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 きっかけは五月だった。2023年のその月、DBレーシングのエドゥアルド・ドミンゴが今季限りの引退を発表した。その時四十三歳だったドミンゴのツイッター投稿でそれを知ったオカダ・ヒロノブは、そのことが彼の今後の運命において大きな転機となるとはまだ夢にも思っていなかった。

 オカダ・ヒロノブはレッドドラゴンの姉妹チームであるミッドフィールドのファエンツァF1チームに所属して三年目を迎えたF1ドライバーだった。彼のレーサーとしての人生は彼が四歳の時に始めたカート・レーシングに端を発する。十五歳でA級ライセンスを所得すると、ジュニアフォーミュラにおけるキャリアをスタートさせる。まずはスーパーFJから始まり、F4へ。そこでの活躍で日本車メーカーによる育成プロジェクトの育成ドライバーに選出され、十八歳で渡欧、F3の世界に単身で乗り込む。彼はそこで一気呵成に階段を駆け上がった。十九歳でF2、その翌年には二十歳で遂に念願の最高峰であるF1のファエンツァと契約に漕ぎ着けまずはナンバー2ドライバーとしてグリッドに名を連ねた。

 F1とF2以下のジュニアカテゴリーとの最大の違いはチーム毎のマシン性能差の大きさである。各チームにFIAがリストアップした部品Listed Team Components(LTC)の設計と製造を義務付け、他チームのパーツを写真撮影及びリバースエンジニアリング等によってコピーすればFIAスポーティング・レギュレーション及び国際スポーツ規約違反としてFIAによって取り締まられ処罰されるF1とは異なり、F2ではシャシーもエンジンも同じメーカーの同じ物を使って完全なイコールコンディションで争っている。そういったジュニアカテゴリーで華々しく活躍し、トップに君臨していたような奴がF1にゴロゴロ集まって来る訳だが、それまでは天才としてもてはやされた奴らが全く同じ性能のマシンを運転するチームメイトに全く歯が立たなかったりする。ジュニアカテゴリーにおける厳しい競争を見事勝ち上がって来た天才の俺が奴に勝てない訳がない。基本的には全員そんな感じに思うが、対応は主に二つに分かれる。俺も天才だけど、F1はF2なんかと違い天才しかいない。より上位の天才が下位の天才を打ち負かす世界だ。そのことを冷静に受け止め、鍛錬を重ね、必ずしも努力は報われる訳でもないにしろ地道に成功の階段を上ろうとする者。あるいは、天才の俺が運転してるのにチームメイトに負けるのは、俺ではなくクルマが悪いからだと決め付けチームに文句を言い過ぎて、クビになる者。大別すればこの二種類に分かれるが、オカダ・ヒロノブは賢明にも前者の対応を心掛けた。

 基本理念の策定においては賢明なヒロノブだったが、やってる最中は熱くなって理念どころじゃなくなるパターンが最初の頃は頻発した。二十歳のガキなんて大概はそんなものである。手が出ないだけマシな方だ。無線でレースエンジニアにキレまくってた一年目を周りの大人に大目に見て貰って切り抜け、二年目は抜かり無くペースを上げ、ポイントもそこそこ稼ぎ、チームメイトの交代でナンバー1ドライバーとなった勝負の三年目、ヒロノブは冷静かつ冴えたドライビングで周りの大人どもから大目に見て貰うどころか大きな注目を浴びるまでに成長する。


「He might be smaller stature, but he is a mighty racer. He is the fearless Japanese F1 superstar, Hironobu Okada!」

 マイアミGPのオープニングセレモニーでトム・クルーズ、フェデラー、イーロン・マスクといった各界著名人が見守る中、ウィル・アイ・アムが指揮するオーケストラ演奏をバックにLLクールJにこのように紹介された日本人F1ドライバーは昂然と観客の声援に応えた。肝心のレースは予選の失敗で十七番グリッドからのスタートとなったがストレートスピードで圧倒的に不利なマシンながらも地道な鍛錬と天性の才能が織りなす超絶オーバーテイクスキルを駆使し続々ごぼう抜きでポジションを上げ、十一位で迎えた最終ラップ、ゴール手前で奇跡のオーバーテイクをおまけしP10でフィニッシュ。見事にポイントを獲得し、業界界隈の評判もうなぎ登りに至る。

 そんな大成功のマイアミGPの後、過酷な競争を切り抜け成長を続ける彼にも休日が訪れる。辛く苦しいだけでは人生に生きる価値も意味も目的も無い。大概誰でもそんな感じに思うはずだが、ヒロノブも例外ではない。そんなヒロノブはその休日、恋人のイタリア人女子大生、クラーラと密やかかつ爽やかな時を共にし、人生を堪能し存分に味わっていた。彼は過酷で多忙な日々の合間のたまの休みを恋人と楽しむ為に濃密なデートプランを拵えた。

