂に強豪F1チームが開発した最新鋭且つ革新的アルゴリズムの正確な所在の確定に成功した。

 シーフードと白ワインを楽しみながら久々のビジネスミーティングを終えたカップルはレストランを出るとマーティンのクルマに向かって歩いた。助手席にガールフレンドを乗せてから、マーティンは赤いサイオンFR―Sの運転席に座る。マニュアルシフトを操るマーティンは今回のプロジェクトに関してはかなり楽観的な見通しを立てていた。ただそれは逃亡者として若干、一般的な社会からの隔絶した視点からの見通しであったのは否めない。彼はカネになれば何でもいいというアウトロータイプの思考パターンを踏襲していたがそういった思考パターンにはいわゆる政治的環境に対する配慮が欠落しており、その欠落が後々、思わぬ軋轢を引き起こしかねないとまでは予測出来なかったのである。

 二人は郊外に一軒家を所有しており、そこに到着し、ガレージに赤いクーペを駐車すると、各々が思うがままのプライベートを過ごしてから就寝すると、翌日から数日に渡り、メアリーは自身の担当分野における仕事を開始する。彼女はまずターゲットに対して偵察を行った。ZgrabやNmapなどのツールを使って開いているポート、サービス、脆弱性をスキャンした結果、ターゲットがコンテナでアルゴリズムを実行するためにDockerというアプリ実行環境ベースのプラットフォームを使用しており、コンテナを管理する常駐コンポーネントであるDockerデーモンにおいて10~15%の確率で存在するとされる誤設定は確認出来なかった。もし誤設定が確認できればそれを利用して認証なしのアクセスも可能だったが、誤設定が無い場合はかなりのリソースを投じたセキュリティ対策が施されていることを証明するので、こちら側もそれ相当の対応が必要になる。メアリーから以上の事実に関するブリーフィングを受けたマーティンは、事前準備は十分であると判断し、即日、残りのメンバー二人に連絡し、翌日の招集指示を出す。

 マーティンが集合場所として指定したのは早朝から営業しているサンフランシスコの人気カフェ、〈Avotoasty〉だった。集合時間の朝八時前に近くの通りにFR―Sを駐車したマーティンはデーブの黒い高級ピックアップ、リンカーン・マークLT(二代目)が既に駐車してあるのを確認した。ハッカーになる前は大手企業の会社員だったデーブは妻と幼い娘も養っており、社会人として時間厳守を心掛ける生真面目な人物だった。店内に入った二人はテラス席でラップトップをいじる質実剛健なメガネを掛けた白髪まじりの頭髪が後退しつつある中年太りの冴えない白人男性を見つけ彼の方へ向かう。二人はデーブと挨拶を交わし、席に座った。

 その時、四十一歳のデーブは約一年前まで、SNS事業を中心に営業する大手IT企業に勤めていた。デーブの退職のきっかけとなったのがその企業が巻き込まれたデータ流出事件だった。その事件によって数百万人の顧客の個人情報及び経済的情報が外部にさらされる。デーブは信頼・安全部門においてデータアナリストとして勤務しており、その流出事件の第一発見者兼従順な社畜として上司に恐るべき被害を通報した。だがたまたま邪悪で陰険だった上司はその通報を無視し、私利私欲と保身の為に隠蔽工作を実行する。上司はデーブのコンピュータと携帯電話にデーブが内部情報を盗みライバル企業に売却する陋劣な産業スパイであることをほのめかすデータを埋め込み、更にはデーブの同僚を買収し、デーブの不利になる証言をさせ、彼の評判の失墜を試みるに及んだ。結果的にデーブは守秘義務契約書への署名を条件に訴追は免れたが、懲戒解雇され、再就職も困難な苦境に追い込まれ絶望していた矢先、マーティンが彼にコンタクトを取り、このチームの一員として招き入れられた次第だ。マーティンは日々の情報収集の際、カネになるクライアントと同時にこういった脛に傷のある優秀なハッカー候補も探索していたのだ。メアリーにしても、彼女が大学時代に起こしたハッキング事件に注目したマーティンが彼女をスカウトし、もう一人のチーム最年少カルロスにしても同様に彼のハイスクール時代のハッキング事件の報道を受けてマーティンが接触を掛けた次第である。先に到着しテーブルで待っていた三人の耳に、ようやく到着したカルロスが乗るバイクの無駄に派手なエンジン音が突き刺さるように届いた。

