POLE
@shakes
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これは幸福についての物語でもあった。例えばその夜のデイヴィッド・シルバースタインは紛れもなく幸福であるように見えた。彼は重く大きな体躯をしたカナダ人で、老年の入り口に差し掛かった年代だったが、活力に満ちた顔つきを保ち、様々な事業に携わりシグニフィカントな利潤を稼ぎ出していた。当初、彼はファッション業界の大物として頭角を現し財を成したが、ここ最近の彼のパブリックイメージとしてはモータースポーツ業界における投資家としての側面が優勢となりつつあった。
彼のようにカネさえあれば簡単に幸福になれるのかと言えば必ずしもそうではない。例えば十ドルのファーストフードもあれば千ドルのファインダイニングもある。価格は百倍だが、百倍美味いのかと言えば必ずしもそうではない。せいぜい二倍、良くて三倍、人によってはファーストフードの方が美味しいかもしれない。ただ単にカネを百倍使ったからと言って百倍おいしく、楽しく、幸福になれる訳ではない。クルマが好きだった彼もカネに物を言わせてスーパーカーとハイパーカーを買いまくる。価格が二十倍になったからと言って二十倍のスピードは出ない。最高速度でせいぜい二倍、加速は1・5倍程度が限界だろう。それでも相当速いし、エンジン音も近所迷惑だけど気持ちいい。だが、結局ただそれだけの話だ。ただカネを出しただけでは速くてエンジン音が気持ちいいだけだ。そんなものは大概すぐ飽きる。それ以上の快楽を得るには工夫が必要だった。そこで彼は資金繰りに困ったF1チームを買い取りそのF1チームの執行会長(Evecutive Chairman)に就任した。それに加えレーサーだった息子のフランクをドライバーとして採用する。F1チームを運営し、レーサーの息子を応援し、大きな成功を収めれば果てしない快楽を味わえるに違いない。その夜、彼の期待は完全ではないがある程度達成されたと言っていいだろう。
2023年九月のその夜、F1の年間スケジュールで最も盛大なイベントであるシンガポールGPがマリーナベイ・ストリートサーキットで開催された。デイヴィッド・シルバースタインが執行会長を務めるDBレーシングはコンストラクターズ・ランキングで首位を独走するレッドドラゴン・レーシングの天才ドライバー、ヤン・ヘンドリクスとメキシコのスター、ロドリゴ・マルケスのワントゥーフィニッシュに続いてナンバー1ドライバーであるスペインの英雄、エドゥアルド・ドミンゴが三位、続いてデイヴィッドの息子であるフランク・シルバースタインが四位と言う今期の各陣営の戦闘力を鑑みれば最高と言っていいリザルトをデリバーした。無論、常にチャンピオンを目指す意気込みのカナダ人ビリオネアにとっては最高とは言い難いが、それでも十分喜ばしい結果には変わりない。
デイヴィッド・シルバースタインはレースの様子をピットレーンの上に設置された最高のVIP専用観覧施設〈ザ・パドック・クラブ〉のプライベート・テラスでゴージャスな酒、食事を味わいながら堪能していた。その様子は傍から見れば古代ローマ帝国のコロッセウムでグラディエーターどもの壮絶且つ残酷な血みどろの殺し合いを悠揚と観覧する皇帝のごときものでもあったであろう。現代の皇帝はパワーユニットの往年に比べれば若干控え目な爆音と観客の浮かれた喧騒と狂躁の中、灼熱のシンガポールの満天の星空の下、ピニャコラーダを飲み、ロブスターロールをつまみながら自分のチームを渾身の熱情をこめて応援し、所属の二台がタイヤの消耗が限界に迫る中、無闇にプッシュし過ぎてコーナーでのオーバースピードやステアリングを急に切り過ぎ等の要因でアンダーを出してるにも関わらず、ターンアウトでアクセルオンのタイミングが早過ぎてリアがスライドし、瞬間的にオーバーステアに転換し、カウンターステアもしくはアクセルをわずかに緩めるかのいずれかの対処も間に合わずスピンしてウォールにクラッシュすることなく無難に三位と四位でフィニッシュした瞬間、渾身の絶叫を交えて歓喜の熱狂を爆発させた。彼は「Fuck, yeah!」と絶叫し、隣にいた側近的中年男性とハイファイブを決めた。インタビューではちょっとかっこつけて「こんなものでは私は満足していない、一位以外は勝利ではない」とかなんとか言っていたが、彼のチームの昨年のコンストラクターズ・ランキングは全十チーム中七位である。ミッドフィールド・チームとしては最悪と言っていい成績だ。ところが今季は全二十三戦中十六戦目を終えた段階で堂々の二位をキープしている。これほどの躍進に完全にではないとしても満足していない訳がなかった。ちなみにその躍進の背景としては昨年後半から稼働を開始したシグニフィカントなリソースを投入して英国シルバーストーンの広大なキャンパスに建造された巨大ファクトリーの存在とエアロダイナミクス開発において最も重要な風洞実験の実施可能時間が昨年の成績が悪ければ悪いほど長いというFIAが設けたルールから得られた恩恵の二点が特筆されて然るべきであろう。
――You are P4, P4. Congratulations.