 彼は所属チームの本拠地があるイタリアの地方都市、ファエンツァに住んでいた。そこで彼がまず設定した第一目的地はファエンツァ国際陶芸博物館であった。そこには世界各国の陶芸品が集められるが、お目当てはご当地ファエンツァでルネッサンス期に発展したマヨリカ焼きの展示物群である。日本あるいはその他各国の大都市で遊びに行くといえばカラオケかゲーセン、ボーリングとかだったが、せっかく歴史のあるイタリアの地方都市に住んでいるからにはルネッサンス期の市民文化に触れて置くのも一興であろう。そんな感じの感慨に浸りながら日本人レーサーは日々のスピードに追われる熾烈な競争を忘れ、悠久の工芸品に心を奪われ、それらが作られた時代に思いを馳せた。よく行くマクドナルドのビッグマックが入ってる紙の箱がEDMだとすれば、ここにある皿は竪琴の荘厳かつゆるやかな調べ、そう言って良かった。日々の小刻みなビートはここではゆったりとしたバラードのメロディにアレンジされた。ルネッサンスと言えば、特にイタリアではダヴィンチやミケランジェロ、詩人ではペトラルカなどが活躍し、ヨーロッパ諸外国に影響が伝播し、それまでのスコラ哲学的な神中心の価値観から人間主義が育まれて行く。それから時代は流れ、宗教戦争、産業革命、マルクス主義革命、二度の世界大戦、原爆投下、キューバ危機、IT革命、パンデミック、ウクライナ戦争等を経て、遂にAI革命の時代がやって来た。流暢に人と会話し、エッセイを書き、歌を歌い、絵を描くAIが現実となり、遂には人類を脅かす神の如き力を有するであろう特異点の到来も間近になりつつあると専門家は警告する。神から離れ、人間主義を育んだ結果、人工的に開発された電子的な神に人が滅ぼされるかもしれないという幻想的な予想が叫ばれる現代にヒロノブは生き、競争し、マヨリカ焼きを鑑賞している。彼はそんなことを考えながら、大きな時間的広がりが一点に集約するかのような壮大な感覚に浸った。AIが支配しようが滅ぼそうが何だろうが、俺にはレースしかない。レースに勝ち、成功と繁栄を勝ち取る。それ以外のことはその後で心配しよう。今の俺にとっては特異点どころではない。俺は俺自身のシンギュラリティに集中すればいい。他は何らかの専門家に任せて置けば何とかしてくれるはずだ。

 悠久の時に身を委ねた後は、彼の赤いホンダNSXの助手席にクラーラを乗せ、第二目的地へと急行する。彼はステアリングホイールを握りながらチラリと美しく若いイタリアの娘を見る。西洋人にとって日本人女性との交際はある種ステイタスとさえ言われるようになったが、日本人男性は逆に欧米ではもてないのが一般的だと言わざるを得ない状況で、このような美しいイタリア人女性と交際できるのはF1ドライバーとしての肩書が物を言うと思われるのも致し方ない側面もあろう。この女にしてもどれほどの気持ちで俺と付き合っているのだろう。F1ドライバーとの交際という特権的行動で周囲に自己顕示する為だけ。そんなことだってあり得るわけだ。俺にしたところで、いつまでもこのファエンツァに住み続けるという訳には行かないだろう。一流ドライバーの仲間入りを果たしたら、彼らと同様、モナコに住み、プライベートジェットを乗り回すような日々が訪れる訳だ。そうなった時、一緒にクラーラをモナコに連れていくのだろうか。そこまで俺は彼女を愛し続けていられるものだろうか。でもモナコに住むなんてのはまだもうちょっと先になるだろうし、それまで愛し続ける以前に、途中で他の男に取られるかもな。はたまたモナコどころか調子を落としてクビになり、早々に恋人に見限られ、捨てられることだってあり得る。とにかくこのヨーロッパのモータースポーツ界で生き残ることに日本人であることはデメリットでしかない。どんな手を使ってでもなんとしてでも勝ち、這い上がる以外俺にとって成功の道は残されていないのだ。そんなことをウジウジ考えているうちに、彼の日本メーカー製スーパーカーは目的地へと到着した。

〈Tana Del Lupo〉はカジュアルなリストランテだった。広々として窓が大きい、明るい開放的な感じのホールで、天井は屋根裏がむき出しで送風用のプロペラが沢山付いていた。白いテーブルクロスが敷かれたテーブルの席に座った二人は伝統的なイタリア料理のコースメニューを注文した。まずは二人とも前菜に〈Antipasto alla italiana〉を注文する。これは一枚の皿に全体を構成する部分が分かれて盛り付けられた状態で供される料理だった。土台となるのがピアディーニャと呼ばれる、トルティーヤをちょっと厚くして小さく切ったみたいのにスクアックローネというロマーニャ産のフレッシュなクリームチーズを塗りその上にお好みでレタス、サラミ、プロシュート(生ハム)を載せて手づかみで食べる。食べる人のさじ加減で具材のバランスを調節出来るのが醍醐味と言っていいだろう。次は普通ピザかパスタだが、前菜が若干、ピザっぽいので、二人ともパスタだった。ヒロノブは〈Curzul fatti in casa〉(自家製パスタとミートソース)、クラーラは〈Penne alla Arrabbiata〉。メインディッシュは二人とも揃えて〈Bistecca di Scottona〉(若い牝牛のステーキ)をミディアムレアで注文した。

 ヒロノブの電話が鳴ったのは彼らがデザートの〈Tortino al cioccolato col mascarpone〉(チョコケーキとマスカルポーネチーズ)を楽しんでいる最中だった。電話は彼のエージェントからだった。

――ったく、タイミング悪いな。今、デートでメシ食ってたとこなんだよ。

――すまんすまん。けどさ、たった今重大ニュースが入って、是非とも教えておきたかったんだよ。

 ――嘘つけ。どうせしょうもないニュースなんだろ、きっと。

 ――あのDBレーシングからのオファーだ。今季で引退するドミンゴの後釜ってことだぜ。

 ――エーッ、ウソー! スゲーなそれ。正しく重大ニュースそのものだな。

 ――だから言ったろ、めんどくせー日本人だな。で、どうする。このままウジウジ、レッドドラゴンのシートが空くのを待って、おめおめとヘンドリクスの手下のナンバー2ドライバーになるか。来年からDBでナンバー1ドライバーになって、堂々とヘンドリクスと真っ向勝負するのか。まあ、言ってみりゃあ、男見せるのか、見せないのか。どっちなの、え?