 イタリア製ミドルサイズ・スポーツバイク、アプリリアRS660から降りた引き締まった体躯にバイカーズジャケットを羽織ったカルロスはメキシコ系の二十歳の若者だった。すっきりとした丸刈りに上半身には至る所にタトゥーというゴロツキルック。カルロスはハッカーとしてはずば抜けたスキルを持っていたが、ややというか多々、素行に問題があるのが玉に瑕だった。アルコール、ドラッグ、飲み屋の喧嘩。そのような問題行動には元不良のマーティンは比較的寛容で、メアリーも同様だったが、ただ一人生真面目なデーブはあからさまに軽蔑の眼差しを向け、決して打ち解ける態度を示しはしなかった。とはいえお互いプロとして仕事となれば、必要なコミュニケーションは取るし、カルロスの高度なスキルに関しては正当に評価する一面も垣間見せた。

 あたかも自分には遅刻する生まれながらの権利が当然あるとでもいうかのような態度でカルロスがテラス席に腰下ろすと、マーティンはウエイトレスを呼び、注文を開始した。マーティンとメアリーはEggy Toasty(サワドウブレッドのアボカドトーストにポーチドエッグ二個、パプリカ、マイクログリーンのトッピング)、デーブはSalmon Toasty(アボカドトーストにスモークサーモン、胡瓜、レッドオニオン、ケイパーのトッピング、横にレモンのスライス)、カルロスはProsciutto Toasty(アボカドトーストに生ハム、胡瓜、マイクログリーンのトッピング)、全員分のLatte(カフェラテ)。

 やがて、ウエイトレスが出来上がった豪勢なブレックファーストを運んで来てテーブルに並べる。ハッカー集団の面々は栄養たっぷりな具材をたっぷり載せたトーストを口に運び、カフェラテで流し込みつつマーティンのブリーフィングに耳を傾けた。

「大手のクラウドサービスを相手にするって訳か、こいつはちょっとどころではない大事だな」

 カルロスの感想にマーティンは返答した。

「かつて神童と呼ばれた天才ハッカーのお前の腕の見せ所だろ、違うか?」

「うるせーよ。ま、俺の手にかかれば、何とかならない訳でも無きにしも非ずってとこか、違うか?」

「無論、違わないことを願うね」

「話の腰を折って悪いが」デーブが話に入って来る。「クライアントは確かロシア人だと言っていたな」

「正確な国籍は不明だが、これまでの情報からはロシア企業関係者である以上ロシア人である可能性が最も高いはずだ」マーティンはは肯定的に回答した。デーブはわざとらしくゆっくりとカフェラテを飲み、コップを置いてからこう言い放った。

「気に入らないね」

「ロシアのどこが気に入らないっていうんだ?」

「全部、だな」

「全部ってこたあねえだろ、え、ゴルバチョフはまあまあいい奴だったし、えーっと、ドストエフスキーは最高だろ」

「俺は《罪と罰》が好きだね」カルロスがマーティンを応援する。デーブは即席弁護団に対し論告を始めた。

「ウクライナ侵攻。米国に対する大統領選挙への介入、インフラへのサイバーアタック。中国との戦略的および経済的連携による米国中心勢力への敵対的ブロックの形成。中東における暴力的な組織や独裁的な政権への支援。ヒズボラ、ハマス、シリア、リビア、そしてもちろんイラン」

 カルロスが弁論する。

「ジーザス・クライスト! いつから俺たちは政治団体になったんだ? 俺たちはハッカーだろ。カネになるんだったら何でもいいじぇねえか、え」

「カマーン、デーブ」マーティンがなだめるように言った。「キミの気持ちも分からんでもないよ。つい一年前までは真っ当な会社員の善良な一般市民、おまけにきっと保守的な共和党支持者として真面目に生活していたんだ。ただ、俺たちは所詮、無頼のならず者。仕事を選べる身分じゃないんだ。そこんとこ分かってくれよ」

「残念だが」デーブは結論を下した。「キミらとは考え方が違うようだ」

 彼は百ドル紙幣をテーブルにそっと置くとこう言って立ち去った。

「では、失敬ッ」

 残されたハッカーたちは立ち去るデーブをただ茫然と見送るのみだった。


 問題は常に人間関係だった。前の会社と一緒だ。俺をハメた上司、ケヴィンにしてもだ、もっと愛想よく付き合って、なんかこう、お裾分けみたいな感じでフレッシュなフルーツやスコッチウイスキーかなんかでも差し入れするような間柄だったら、邪険に扱われなかったのかもしれない。今回もこんな感じに仲間割れみたいになってしまったのも俺の頑なな考え方の所為なのかもしれない。デーブはピックアップトラックのステアリングを握り、あてどもなく道なき道でもない一般道を走りながら考え続けた。頑なな考え方。そもそもそんな物で何か得したことがあっただろうか。無かった、ような気がする。ただ、そんな損得勘定だけで割り切って生きて行っていいのだろうか。あるいはそれの何が悪いのだろうか。そもそもそれが悪いという時の悪いとはどういうことなのか。デーブは暇だったのでそんな感じの根源的な問題について考えてみようと思い、最寄りのショッピングセンターの駐車場にピックアップトラックを駐車した。

