『ジルトスタット―海塩神経都市―』 著:E・ファン・フリート
われらが祖国オランダにおいてziltpunk(塩パンク)なるSFのサブジャンルが興ってから10年が経ったとき、それは現実となった。オランダ全土が海に沈み、翌年の気候変動枠組み条約締約国会議にてオランダは、居住が決して不可能ではないが適さず、生産と消費の連続という都市機能を有さない区域である
いや、むしろ突き付けられたと言うべきだろう。これは我々の罪に下された罰なのだ。
「わたしは単なる水であると言えるし、想起しつつあるテクストであるとも言える。わたしはまさにいま記述されつつあるプログラムであり、それを実行するハードウェアそのものであり、いままで記述されてきたもののアーカイブでもある」とアムステルダムを5メートル沈めた「海」である語り部は語る。それは溶液中のイオン流動が無限に織り成すパターンによって形成された意識を有していた。意識の形成は、一人称的視点を外界に投影し、感覚的表象から抽出する機能を作る。こうして物語が紡がれる条件が整えられた。
面白いことに、SFは小説のパラダイムを次世代に向けて、そしてより大きいものへと再構築してくれる。というのも、物語が最も自由であるには作者との乖離が成し遂げられねばならない。それを解決する手段として語り部による「一人称視点」の手法である。これにより、物語はその世界に内包されるすべてを含めて作者から乖離し、自由を得ることができる。しかしながら、それはあくまで小説自身が物語の世界においても小説あるいは手記などの媒体として記されている必要性がある。でなければ、物語の最も優先される目的である「読まれる」ことすらできないからである。語り部の頭の中など、誰も窺い知ることができないのだから。
SFというジャンルはその内に秘めたるガジェットの自由性を利用して、上記の困難を解説してくれる。伊藤計劃の『ハーモニー』などが例としてあげられるだろう。これは主人公・霧慧トゥアンの経験や心情が彼女自身によって語られるが、彼女は日誌などに綴ることはない。しかし、それらすべてが彼女の身体の中に埋め込まれたナノマシンシステムにより表象から抽出されて紡がれる。斯くして、本来ならば外向形相化されるはずのなかった感覚的表象が強制的に抽出され、文学の発展に貢献した。今後も同じことが起こるのは必然だろう。文学の発展はSFというジャンルによって成し遂げられる。
「先ず明記しなければならないことだが、これは絶望の知らせなのである」とジルトスタットを名乗るその「海」は啖呵を切る。そこからは、ただただ人類に対する非難が続く。そしてジルトスタットはこう付け加える。「最後の審判のその時まで、あなたたちは罰を受けることも赦されることもない」ここから読み取れるジルトスタットの怒りからは、カルヴァン派の宗教指導者ジョナサン・エドワーズが想起される。
怒りもほどほどにして、ジルトスタットは意識を有することとなった経緯について語り始める。それの弁によれば、このように小説の体をとっているのは、裁判長が判決を人類に分かりやすく良い述べる役割であると同時に、終末まで残された限り少ない余暇の娯楽でもあるらしい。まるで神の手の上で転がされているようである。
読む限りにおいては、アムステルダムに残っていた1人の科学者――彼女の名前は明示されていない――が海に最初のニューロンの火花を点した事は間違いない。その科学者は多大なる労苦を人類社会のために負ったにもかかわらず、その職種特有の「社会的地位の流動性」の前に服すことになってしまった。
科学者がジルトスタットの神経潮流を成形した動機について明確に示されることはない。彼女が自分を粗末に扱った人類社会に対して憤怒していたのか、それとも環境破壊から目を逸らしていることに呆れていたのかに関しては判断がつかないということを「海」も認めているところである。しかしながら、いずれにせよ、「海」が人類に報復をもたらす動機としては十分であった。虐げられた科学者の復讐の代理としても、見過ごされてきた環境破壊の報復としても。
科学に対する責任の放棄、それが1つ目にして最大の罪状だ。科学者はもちろんながらも、人類社会に属する者は