 ――そんなもん、決まってんだろ。

「ねえ、何の電話だったの?」

 電話を切ったヒロノブにクラーラが質問した。彼女はヒロノブの発言部分だけからは正確な内容を想像することは出来なかったが、何らかの良い重大ニュースであることだけは分かった。そんなクラーラにヒロノブは具体的に解説した。

「この俺にDBレーシングからオファーが来たんだ。来季から契約したいんだとさ」

「すごーい!」クラーラは満面の笑顔で祝福の拍手を送った。「で、契約することにしたのね」 

 当然、条件面を含めた交渉がこれから始まる段階だったが、細かいことは省いてヒロノブは簡潔に答えた。

「うん」

「おめでとう。頑張ってね」

「ありがとう」

 ヒロノブは徐々に陰りを帯びるクラーラの表情を観察しながら思った。英国に本拠地があるDBレーシングに移籍となればこんなイタリアの片田舎にいつまでもい続ける訳がないというのは分かり切った話だ。距離が離れれば交際は困難になり、当然の成り行きとして二人の交際も長くはないだろう。だが、お互い若いんだし、可能性は無限だ。いつまでも無理して関係を続けるよりは、別れて新しい道を歩むのがお互いにとって最善なはずだ。

「ねえ」クラーラはそんな彼の心を見透かしたようにこう言った。「これでおしまいなのね」

 突然、そう言われたヒロノブは固まってしまった。彼女は続けた。

「いいの、私はこれで。あっちに行っても頑張ってね」

「……ああ」

 ヒロノブはどうにかそう答えるのが精一杯だった。


 年間スケジュール最終戦のアブダビGPを十一月二十六日に終え、ファエンツァに用がなくなったヒロノブは十二月の上旬にはとっとと最寄りのフォルリ空港からDBレーシングがチャーターしてくれたプライベートジェットでクラーラを残しイタリアを脱出した。俺も一人前に活躍し始めこうやってプライベートジェット待遇のドライバーに成り上がったが、まだまだ上がある。プライベートジェット待遇の上は、プライベートジェットを買って維持するレベル。年収八十億円レベル。それはヤン・ヘンドリクスが属するレベルであり、世界チャンピオンのレベルだ。プライベートジェットは雲の上まで上昇し、ヒロノブは雲の上のレベルを夢見ながら、窓外を眺めた。ここまで上昇すればバードストライクの心配もあるまい。これで一安心と。きっともうオートパイロットモードにしているのかな。よく分かんないけど。プライベートジェットであれば隣に座った訳の分からないおじさんが訳の分からない弁当を食いながらキリンラガービールなんかを飲み、途中、生死の境目を彷徨うかのように咳き込む音やなんかに煩わされることもなくネットフリックスを見ながら、英国までの空路をゆったりと過ごせる。ヒロノブがネットフリックスを堪能する中、プライベートジェットはユーラシア大陸を後にし、英国領空に侵入、ロンドンに迫り降下を始めた。

 雲を抜けると、雨だった。透き通った大気から芳醇な日光を浴びる上空から高度を落とすと空は厚い雨雲に覆われ、陰湿な大気の中、夥しい量の液体が地表を抜かりなく湿らせている。ジェットはヒースロー空港の滑走路にタッチダウンした。ヒロノブは搭乗口のステップを降りながら傘を差して、地表に降り立つ。晴れたイタリアから風雨の英国へ。この国での先行きを暗示するかのような象徴的天候。ふとヒロノブはそんな風に感じたが、強豪チームでの華やかな活躍への期待と渇望で彼の胸は一杯に満たされ、そんな縁起でも無い不吉な予感は瞬く間に消え去った。

 ヒースロー空港に到着した時刻は正午でヒロノブは朝食を軽めに済ませており、空腹を感じていた為、空港内の〈サブウェイ〉で昼食を取ることにした。空港には他にも有名シェフの高級レストランなんかも軒を並べていたが、シルバーストーンのファクトリーでヒロノブを待っている連中もいて、そいつらも暇じゃない。余計な用事はとっとと済ませて早く帰ってビールを飲みたい訳だから、昼ピークの混んだ店でいつまでも料理が出来るのを待って、のんびりとランチを味わってた事がそいつらに知れたら、どう思われるか。こういう細かい気遣いが後々功を奏しないとも限らない。そんな訳でヒロノブは一瞬で出来上がったローストチキン・サンドイッチをパパッとブラックコーヒーで流し込んでさっさとヘリポートへ向かう。ロンドンからシルバーストーンはヘリで約三十五分。ヒロノブはファクトリーに午後一時に到着した。