 頑なかどうか。それとは別に何について頑なだったのかも問題だったのかもしれない。前の会社のデータ流出問題においては、既存のマニュアルに頑なに従ったのが問題だったのかもしれない。何か融通を利かせて、独自のやり方を模索すべきだったのかもしれない。今回は、政治的な考え方が頑なだった。この場合は、頑なかどうか、よりも政治的に考えることそれ自体の問題についても検討の矛先を向ける必要があるだろう。一般市民が行うほぼ唯一の政治的行為が選挙での投票だ。一票も積り重なれば山となるが、各個人に限って考えれば、それはどうあがいても二票には到達しない一票でしかない。そのような非力な民衆を誘導、煽動しているのがネット、テレビ、出版に代表されるメディアによって経由され伝達される情報だ。どのような情報を広め、どのような情報を隠蔽するかによって大衆の政治的意思決定に大きな影響を及ぼすだろう。そのような政治的活動に携わっているのは、資本家、エリート、有名人、政治家、高級官僚、インフルエンサーその他の特権階級の人々だ。すなわち、俺一人が政治的なことを考え、政治的な決定をし、唯一の政治的行動である選挙の投票を行ったところで、そのような特権階級の持つ巨大権力に抗うことは全く不可能に近い。確かにプーチン政権下のロシアみたいな実質的な全体主義国家に比べれば程度の差はひどく大きいだろうが、民主主義なんて結局どこも形だけだ。違うか? であれば、そもそも政治的に考えること自体に価値があるのだろうか? おいしい料理のレシピでも考えた方が人生が豊かになるとは言えないだろうか? 選挙に行くよりもバリバリに皮目を焼いた、鶏もも肉のチキンステーキを焼いて食べたほうが時間を有効活用していると言えないだろうか? それに家族にメシを食わせる為の収入を確保するにはアウトローとは言え、今の仕事を続ける以外方策は無い。まさか今からシェフを目指す訳にもいかないだろ。デーブは暇に任せてこのように考察を巡らせ、最終的な思想的転換に至った。


 デーブがヘーゲル的弁証法の実践の渦中にあった頃、マーティンは彼独自の個人的アンチテーゼに直面していた。マーティンの自宅にある仕事場に到着したハッカー集団はさっそく作業を開始していた。まずはメアリーが事前偵察した内容を事細かにマルウェア開発者兼インジェクターを担当するカルロスにブリーフィングし、具体的なハッキングの事前準備に取り掛かる段取りだ。前述のような作業の特性上、この数時間はメアリーとカルロスのコミュニケーション量が増加し、話が弾み、弾んだ勢いで二人の共通の趣味であるバイクの話へと話が脱線し――メアリーはドゥカティ・モンスターを所有していた――更に話は弾み、笑顔があふれ、二人は見つめ合う始末だ。その様子を嫉妬深い横目で抜かりなく子細に観察していたマーティンには最悪ケースシナリオとして、二人は付き合い始めるのではないかという不穏な疑念が芽生え、凄まじい勢いで成長し、その最悪ケースシナリオは最終稿へと向かって推敲の真っ只中を突き進んでいた。


「よし、そろそろ昼飯にすっか」

「今日の買い出しはあなたの番よね、マーティン」

「だったっけ?」

「あんたよ。とぼけんじゃないよ、えッ」

「……あ、はい。サーセン」

「なんなら俺が行こうか?」

「あなたは駄目よ。だって忙しいじゃない。ねえ、マーティン。あんたが行ってきて」

 昼飯は大概、近場の店からテイクアウトのサンドイッチ、中華料理、タイ料理なんかをメンバーが順番に買いに行く段取りになっていた。今日に限ってメアリーはマーティンに買い出しに行くように執拗に迫っていた。まさか、メアリーの奴、俺が居ないのをいいことにカルロスとの二人きりの時間でイチャイチャしようって魂胆じゃなかろうか。マーティンはそんな懸念に心を苛まれながらも渋々承知し、テイクアウト専門のサンドイッチ・ショップ〈The Deli Board〉へ買い出しに行くことにした。畜生、こんな時、デーブが居てくれたら、あの二人の監視役に任命し、二人がいいようにイチャつくのを防げたものを。朝食の時、あんなに簡単にあきらめずに強引にでも引き留めておくべきだったな。彼はそんな後悔の念を抱きながらも重い腰を上げ、玄関に向かった。