この基本原則がかつてより、そして今なお無視し続けられていることを、わたしたちは知っている。国家政府は研究者の予算を簡単に切り捨て、誤った見解を声高らかに発信している。さらには教育そのものや教育機関、そして書物までも軽視されているのが、多くの国家の現状だ。
「“書物の破壊は、その価値の大小にかかわらず、禁じられるべき”」と作中の科学者は成長中の「海」に語りかける。科学者亡き後、ジルトスタットは自らが呑み込んだ――それはあくまで結果論ではあるものの――書物を、自分自身を記録媒体とすることによって守ろうと試みる。それがジルトスタットなりの責任の負い方だったのだろう。
「海」は自身の底に沈んでいる書物をサルベージしている最中に、科学者のセリフがコーネリアス・ウォルフォードの著した『火による図書館の破壊の歴史と実践』の序文に由来するのを発見するが、そこに実際に記載されていた文章との差異に困惑する。
図書館の破壊は規模のその大きさ、公立・私立にかかわらず、嘆かわしい出来事だ。
図書館と書物とではその存在性が全く異なってくる。大きかろうが小さかろうが、図書館の蔵書には書架に並べられるべき、ある程度の意味があるであろう。しかしながら書物というと、そこには単なる本だけでなく、社会的名声を持たない一般人の手紙や日記のようなものも含まれてくる。その一切の破壊が禁じられるべきという思想に否定はできないものの、やや強調され過ぎにも思える。
作中の科学者のセリフは無意識下での意味を有する「錯誤行為」あるいは、意識的に誤って引用をしたのだろう。それはきっとジルトスタットを困惑させる要因になる。もっとも彼女が、その後のジルトスタットの判決――「海」が人類に報復をもたらすのか、あるいは人類に改まる猶予を与えるのか――を予測していたかまでは、推測の域を出ないのだが。
人工知能が人類を地球にとって害悪だと判断して駆逐する、といったガジェットは何万回と使い回され、色褪せ、そのプロットはお粗末なものが多い。しかし『ジルトスタット――海塩神経都市――』は、それが本来持っていたはずの衝撃と力を復権に導いただけでなく、新たなものとして再構築することに成功した。この類の警告はSF作家の義務、とまでは言えないにしても、それに準ずほどの義務はあって然るべきだろう。
罪状の2つ目は、第1の罪状に依拠するものであり、同時に解決策である。それは人類社会における団結の欠落であった。最も顕著なのが、宗教・移民・人種・性別の差別だ。
宗教間/宗派間での揉め事はいずれの地域、いずれの時点においても珍しいことではない。オランダ史における最も早い段階における宗教同士の衝突は西暦700年ごろ、ローマ人によるキリスト教伝播であろう。たしかにこれは衝突やいくつかの暗殺があったが、次のものに比べればむしろ温和な方であり、決定的な争いはカトリックによるカルヴァン派をはじめとした諸新興宗派の弾圧であった。
もちろんジルトスタットは、現在が過去の過ちと成功の上で成り立っていることを理解している。たしかにカトリックとプロテスタントの軋轢が無ければ、プロテスタントたちの強固な団結もなかったかもしれない。異端者の火刑や聖像破壊が無ければ、ネーデルラント17州の独立は違った形になっていたかもしれない。しかし、それとこれとでは話が違うと断言する。原子力兵器の使用と被害が無ければ核兵器廃止も問われることが無かったという言論と同じく、まったくのお門違いなのだ。
結局、彼らは団結することができたにせよ、20年代後半まで移民や一部の宗教信者への迫害が多発していた。オランダに限らず、同じようなことは世界各地で起こっていたし、今では日本など元より排外主義的な姿勢の国家でオランダ移民が難民と認定されず、数年以上も収容されている状態が続いている。環境崩壊という地球全体で取り組むべき問題を前にして、人々はいがみ合い憎み合い、差別と犯罪とが横行している。貧富の差も埋まることがない。
3つ目の罪状は以上2つの結果によってもたらされた。オランダという国家そして文化の喪失だ。以上の二つは今後解決できるとしても、これは取り戻すことができない。
その地は、科学技術の発展と共同体団結の結晶だった。しかし、いくつもの過ちの結果として海に沈み、ただ海面から突き出た建築物だけが墓石のように並んでいる。水や風による浸食を防ぐためだったインクは街に色を与えて、バロック、ロココあるいはポルデル・ゴティック、様々な建築様式の屋根や装飾がノスタルジックな雰囲気を醸し出す。