 ファクトリー、より正確にはDBレーシング本部の玄関ホールでは、チームプリンシパル、所謂チームのボス、のはずだがこのチームに限っては絶対権力者である会長に仕える雇われ支店長みたいな感じのルーカス・ミューラーがヒロノブを待ち受けた。

「DBレーシングへようこそ。フライトはどうだった?」

「最高だったよ。バードストライクも無かったし」

「良かった。さっそく、関係者に紹介しよう」

「よろしくお願いします」

「じゃあ、行こうか。こっちだ」

「OK」

 二人は廊下を進みエレベーターに向かった。DBレーシングの本部はビルディング1から3までの三つの建物で構成され、今彼らがいるビルディング1は主にマシンの開発と製造全般における各部署が配置されている。ビルディング2にはスタッフ用の各種快適設備、講堂、シミュレーター、運送関係、各種遺産物の保存が割り振られ、残るビルディング3は最新鋭の風洞実験施設だった。

「まずは、なにはともあれ、会長のとこに行かないとな」

「ですね」

「会長もさっき着いたばかりなんだ」

「いいタイミングでしたね」

 会長の執務室はここビルディング1、三階の奥まった箇所、言ってみればいかにも最高権力者がいそうな場所に正しくあった。ルーカス・ミューラーはドアをノックしてから言った。

「会長、ルーカスです。ヒロノブをお連れしました」

 中から、おお、入れという野太いしゃがれ声が響くのを確認してからチームプリンシパルはドアを開け、二人は執務室に入った。ヒロノブは部屋の奥のテーブルを挟んだソファに会長とその側近と思しき中年男性が対面して座っているのを見た。テーブルの上にはチェスボードが置かれている。側近は直ぐに立ち上がってヒロノブと向かいあった。

「よう、早かったな」会長は座ったままヒロノブに話し掛けた。「こいつはロバートってんだ」

「よろしくお願いします」ロバートは手を差し出した。

「こちらこそ、よろしくお願いします」ヒロノブはロバートと握手を交わす。

 デイヴィッドは質問した。

「メシは食ったのか? なんなら出前でもとるか」

「大丈夫です。空港でサンドイッチを食べましたので」

「サンドイッチ? そんなもんでいいのか。メシくらいゆっくり食ったらいいだろ。こっちはもっと掛かるのかと思って、チェスでもやってゆっくり待とうと思ってたんだ」

「そうでしたか。待たせたらあれかなって」

「そんな気使わなくて良かったのに」

 デイヴィッド・シルバースタインは口ではそう言ったが、そんくらい考えるのが普通だろと思っているのが、ヒロノブには何となく分かるような気がした。気のせいかもしれないが。

「そうだ、お前もチェスやってみるか」

「それが出来ないんですよ」

「そうか。まあ、これから覚えるのも悪くないぞ。チェスはゲームの王様だ。簡単なルールさえ覚えれば、高度に複雑な戦略的駆け引きが堪能出来る。まあ、言ってみりゃあ、こいつは戦略のエッセンスだよ。ただ現実はゲームのようにはいかないのが常だ。戦略だけではどうにもならない時もある。時にはルールを破ったり、新しく自分に有利なルールを作ったりしなけりゃ勝利は手に入らん。政治、戦争、それに歴史が証明している。ビジネスやレースにしたって、それは同じだろ」

「そうかもしれません。ただ、不正を犯してまで成し遂げた勝利では真の満足は得られないのではないのでしょうか」

「君の母国の巨匠、大江健三郎は読んだことはあるかね」

「いいえ」

「彼の初期作品の一つにちょうど君のように野心的で情熱に満ちた青年が一流の政治家を目指し、悪戦苦闘する物語がある。その小説にはこんな一節がある。《秩序をまもる他人どもを政治するためには、秩序を破壊する自由をもった人間としてかれらにむかわねばならない》」

「……確かに。実際は、そうなんでしょう……」

 それを聞いた会長は立ち上がり、ヒロノブに近づき手を差し出した。

「ま、よろしくな」会長はヒロノブと笑顔で握手してから続けた。「他のスタッフも待ってるだろうから、そろそろ行ったほうがいいだろ」

「はい」

「頑張れよ、若いの。期待してるぞ」

「ありがとうございます。ご期待に沿えるよう頑張ります」

 デイヴィッドは一転、目尻を上げルーカスに命令口調で言った。

「おい、ルーカス。お前、ちゃんとこいつの面倒見てやれよ」

「分かりました、会長。では、失礼します」

「うん。おっと、忘れてた」彼はまたヒロノブに話し掛けた「ちょっと知り合いからいいマッサージ師がいるって紹介されたんだけど、良かったら電話してみてくれ。いつでも家まで出張サービスしてくれるそうだ」会長はヒロノブに電話番号が書いてある紙を渡した。「料金もその金持ちの知り合いが持ってくれるって話だ」