――Yes! Oh, that was a wonderful race. Thank you, guys.
四位でフィニッシュしたフランク・シルバースタインにレースエンジニアは無線で順位を告げ祝福する。そしてチーム・プリンシパル、ルーカス・ミューラーのクールな口調が続いた。
――That was a great job, Frank. Enjoy your cool down lap.
――Yeah, will do.
レースが終わった後はもう一周走る。なぜなら、そうしないとピットロードに入れないからだが、それ以外にも酷使し、激熱になったブレーキとタイヤを冷やすという意味もあり、いつしかそれはクールダウン・ラップと呼ばれるようになった。マシンの部品だけでなく、ドライバーのハートもバトルで激熱になっているので、ゆっくり走ることでフランクも自身をクールダウンさせ、レースを振り返った。タイヤ・マネジメントもそつなくこなし、オーバーテイクもスムーズだった。チームメイトのベテラン、エドゥアルドに比べれればペースは劣るが、俺にしては上出来だろう。せっかくのシンガポールの夜だ、今夜くらいは楽しんでもいいだろう。フランクはピットロードからピットには戻らずパルクフェルメ(フランス語で「閉じた公園」)と呼ばれる表彰台付近の所定の位置にマシンを駐車する。レース後はパルクフェルメでマシンの違法性がないかどうかFIA技術部門によって検査が行われる。フランクはコックピット左側面の下にあるボタンを押してエンジンを切り、ステアリングホイールとヘッドレストを外してからヘイローに手を掛けてコックピットから這い上がる。FIAガレージのウエイング・ステイションに行ってレース・オフィシャルに体重を測ってもらってから、グラヴと頭部及び頸部サポーター(正式名称HANS)を外し、ヘルメットと頭部を覆う防火性素材のバラクラバを脱ぐ。レース後はマシン重量とドライバーの体重を測定し、規定最低重量を下回っていないかが検査される。体重測定はレース後だけでなく予選その他の各走行後も健康管理目的で随時実施される。それからチームガレージでデブリーフ。続いてメディアとのインタビュー。またチームガレージに戻ってからエンジニア及びメカニックとのデブリーフ。それからホスピタリティ・ユニットに行ってシャワーを浴び、私服に着替える。通常であればそれからチームが主催するパーティーやディナー等が実施される場合もあるが、シンガポールGPはナイトレースなのでスケジュール終了時刻が午後十一時である。大概のレストランなんかは既にオーダーストップか閉店している。行くとすれば、バーかクラブだ。バーなんか行ったところでそれほど面白くもない。フランクはシンガポールで最大規模の人気クラブ〈ZOUK〉のVIPルームを予約していた。そうだ、今夜はダディも誘ってみようか。彼が父親にメールを送ると、快諾する返信が返ってきた。フランクはホスピタリティ・ユニットに訪れたガールフレンドのナタリーと父親のデイヴィッドと合流し、父親の側近的中年男性が運転する漆黒の高級SUV、アストンマーチンDBXに乗り込み夜の街に繰り出して行った。
SUVは〈ZOUK〉の正面玄関には向かわず、建物のサイドにあるVIP専用エンテランスに乗り付けた。エンテランスの前では、ユニフォームの黒い半袖ドレスシャツ、黒いズボン、スニーカー姿の男性スタッフが一行を歓迎し、内部の通路に案内した。一行はレッドカーペットの通路を通りVIP専用のエレベーターで二階に上がり吹き抜けのダンスフロアを取り囲む二階エリアの奥にあるVIPルームへと入る。VIPルームは専用のバーとDJブースを備えた二十人程を収容できる贅沢な空間だった。三人はテーブルを囲むソファに腰を下ろし、カクテルを注文する。スタッフがカクテルを運んで来ると、フランクに話し掛けた。
「今、ちょうどディプロがフロアでプレイしているんですが」
「ディプロ?」
「さっき、あなたが来ることを教えたら、是非ステージに連れて来てくれないかと頼まれたんですが、いかがいたしましょうか?」