これは塩パンクの特質でもあった。塩パンクというジャンルが生まれると、すぐさまその話題はSF界に広がり、多くの著者が正統的な塩パンクを書いてきた中、さらに多くの著者によってエセ塩パンクSFが書かれ、あるい既存の作品を掘り出しては「これは塩パンクだ」「あれも塩パンクに違いない」と無意味にもてはやされた。
その舞台はニューヨークであったり東京であったりと、高層ビルを抱える都市が海に沈むという、単なる災害SFの域を超えない代物だった。これにより、現在ではオランダ塩パンク(正統派塩パンク)と非オランダ塩パンク(エセ塩パンク)という風に区別されているほどだ。しかしながら、塩パンクがオランダの地理的環境と市民の生活や文化、歴史を交えて紡がれたことに端を発する以上、そうであるべきなのである。
開拓によって発展したオランダだが、自然を軽視してきたわけではなかった。開拓・都市拡張の過程で彼らは森林や湿地の保全を行ってきた。20世紀の急速な都市拡張によって、一時的に国土の自然面積が半減することもあったものの、1980年以降は自然に対する意識が盛り上がり、いくつかの政策や国家プロジェクトが立てられた。これらは概ね成功したようにも思われたものの、批判の対象が無かったわけでもなかった。とはいうものの、オランダによる持続可能な社会・国土・都市の追求は、今日の多くの都市・地方を見る限りでは多いに評価すべきであるように思われた。しかし2020年代前半以降、状況が急変した。感染症拡大による大不況が起こり、新政権は自然保全のために二度にわたる増税を行い、外資を誘致、土地は売却された。結局、過ちが繰り返されたわけだ。
斯くして判決が下される。「これは、あなた方に向けた絶望の知らせなのである」とジルトスタットは語り、沈黙が訪れる。この物語で語られることは無いにしても、人類が静謐のうちに滅んだのは明らかだ。ジルトスタットによる発言は物語世界の人々に向けられたものだが、同時にわたしたちにも向けられたものだと感じることができる。わたしたちは共に読者であり、科学への責任を放棄し、団結を忘れてきたからだ。
いくら後悔したところで、わたしたちはもうオランダの地に足をつけることはできない。教会の鐘の音を聴くことも、自転車に乗って祖国の風を感じることも。今もなお、二酸化炭素総排出量は増加し、海面上昇は止まるところを知らない。このまま、我々の怠慢と無関心が続けば、彼らと同じ、あるいはもっと凄惨な崩壊を見ることになるのは言うまでもない。
すでに過去の過ちはすべて述べられた。ならば、そこには現状を打破し、未来へとつながる糸口が見つかるはずだ。わたしたちはまだ、失ってはならないものを多く抱えている。
「オランダ中の教会の身廊が沈んだとき――」と著者ファン・フリート氏は環境問題に取り組むSF集会のスピーチで語った。「わたしはまだ15歳でした。正直に言うと、それまでわたしは気候変動に関心を持っていませんでした。恥ずかしい限りです。2年間、オランダ歴史と文化、気候変動に対する人類社会の歩みなどを学び、アムステルダムへ帰るチャンスを得ました。もちろん、それは違法な手段でしたが。ボートを漕ぎながら――そこはかつて旧道路でした――もっと早くから地球温暖化に関心を持っていればと後悔しました。そのとき、浸水した古書店の前を通りかかり、もしかしたら秘めたる財産がこの古書店の中で誰にも知られることなく沈んで朽ちているのかもしれないという考えに襲われました。市立の図書館や大学付属の図書館などの“価値ある”蔵書はサルベージ計画によって回収されていましたが、小さな図書館、本屋や個人的な蔵書などは対象外だったからです。そこでわたしは、小説を書こうと思いました。この小説は、遅すぎた絶望の知らせであり、朽ちて亡霊となった本たちの叫び声なのです。わたしたちはもう、オランダも、あの古書店の本も取り戻すことはできません。その原因はわれわれの怠慢と無関心にあるのです」
アルベルト・ダルファー
地獄より愛を込めて、あまねく物語に捧ぐ 竜胆いふ @Rindo_the_Fear
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