「ありがとうございます」

「じゃあな」

「では、失礼します、会長」

「おお」デイヴィッドはヒロノブとルーカスを笑顔で送り出した。

 ルーカスの先導によってヒロノブは以下に列挙したチーム内の各役職者への挨拶回りを開始する。テクニカルディレクター、チーフストラテジスト、エンジニアリングディレクター、デザインディレクター、パフォーマンスディレクター(マシン開発、ドライバー育成、戦略を含めた総合的な競争力の向上を管理)、スポーティングディレクター(主に組織運営、人事、FIAとの交渉)、エアロダイナミクスディレクター、各ドライバー担当エンジニア、チームアンバサダー兼ドライバー開発プログラムコンサルタント(元F1ドライバー)。挨拶回り、各施設の説明及び見学等、その日のファクトリーでのスケジュールを終えたのは午後三時だった。それ以降の彼の予定としては、既にチームがファエンツァからファクトリーの駐車場へ輸送してくれた彼のNSXを法定速度順守で走らせて三十分ほど掛かるノーサンプトンの彼のアパートメントに帰宅し、途中、どこかショッピングセンターによって夕食用の食材を買うという感じだった。アパートメントはチームが予め準備していた物件で、すでに荷物も運びこまれていたので、段ボール箱を開けて必要な物を出せば、直ぐに生活できる段取りになっていた。アシスタントからクルマとアパートメントの鍵を受け取ったヒロノブは駐車場のNSXに乗り込み、エンジンを掛ける。計算上では買い物を済ませてから帰宅するのが四時、それから段ボール箱を開けて荷物を整理するのに一時間とすると、五時には一段落して落ち着くはずだ。彼は会長から貰った紙切れを開いてその電話暗号に電話した。ただ単に数字が書いてあるだけで名前も説明もない。相手がマッサージ・セラピストであるだろう点を除いては如何なる情報も無かったので、ヒロノブはなんかちょっとドキドキした。そういうとこ、ちょっと会長に訊いて置けば良かったなと思ったが、既に手遅れだった。だが、たまにこういうドキドキもいいかも。そういうのが人生のスパイスになったりもするもんだ。そんな風に思いを巡らせていると相手が電話に出た。若い女性の落ち着いた声が日本語で話し掛けた。

「はい、こちらはサトウ・サユリでございます」

「あの、デイヴィッド・シルバースタインさんから電話番号を貰って電話したオカダと申しますが、なんか、マッサージの出張サービスして貰えるって話聞いてたんですけど」

「お話は承っております。ご連絡をお待ちしておりました。ご予約の日時はお決まりでしょうか?」

「えーっと、今日の午後六時でいいかな」

「かしこまりました。では、今日の午後六時ご自宅の方へ伺わせていただきます」

「じゃ、それで」

「よろしくお願いいたします」

「あ、はい。失礼します」

 電話を切ったヒロノブは、オーディオのスイッチを入れて音楽を掛けた。ここ最近の彼はここ最近のヒットソングをシャッフル再生で適当に聞くという軽薄な音楽との接し方を廃止し、若干古めのアルバムをコレクションしてコンパクトUSBメモリーにストックし、シャッフルせずにアーティスト側が入念に検討を重ねた結果決定した曲順を尊重して始めから終わりまで順番通りに一枚ずつ丹念に聞く方式を採用していた。その時再生された曲はニーヨの結構前のアルバムの途中の何かの曲だった。彼はその音楽を存分に味わい堪能しながらギアを一速にいれてNSXをスタートさせる。

 彼がまず向かった先はノーサンプトン市内の〈Weston Favell Shopping Centre〉だった。駐車場にNSXを停めショッピングセンター内に向かうとりあえず、ジョニーウォーカー黒のボトルと炭酸水。それから今晩の夕食に合わせるワイン。イタリア産の辛口白ワイン、ソアーヴェとライトボディの赤、ヴァルポリチェッラ。クッキングワインと冷凍ミックスベジタブル一袋。最後に肉売り場へ向かい厚さ二~二・五センチのステーキ肉(450グラム)二枚を籠に入れてレジに向かった。彼は今晩招き入れる日本人女性のセラピストと夕食を共にしたいと思っていた。それはただ単に口説きたいという下心からというだけでは決してない。ここ最近の彼はYouTube等でステーキの調理法を研究し、最高に美味いミディアムレアのステーキを最も簡単に作る方法をマスターしていたので、そのステーキを他人にご馳走したいという願望に憑りつかれてからという要因もあったのだ。もちろん下心も無きにしも非ずなのは否めないが。そのことからもセラピストの為に選択肢を増やす目的で赤と白の両方のワインも買ったのである。

 アパートメントの地下駐車場に到着する頃にはニーヨのアルバムが終わり、プリンスの発音が不明のシンボルマークがタイトルのアルバムに突入していた。プリンスのアルバムには共通のパターンがあり、ノリノリの奴で始まってからバラードゾーンに入り、またノリノリを挟んでから最後は重厚でドラマティックな奴で荘厳に締めくくる、かと思いきや、トリは軽快でご機嫌なナンバーでハッピーエンドみたいな具合だ。それぞれの曲がアルバムという全体においてきちんと役割を担当しているので、通して順番通りに聞かないとそれぞれの曲の真価が味わえない。

 彼は部屋に入るとまず、シンク、洗面所、浴室、トイレできちんと水が出るか確認した。とにかく電気は無くてもどうにかなるが、水が出ないとどうにもならない。それから彼は荷開け作業を開始し、いろんな物を所定の場所に収納し、それが終わると買って来たジョニーウォーカーで極薄い水割りを作ってそれをすすりながら一休みした。まあ、こうやって何もしないでセラピストが来るまで待っててもいいが、プライベートジェットで見ていたネットフリックスの映画がちょっと長くて途中だったので、それを見ることにした。その映画はバリー・レビンソン監督の《スリーパーズ》だった。少年院に入れられた不良少年四人組が性倒錯者の看守スノークスに性的暴行を受ける。年月が過ぎ去り、四人組の内、アル中のゴロツキに成長したジョンとトミーがバーでミートローフを食ってたスノークスを偶然発見する。ジョンとトミーは隠し持ってたコンパクトなピストルのスライドを引いてから、スノークスに話し掛ける。