「そいつはすごい。もちろん、行くよ」
フランクはVIPルームを出て、グランド・ステアケースを降りてメイン・ダンスフロアへ向かった。きらびやかなライティングとプロジェクションマッピングが織りなす派手な視覚的演出に伴って一流DJディプロによって原型をとどめないほどリミックスされたなんかの曲が流れる中、フランクはディプロがDJミキサーの前でプレイするステージへとスタッフに案内されて上がった。フランクとディプロはガッチリ握手すると、ディプロはマイクを手に取り群衆へと話しかけた。
「ヨー、みんな聞いてくれ、シンガポールGPが終わった後、F1ドライバーのフランク・シルバースタインが駆けつけてくれたぜ。最高だろ。彼からもみんなに言いたいことがあるみたいだ。聞いてくれ」ディプロはフランクにマイクを渡した。
「レディオ・チェック! オーケー、みんな今夜のレースでチームはいい結果を出せた。オーナーの父親も上機嫌でみんなにプレゼントがあるそうだ。これから一時間ドリンク飲み放題を父親が奢ってくれるそうだ。みんな楽しんでくれ。Put your hands up!」
群衆から感謝の大歓声が巻き起こる中、フランクはマイクをディプロに渡してステージから降りた。ところでこの一連のDJとレーサーによるマイクパフォーマンスは一般の群衆だけでなく、とある際立った人物の耳にも入ったという事実は付け加えなくてはいけないだろう。
フランクがVIPルームに戻ると例の側近的中年男性を含む数人の取り巻き連中が部屋に合流し音楽に合わせて踊ったりカクテルを飲んだりしていた。彼はバーに向かってジン・トニックを注文し、カクテルを受け取ると父親のいるテーブルに向かい隣に座る。父親に下の様子を尋ねられたフランクはさっきのディプロとの会合を説明した。ディプロ? 誰だそれ? そこから? ええっとね、ダァド、とにかく要するにスーパースターだよ。フォロワーが何百万人もいるような。ふうん、何百万。大したもんだな。もうこの歳になると、最近の音楽聞いても訳が分からないな。
「ダァド、じゃ、ちょっと踊ってくるよ。来いよ、ナタリー」
デイヴィッドはダンスフロアに向かう息子と交際相手を見送った。昔は踊りと言えば、きっちりとステップを覚えるものだったが、最近はギャングスタ・ラッパーの影響でただ頭を上下に振り、何らかの独創的な方法で両手もしくは片手を動かせばいいというお手軽な時代になった。マイケル・ジャクソンが懐かしいな。デイヴィッドがノスタルジアに浸りながらフランクの独創的な手の動きを眺めていた時、クラブの男性スタッフが一人近づいて来て彼に話し掛けた。
「お楽しみのところ失礼します。実は、とある人物から差し入れの申し出がございまして」
「誰からだ」
「ロシアの有名実業家のドミトリー・イワノフ様です」
ふうん、良く知らないけど、断ったら悪いだろ。
「じゃあ、持って来てくれ」
スタッフが合図を送ると部下と思われる別のスタッフが台車を押してアイスバケットに入ったワインボトルを持って来た。最初のスタッフが説明する。
「1999 Dom Perignon Rose Gold Methuselahでございます」
台車を押して来たスタッフがボトルの栓を抜き、テーブルに置いたグラスに器用に注ぐと、グラスをデイヴィッドの前に置いた。間違いなくこの店で一番高いシャンパンだろう。少なくとも一本一万USドル以上するはずだ。感銘を受けたデイヴィッドはスタッフに頼んだ。
「そのドミトリー何とかって人、是非呼んで来てくれないか? お礼を言っとかないと悪いだろ、こんないいシャンパン貰っといて、なあ」
「承知いたしました」
「おい、ロバート!」
デイヴィッドは例の側近的中年男性の名前を呼んだ。
「えーっと何だっけ?」デイヴィッドはスタッフを見た。
「ドミトリー・イワノフ」
「そう、それ、お前そいつ知ってるか?」
「もちろんです。若いロシアの実業家です」ロバートは携帯電話を取り出した。「Bing AIに詳しいことを説明させましょう」