 玄関の扉を開け、前を向いた瞬間、彼が目撃したのは正しく僥倖、それ自体と言って良かった。彼が任命を渇望していた恰好の監視役候補、デーブが玄関先に佇んでいた。

「デーブ……よく戻って来てくれたな」マーティンは満面の笑みで歓迎した。

「さっきは気持ちが高ぶってしまった。もう大丈夫だ」

「カマーン。気にすんなよ、あんな些細なこと。中に入れよ、みんな待ってるぞ」

「シュア」

 玄関でマーティンが感動の再会を果たしていた頃、仕事場で二人きりになった若い男女はと言うと――正しく情欲の高まりの真っ最中だった。二人は抱き合い、お互いを激しく情熱的に愛撫しながら荒い息を吐いている。ほぼ同時に廊下の物音と話声から想定外の事態が起こりつつあることを瞬時に察知した二人は、お互いの肉体から離れ、情欲にまみれただらしない表情から、難しい顔に切り替え、コンピュータの前で困難な仕事に没頭している風を装う。

「よお、見てくれ。デーブが戻って来てくれたぞ」

「ただいま」

 おかえり、デーブ。カルロスとメアリーは口では再会した仲間に歓迎の言葉をかけたが、その二人の表情を確かに欲求不満の薄膜が翳のように覆い包んでいるのは隠し切れなかった。マーティンはマーティンでお前らの好きにはさせんぞと言わんばかりの好戦的な視線を二人に向けている。そんな微妙な空気の中で、デーブは彼の知らない何事かが進行していたに違いないことを薄々感じずにはいられなかった。

 かような些細な騒動とともに幕を開けた今回のプロジェクトはその後数週間に及ぶハードワークを伴うこととなる。主に直接的ハッキングを担当するカルロスが選んだ第一手はSQLインジェクション攻撃だった。SQLはデータベース操作言語を指し、具体的にはURLの末尾に特殊な文字列を付け加えて、データベースに不正なクエリ(問い合わせ)を送る。その結果、ターゲットのWebサイトが入力値の検証やエスケープ処理(文字列を変換して誤作動を防ぐ)を行っていないことを発見、その隙をついてデータベースから管理者のIDやパスワードなどの情報を抜き出す。得られた情報を使いターゲットのWebサーバーにSSH(暗号化プロトコル)でログイン、WebサーバーがTLS証明書(通信相手の正当性を確認する電子証明書)や鍵ファイルを保存しているディレクトリを発見、そのファイルを自分のPCにコピー。これでターゲットになりすまして通信出来るはずだ。彼は慎重を期し、Webサーバーにログインしたことがターゲットのセキュリティチームに検知される可能性を考慮し即座にサーバーからPCを切断、プロキシ(中継サーバー)とVPN(暗号化ソフト)に切り替えて自分の痕跡を消し、盗んだTLS証明書と鍵ファイルを暗号化して隠し場所に保存する。盗んだアイテムを使ってターゲットと認証局との通信を傍受しようとしたが、その通信は無残な失敗に終わる。大方ターゲットのセキュリティチームが盗まれた可能性のあるTLS証明書と鍵ファイルを無効化し、新しいものに交換したのだろう。彼は新しいTLS証明書と鍵ファイルを手に入れる方法を検討し、ターゲットと認証局との通信経路に対する中間者攻撃への戦術転換を決断する。彼のPCをターゲットと認証局の間に挟み込み、通信内容を改ざんすることで、新しいTLS証明書と鍵ファイルを奪い、ターゲットになりすましての通信に見事成功し、このプロジェクト最大の難関を突破したのだった。

引き続きカルロスはDockerSpy(データ取得ツール)を使いすべての実行中のコンテナとそのメタデータ(名前、ID、イメージ、ネットワークなど)をリストし、、Docker execコマンド(Docker APIの一機能)を使って各コンテナに悪意のあるスクリプト(簡易プログラム)、俗に言うマルウェアを注入。このスクリプトは、AWS、 Azure、GCP、Filezilla、Git、Grafana、Kubernetes、Linux、Ngrok、 PostgreSQL、Redis、S3QL、SMBなどのさまざまなソースからデータへのアクセスに必要な資格情報を収集するように設計されている。彼は更に各コンテナで実行されているアルゴリズムに関する全情報も収集し、プロジェクトの最終フェーズを担当するデータ分析者兼エクスフィルトレーターのデーブへと任務を引き渡した。

デーブはまずCurl(情報入出力ツール)を使って収集した資格情報とアルゴリズム情報を自分たちの管理するリモートサーバーに送信する。その際、彼は暗号化や難読化技術を使ってネットワークセキュリティ機器による検出を回避する。続いて彼は盗んだ資格情報を使ってターゲットのクラウドアカウントにアクセスし、ようやくアルゴリズムのソースコードのダウンロードに辿り着く。その後は危険は少ないが骨の折れる地道な作業であるアルゴリズム情報を使ったアルゴリズムの機能や性能のテスト、検証が続く。獲物であるアルゴリズムの商品価値が確認されて初めて、彼女、彼らはクライアントとの商談へと進み、莫大な報酬を受け取る運びとなることであろう。


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