「Oh, you ordered the meatloaf. The brisket's really good here, only you'll never know it. You fucked up.」

 日本語字幕だとこのトミーの名ゼリフにあるブリスケットがチキン・サンドイッチになってるが、ブリスケット・サンドイッチは一般的には、牛の肩ばら肉(ブリスケット)の塊を長時間バーベキュー調理してからスライスし、バンズやロールパンなんかに挟んで食べる料理である。とにかく日本ではスーパーで売っているステーキ肉も薄いのが多いし、すき焼きやしょうが焼き等を見ても大概肉は薄く切ってからサッと短時間で火入れしがちだが、肉はなるべく厚く切るか塊のまま時間を掛けて低温調理した方が旨味が凝縮し柔らかく美味しくなる。二人はスノークスを射殺してから頼んだサンドイッチは食べずに立ち去るが後日、警察に逮捕される。

 四人組の内、検事になったマイケルが裁判を担当し、新聞記者になったシェイクスと協力しジョンとトミーを無実にし、スノークスの仲間に制裁を加える計略を発案、実行に移す。その計略の根幹に彼らの恩師であるロバート神父が関わる。マイケルとシェイクスはロバートに事件当日の事件発生時刻にジョンとトミーと一緒にニックス対セルティックスの試合を観戦していたという偽証をするように要請する。米国の裁判所では証言する際に神に真実のみを話すと最初に誓わなければならないが、宣誓した上での偽証はカトリックの司祭としては決して許されない行為であると考えるのが一般的だ。だが、刑法違反とは言え倫理的には正当な復讐を行った二人を救うのは正義でもある。このジレンマに対してカント哲学的葛藤に苛まれながらも、結果的にはロバート神父は偽証を実行する。ヒロノブにとっては法令順守、コンプライアンスよりも、キリスト教的価値基準を重視する欧米諸国的価値感が興味深かった。偽証はそれ自体法律違反だがロバート神父にとっては法律よりも神を裏切る行為であることの方がより深刻な問題なのである。ただ単に復讐してスカッとするだけの話だと薄っぺらいがこういう文化的、宗教的、カント哲学的問題が入り組んで問題が厄介になる感じが物語に奥行きを与えている点にヒロノブは好感を覚えた。やっぱ、何でも厚みがないとな。

 予約の時刻が来て、玄関のベルが鳴る。サトウ・サユリはとても美しい女性だった。長身で、極めて緩くウェーヴがかかった長い髪をなびかせていた。彼女は意志の強そうな目でヒロノブを見つめて挨拶し、自己紹介した。ヒロノブの胸は高鳴ったが、彼はあたかも全く高鳴っていないかのように挨拶し、彼女を部屋の奥へと案内した。彼女によるとまず、彼女が持参した薄手のスエット上下に着替えて欲しいという話だったので、ヒロノブはちょっと別の部屋に行って、既に着ていた部屋着から貰ったスエットに着替えて元の部屋に戻った。すると、サユリは既に持参したマットを敷き、その上に枕を置いてスタンバイしていた。

「こちらにうつ伏せにお願いします」

「ハイ」彼はうつ伏せになった。

「それでは施術を始めさせて頂きます」

「ハイ」

 彼女は彼の横に膝をついて屈み、両手で背中を押し始めた。彼女は押しながら彼に質問した。

「力加減はいかがでしょうか?」

「ちょうどいいです」

 サユリはかなりの腕力の持ち主だった。若干強過ぎだと感じたヒロノブだったが、そんなことを言うのは彼のつまらないプライドが許さなかった。彼女の腕力、妙に迫力を感じさせる落ち着いた口調、それに意志が強そうで冷ややかな目はヒロノブの想像力の翼を羽ばたかせた。セラピストと言うのは表向きの職業で正体は殺し屋とかかもしれない。喫茶店かどこかで仲介者と密会し、殺しの依頼を請け負う場面、ターゲットが無防備にうつ伏せになっている状態で恐るべき武器をどこかから取り出す様子等を頭に思い浮かべる。そう言えば、前にそんな感じの主人公が活躍する小説を読んだことがあるような気がした。何だったかな。まあ、どうでもいいや。実際は殺し屋のセラピストなんか、実際にいる訳ないじゃない。きっと。

「もし強過ぎたりしたら言ってくださいね」

「はい。あ、そうだ。なんかBGM掛けてもいいですか?」

「いいですよ」

 彼が携帯電話を操作すると遠隔接続したスピーカーから極小音量で音楽が流れだした。最初に流れた曲はクリス・ブラウンの《Sweet Love》だった。彼はマットの上に戻り、サユリはマッサージを再開した。あからさまにそのスロー&セクシーな曲の影響でロマンティックな雰囲気が高まった。