マイクロソフトが運用するAI言語モデルの説明は以下のようなものだった。ドミトリー・イワノフはロシア人ビリオネア。彼はロシアのオリガルヒであった父親のセルゲイ・イワノフが設立したアルミニウム、建設、エネルギー、農業その他多岐に渡る複合企業体をセルゲイの死後、相続し引き継ぐ。父親のセルゲイと兄のアレクセイ・イワノフは2022年、彼らを乗せて大西洋上を飛行していたプライベートジェット機の墜落事故によって死亡。アレクセイはセルゲイから後継者と目され、実業界で既に成功を収め、セルゲイと多くの時間行動を共にしていた。事故の原因は現時点で解明されていない。セルゲイは生前ロシア大統領プーチンとの繋がり及びウクライナにおける戦争への関与からアメリカ合衆国およびその他の国々から制裁を科されていた。
「彼をこの部屋に呼んだのは早計だったかもしれません」ロバートは付け加えた。「彼も父親同様プーチン及び戦争支持者であった場合、我々のパブリックイメージを損ないかねません」
「……もう呼んじゃったものを追い返す訳にもいかんだろ。話せばいい奴かもしれないじゃないか」
「そう願います」
「よし、分かった。後は任せておけ」
「承知しました」
華やかな登場だった。VIPルームに入って来た溌剌とした青年はスリムな体形にフィットした白いスーツに白地に黒ラインのVANSのスニーカー、黄色いドレスシャツにグレーっぽいネクタイを限りなく緩く締め、グレーっぽいハットを目深に被っていた。彼の後ろからはシンガポール人と思われる女性二人が続き、ダンスフロアに進んだ青年はそこで音楽のビートに合わせて完璧なサークル・グライドを披露し、シンガポール人女性二人の喝采を浴びた。息子の独創的な手の動きに比べると遥かに本格的なムーヴにデイヴィッドは若干感心してそのサークル・グライドを眺めた。本格的なムーヴを終えてシンガポール人女性二人にハットを脱いで頭を下げてから、デイヴィッドのテーブルに向かった青年は手を差し出して執行会長に握手を求めた。
「お会い出来て光栄です。ドミトリー・イワノフと申します」
「こちらこそ」デイヴィッドは握手をしてから勧めた。「まあ、座ってくれよ。そちらのお嬢さん方も良かったら一緒に」
「ありがとうございます」
スタッフが来客らの前にシャンパングラスを人数分置いた。
「じゃ、乾杯しよっか」デイヴィッドがグラスを掲げた。「世界平和に乾杯」
「世界平和に」ドミトリーはシャンパンを飲んだ。「私の亡くなった父親については既にご存じのことかと思いますが、私は父親とは違います」
「プーチンと戦争を支持していたそうだな」
「確かに。ですが私はここではっきり宣言します。私は戦争に反対し、プーチンを非難します」
「その言葉を聞けて嬉しいよ」
「ところで」ロシア人は話題を変えた。「私はあなたのスタイルが好きです」
「スタイル?」カナダ人は続きを促した。
「二位では満足しない。一位以外は勝利ではない。常に頂点を目指すあなたのスタイルに私は深く感銘を受けました」
「いやいや、それほどでも。照れるな」
「私の父親は大のサッカーファンでプレミアリーグのチームオーナーでしたが、私はクルマにしか情熱を感じませんでした。ここでこうやって強豪F1チームのオーナーとお会い出来たことは至高の喜びです。いつかあなたのスイスの自宅にあるエレガントなヴィンテージ・フェラーリのコレクションとあの驚異的なラ・フェラーリを拝見出来れば幸せです」
「なんなら運転してもいいよ」
「どうでしょう。明日の夜、もっと静かな場所で夕食をご一緒させて頂きたいのですが、ご都合の方は?」
「全く問題ない」
翌日、デイヴィッド・シルバースタインが側近のロバートが運転する漆黒のSUVで向かった先はシンガポールを代表する高級ステーキハウス〈CUT by Wolfgang Puck〉だった。デイヴィッドがロバートと共にVIPルームに入ると、既に昨夜とは打って変わったシックなダークスーツ姿のドミトリー・イワノフが待っていた。席に案内されたデイヴィッドは若いロシア人に尋ねた。
「ここのお勧めは?」