「あの、どこか重点的にやって欲しいところとかございますか?」

「じゃあ、首をお願いします。やっぱこうレースでGが掛かるもんでね」

「でしょうねえ。休みの日とかは何しているんですか?」

「まあ、いろいろですね。トレーニングもしますし、後は料理とかですかね」

「へえ、どんな料理作るんですか?」

「チキンか牛肉のステーキです。どうです、良かったら終わったら食べて行きませんかステーキ用の牛肉を二人分買って来ておいたんで」

「え、いいんですか?」

「いいですよ」

「でしたら、お言葉に甘えて」

スピーカーから流れる曲はリアーナの《Skin》に変わった。それからも流れてくる曲は一貫してスロー&セクシーかスロー&ロマンティック、ないしはスロー&ドラマティックな曲に限定された。

《Earned It》The Weekend

《Adorn》 Miguel

《Love Me Like You Do》Ellie Goulding

《Pillowtalk》Zayn

《Crazy in Love》Beyoncé ft. Jay-Z (Covered by Sofia Karlberg)

 とにかくいずれにせよ全般的にスローな曲でリラックスした雰囲気に満たされた空間でヒロノブの筋肉はサユリの腕力により極限まで揉み解され、長旅の疲れもすっかり癒され、やがてディナーを準備する時間が訪れたのであった。

 ヒロノブは冷蔵庫からパックに入った肉、ミックス調味料二種、ステーキソース、冷凍庫からミックスベジタブルの袋、戸棚から塩コショウ、オリーブオイル、クッキングワインを取り出した。ヒロノブは手慣れた様子で作業を始めた、手慣れた様子だけはシェフの様だったが、やってること自体は全くシェフではなかった。彼の思想としてはシェフのやっていることを限界まで簡略化しながらも限りなくシェフに近い味を再現し、パッと見をよくする為だけの余計なひと手間等は一切合切切り捨て作業時間を短縮したかった。何しろ彼はシェフではなくF1ドライバーなのである。シーズンオフと言っても過酷なレースに耐える肉体を作り上げるトレーニングでスケジュールはパンパンに詰まっている。いろんなひと手間に時間を割いている暇は無いのだ。

 ヒロノブは肉にクッキングワインを適量ぶっかけてから塩コショウを振り掛けた。ここで普通シェフや焼き目を良く付ける為に表面の水分を拭きとったりするが、焼き目なんかどうなったって味なんか大して変わんないのでそのようなひと手間は割愛し、逆にクッキングワインを掛けた方が風味が増して臭みが消えて良いに決まってるという彼の信念を頑なに貫いた。彼は経験的に牛肉はチキンよりもクッキングワインが肉の繊維にしみ込みやすい事を感じ取っていた。だから掛け過ぎたり、その後の調味料の使用量が多過ぎだとすると最終的にしょっぱくなり過ぎるので、その点の注意は怠らなかった。牛肉はチキンよりも熱も通りやすい。すなわち牛肉は外部からの何らかの干渉に対してチキンよりもより脆弱な素材であると言えるだろう。筋にナイフを刺し極軽く筋切してから、クッキングワインを肉にしみ込ませている間に冷凍ミックスベジタブルを皿に出して電子レンジで一分加熱し、小鉢にステーキソースとワサビを適量入れ、食器類もスタンバイする。フライパンを出し、オリーブオイルを適量入れて中火に掛ける。その間五分くらい肉は待機している訳だが、この五分待機で肉にクッキングワインが染み込んで柔らかくなりクッキングワインの塩分で塩味が増す。五分待機しないで直ぐに焼くのとは全く訳が違うのでこの待機時間は必須である。

 フライパンが温まったら、肉の下を手前に置いてから上を奥に向かってフライパンに敷いていく。そうすることによって油が跳ねて自分に向かって来ない。ヒロノブはこれをゴードン・ラムゼイの動画で知り、真似した。だが、それ以降はゴードン・ラムゼイを含む全てのシェフが絶対しない方法で肉を焼いた。彼はフライパンに蓋をした。シェフは絶対蓋をしない。それは単純に蓋が無いからかもしれない。たまにシェフは蓋の代わりにアルミホイルをフライパンに被せたりするからだ。とにかく家庭でステーキを焼く時は蓋をしない訳にはいかない。換気設備の貧弱さ、飛び散った油の掃除の手間。ヒロノブは蓋に関しては譲れなかった。蓋をするデメリットとしてアロゼが出来ないというのがあるが、アロゼなんかやってるほど暇じゃない。スプーンで油を肉に掛けてる暇があったらテレビを見たい。で後、最近のコンロはアロゼをしようと思ってフライパンを斜めにすると安全装置が作動して火が消えてしまうのでやろうと思っても出来ないという問題も考慮して頂きたい。

 ゴードン・ラムゼイは感覚的なシェフだ。彼は一々時間や温度を計測して肉を焼いたりしない。彼の解説には何分焼く、とか何分休ませると言った指定が全く無い。一方、細かく指定するシェフもいる。最低十分休ませる。レアは摂氏55度、ミディアムレアは65度。そのように正確に計測して仕上げるクオリティーをゴードン・ラムゼイは何となくの勘でやってしまう訳だが、そうすることによって温度や時間を測る手間が省ける訳なので、作業効率が向上し提供スピードが上がるというメリットがある。これは何にでもあてはまる。データがあるからといってデータ分析に時間を割いて仕事をするよりもパッと見の印象で意思決定して同じクオリティーの結果を出せるならそっちの方が早く仕事が終わってとっとと帰ってビールを飲める。だが、ヒロノブは感覚的なシェフではないのはもちろんのこと、そもそもシェフですらないただのF1ドライバーなのである。彼はさすがに温度は面倒だったから測らなかったが、きっちり時間を測って自作レシピに忠実に調理した。

 最初、蓋をして中火で両面各一分。火を止め、蓋をとってひっくり返してそのまま二分休ませる。再度蓋をしてまた中火両面各一分。蓋を取って、肉を取り出してひっくり返して、洗った肉が入ってたプラスティック容器に置いて二分休ませる。何回もひっくり返して地球の重力を両面に均等に作用させて内部の肉汁を循環させ均一に仕上げる戦略だ。休ませている間にフライパンを水洗いして新しいオリーブオイルを引く。最初の油は劣化して臭くなるので厚い肉を焼く時は途中で交換した方がいい。ゴードン・ラムゼイはこの代わりにニンニクとハーブを入れて一緒に焼いて匂いを誤魔化す戦略だが、ニンニクとハーブ用意するのが面倒だし、臭み消し目的でクッキングワインも最初に掛けてあるので、きっとこれはこれでいいだろう。

 今度は弱火、限界の最小にして肉をひっくり返してフライパンに置き蓋して二分。火を消して蓋を取ってひっくり返してそのまま二分休ませて、その間にバターをイン。再度蓋をして弱火二分。火を止めて蓋を取って、ひっくり返してそのまま八分休ませる。最後休ませる時間は厚さ次第だ。ちょっと薄かったら四分くらいまで短縮する。日本のスーパーのあまりにも薄い肉は休ませない方がいい。休ませ過ぎても水分が減少し過ぎて固くなる。温度は測るの面倒だし、固さで判別するのは微妙過ぎて良く分かんないが、最も簡単で分かりやすい判別方法は表面に赤い肉汁が滲み出て来たら、間違いなくミディアムレア以上に火が入ってる。最後は蓋無しで両面各三十秒中火で温め直して、ひっくり返して皿に盛り付ける。ここですかさずフライパンに残った肉汁を再度煮詰めてステーキソースとワサビが入った小鉢に入れてスプーンでかき回す。フライパンを中火に掛け電子レンジからミックスベジタブルが入った皿を取り出しフライパンにイン。ミックスベジタブルに塩コショウを振り掛ける。ステーキにミックス調味料二種、タバスコを振り掛けテーブルに持っていく。ミックスベジタブルをトングでかき混ぜて火を止めて、皿に盛り付けフライパンを軽く洗って水を貯めて置く。ミックスベジタブルの皿とソースの小鉢をテーブルに運び、ソースをステーキとミックスベジタブルにスプーンでしょっぱくなり過ぎない程度の量を掛ける。

 サユリが選んだのはヴァルポリチェッラだった。理由を訊くと、何となく肉と言えば赤かなみたいなことだった。厳密には赤と言ってもライトボディなので白身魚にも合うし、肉と言ってもどちらかと言えばビーフよりもチキンや豚肉に向いているらしい。ただ普通の人は何に合うとかではないのである。とにかく飲みやすくて好きなワインを買って、それと一緒に何でも食べる。後女性と一緒のディナーだからワインとかたまに買ってみたが、普通はハイボールかビールだろう。ただ、ヒロノブはそんなことはおくびにも出さず、あたかもマスター・ソムリエでもあるかのようについさっき調べて丸暗記した説明を披露した。

「これはイタリアのヴェネト州産でドライ・グレープを使っているのが特徴なんだ。含まれるアロマとフレーバーはレーズン、プラム、チョコレート、タバコ、スパイス。リッチで力強い飲み口が楽しめるよ」

「そういうの聞くと期待で胸が膨らんで、よりおいしく飲めるような気がする」

「いやいや、どういたしまして。そうだ、また音楽でもかけようか」

 ヒロノブがかけたのはジャズだった。ネットで無料ダウンロードしたデューク・エリントンのファイルだ。

「素敵。なんか古い映画のヒロインになったような気分」

「だろ」

「ジャズ詳しいの?」

「全く何も分からないね。何聞いても同じに聞こえるよ。だから逆に同じ曲何回聞いても飽きないね」

 二人はデューク・エリントンを聞きながら、ヴァルポリチェッラを飲み、ヒロノブによる〈ショッピングセンターで買ったリブロースのステーキと肉汁とワサビ入り市販のステーキソース、冷凍ミックスベジタブルを添えて〉を味わった。最初にサユリが感想を口にした。

「おいしい。見てこの断面、ピンク色」

「今回は薄いとこをミディアム、厚いとこがミディアムレアになるように狙ってみたんだ。これくらいの厚さがあればミディアムまで火が入っても十分な水分が保たれておいしいけど、厚さ1・5センチ以下の薄い肉でミディアムまで火が入ってしまうと、パッと見はいいけど食べると水分が少な過ぎて食感が悪くなる。固くてぱさついておいしくない。薄い時はレアの一択だね」

「ふうん。料理が好きなのね」

「ゴードン・ラムゼイの動画を見て勉強してるんだ。そうだ、折角イギリスに住んでるんだからロンドンの〈Restraunt Gordon Ramsay〉に行ってみない?」

「デート?」

「っていうことになるかな」

「で、いつ?」

「えーっと、ミシュラン三ツ星レストランだから明日とかはきっと無理だろうけど、予約が取れ次第こちらから連絡するってことでどうかな?」

 サユリはヴァルポリチェッラでミックスベジタブルを流し込んでから答えた。

「いいよ」

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