「コウベから取り寄せた極上のワギュウがあります。この街で最高でしょう」
「じゃあ、それにしよう」
「まずは、ワインを」
ドミトリーがソムリエに合図すると、彼は白い布で覆われた台車の上に置かれたワインバスケットに入ったボトルのキャップシールをソムリエナイフで切って剥ぎ取りコルクスクリューをコルクの中心に差し込んでから抜き取った。一般に赤ワインはデキャンタ―に移してデキャンティングしてから飲んだ方が美味しいとされるが、ヴィンテージワインの場合は例外も多い。ソムリエは試飲してからデキャンティングは必要ないと判断し、テーブルの端に置いた三つのワイングラスにワインバスケットに入れたままワインを注ぐ。ドミトリーはそのグラスを一つ手に取って、デイヴィッドの前に置きながらそのワインを紹介した。
「ロマネコンティ、2015年です」
「ほお」
確かに素晴らしい年だが、最高ではない。ロマネコンティもピンキリでパナソニック製パソコン一台分くらいからランボルギーニ製スーパーカー二台分まで年によって価格にばらつきがある。2015年だとちょうど日産フェアレディZの新車一台分は下らないと見ていいだろう。売り手によっては二台分になるかもしれない。
「どうなんだ、最近のロシアは?」
「最高とは言えませんが、かなり持ち直しています。結局、戦争による損害とは軍需産業を中心とした需要の同義語ですから」
デイヴィッドは神戸牛を味わいながらワインを飲んだ。
「確かに。だが、ワグネルの反乱でプーチンの基盤もゆらいだんじゃないか、多少は」
「おっしゃる通り。結局、我々国民はプーチンの面子と失墜への恐怖からの行動に付き合わされているだけです。かつては彼も強いリーダーとして西側からさえも一種の崇拝の対象になっていましたが、今は、良く言って落ち目、はっきり言えば賞味期限切れです」
「あんたとは話が合いそうだな」デイヴィッドはドミトリーの要約に満足して言った。
「光栄です」
「ただ、あんたも口に気を付けないとプリゴジンみたいに地対空ミサイルで撃墜されるぞ」
「ちなみにプリゴジンの死因には諸説ございまして、彼のプライベートジェットに爆弾が仕掛けられたという説もあります」
「ふうん。それで、何が望みなんだ。ただ一緒にメシ食って世間話したかっただけじゃないだろう」
ドミトリーはその質問に完璧なミディアムレアに焼き上げたステーキを咀嚼し間を取ってから答えた。
「幸福の観点から言えば、あなたと会い、食事をするだけで、私はある程度の幸福を感じています。ただ、それは十分な幸福とは言えません。それ以上を求める強い願望があることを認めない訳にはいきません」
「何だ、その願望とは、言ってみろ」
「友情です。F1界の大物であるあなたとのより深い親交、それが私の願望です。その為に是非私の豊富なリソースを活用させて頂きたい」
すかさず側近のロバートが口を挟んだ。
「失礼ですが、イワノフ様。あなたは残念ながら、FIAによる制裁対象者に指定されております。スポンサー契約等は非常に困難な案件、いや、はっきり言って完全に不可能と言わざるを得ません」
「分かっています」イワノフは認めた。「百も承知です。ただ私は純粋にあなたに協力し、親しくなりたい、ただそれだけなんです。スポンサーとして名前を売りたい訳ではありません。協力するだけで満足なんです」
「ですが――」
執行会長が側近の言葉を身振りで制止する。
「イワノフさん。いや、ドミトリー、あんたの気持ちは良く分かったよ」彼は立ち上がって若いロシア人に手を差し出す。「あんたの協力は喜んで受け入れよう」
ドミトリーは立ち上がりその手を握った。青年の表情は喜びに満ち溢れていた。この時の彼こそ幸福そのものと言って良かった。デイヴィッドは若者の表情を見て満足げに頷いた。こいつと俺が組めば、輝きに満ちた素晴らしい展望が開けるに違いない。彼はこの時このように確信し、若者との固い握手に一抹の不安も覚えなかった。
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