第二十話 二人の距離
「これは?」
唐突の行動に驚きながら、フレイは巾着の中を確認した。青の眼が僅かに見開れる。
いくつ硬貨が入っていたか、ナズナは覚えてなかったが、それなりの額は用意したつもりだ。それでも報酬として足りているかわからなかったため、ドキドキしながらフレイの反応を待つ。
やがてフレイは、ナズナの心配をよそに、巾着袋を閉じるとぐいと押し返してきた。
「要らないよ。ルナブルームは俺が勝手に買ってきたものだ」
「え……? あっ、違います! これはルナブルームの代金じゃなくて……報酬です」
「報酬? なんの?」
「依頼です。探偵さんの」
フレイは不思議そうに目を瞬かせた。そのまま思案したかと思うと、やがて合点が言ったようにああ、と声を漏らす。報酬をもらっていなかったことに気づいたらしい。けれど、だからと言って巾着袋を受け取ることはなかった。またナズナの手に戻してしまう。
「えぇ!? なんで戻すんですか、受け取ってください!」
「なおさら受け取れないよ。それこそ俺が勝手に引き受けた仕事だ。報酬なんて、考えてなかった」
「で、でも……お金がないと、依頼はいつか終わっちゃうんですよね?」
ネージュが言っていた。金が払えないと、メイドや使用人は出ていくと。
フレイも、ナズナが報酬を渡さなければ、いずれ来なくなってしまう――ナズナは不安げにフレイを見上げた。
「わたし、依頼終わってほしくない。だから……だから」
借りてまで、用意したのだ。受け取ってもらえなければ、これ以外に何をしたらいいのかわからない。
それにナズナは、いつもフレイには貰ってばかりだった。お菓子も、ルナブルームも。なにも返せないことは、できないことは、歯がゆくて仕方がない。
捧げるように巾着袋を掲げながら、ナズナは潤んだ瞳でじっとフレイを見つめた。
「お願いです、フレイさん!」
「う……」
その視線に、フレイは困ったように視線を泳がせて……やがて根負けしたのか、巾着袋を持ち上げてくれた。
「……わかった。ありがたく頂戴するよ」
「……! ありがとうございます!」
「けど、本当に少しでいいんだ。これくらいで」
しかし彼が取り出したのは、銀貨二枚だった。「ええ!?」とナズナは再び声を上げる。
「少なすぎます! せめて十枚!」
「十枚は多すぎるよ。……じゃあ三枚」
「いやいや少ないですって! 八枚でどうでしょう!?」
「おかしくないかな。どうして払う方の君が値段を上げるんだ……五枚にしておくよ」
「うう……仕方ないですね。じゃあ五枚で譲りましょう!」
「誰の真似なんだ」
フレイが突っ込む。けれど律義に五枚貰ってくれた。ナズナはにっこりと微笑む。
「わたしの気持ちです。依頼、続けてくださいね?」
「もともと続ける気だったよ。会いに来るだけなのに、これだけもらったらいつ終わりになるのやら。確かに探偵への依頼は高いけど……最近大量の報酬をもらったから、お金に困ってはないんだよ」
「大量の報酬? 依頼でですか?」
「ああ。思ったよりも大変な依頼で、まだいい報告はできてないんだけどね」
「どんな依頼なんですか?」
興味に持ち、ナズナは聞いてみた。もしも手伝えることがあるならと。いつもの癖だ。
しかしフレイは開きかけた口を、迷った末に閉じてしまう。手にした銀貨をバッグにしまい、彼は首を横に振った。
「他の依頼については、個人情報だから教えることはできない」
「あ……」
先ほどとは打って変わって、フレイの声は固かった。驚いて、ナズナは口を噤む。少しだけ、ショックのようなものを受けた。
けれど、ナズナも馬鹿ではない。すぐに彼は探偵という仕事を大切にしているのだと理解する。
クレイス家の仕事も、容易に他者に話せるものではなかった。仕事というのは、そういうものなのだろう。
けれど……無意識にナズナは、フレイがなんでも話してくれるとばかりに思っていた。優しくて、ナズナのためにお菓子や花を持ってきてくれるから。外の話を聞かせてくれるから、仕事の話もしてくれるとものだと、思っていた。
それはナズナの勝手な期待だ。それでも胸は痛みを訴える。
思わず自嘲した。
「……そっか」
二人の間にはまだ距離があった。
探偵と依頼人。その距離の埋め方はわからないし、埋める勇気もナズナにはない。
だから、ナズナは一歩足を引く。
抱いたルナブルームが儚げに揺れた。
変な空気になってしまい、二人は沈黙する。
ややあって、その空気を振り切るようにフレイが歩き出した。その足は、廊下に続く扉の方へと向けられていた。
何となくついていきながら、ナズナは彼の後ろ髪を見上げる。
「どこに行くんですか?」
「……散歩に」
「散歩?」
出て来た単語に首を傾げた。この場にふさわしくない答えだ。しかもそれは前にも使っていた言い訳であり――行動は不自然なほど唐突だった。
「フレイさん?」
踏み込まないようにしながらも、ナズナは彼の言葉の真意を探ろうとする。しかしフレイはナズナから視線を逸らしていて、その表情は窺い知ることができない。
そのまま彼は廊下へと続く扉を開くと、一度だけ振り返り、言った。
「君はついてこなくても大丈夫だよ」
「え」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
遅れて、彼がこれ以上ついてくるなと言っていることに気が付く。
ショックがもう一つ重なった。
ナズナは思わずどうして、と訊ねた。どこに行くんですか、と口をついて出る。怒らせてしまったかと不安になった。
けれど彼は、その質問にも答えなかった。先ほどまで柔らかかった瞳が、いつの間にか冷たい光を帯びているように感じられた。その理由は、わからない。
わからないけれど、嫌だと思った。行ってほしくない。そんな目をしないでほしい。
だが、同時に疑問が生まれる。
彼は何故、外ではなく廊下に出ようとしているのだろう。まさかエントランスから帰るわけではないと思われたが……別の目的が?
考えて、ナズナはハッとフレイに詰め寄った。
「もしかして、洋館内を調査とか、ですか?」
「……散歩だって」
「領主の家を散歩する人なんていませんよ。さっき言ってた、探偵の仕事と関係してるんですか?」
教えられないと言われたにもかかわらず、ナズナは質問を重ねた。
フレイは無言を貫く。彼はナズナを拒絶していた。
それでも、ナズナは引き下がれなかった。
「ごめんなさい。答えられなかったら、言わなくても大丈夫です。でも……この中を歩くのはやめた方がいいです。もしも見つかったら……」
見つかったら、フレイは捕まってしまう。不法侵入し、『月の子』と出会っている状況を、クレイス家が許してくれるはずがない。
「問題ないよ。こういうのは慣れてる」
しかしフレイは、驚くほど迷いのない目をしていた。まるでそれが――ここに侵入すること自体が目的だったかのように、何かをしようとしている。それが何かはやはり教えてくれないのだが……ナズナは一つ、気づいたことがあった。
「……フレイさん。もしかして、わたしに会いに来たのはついで?」
「……まあ、今日はこっちがメインではあるかな」
間を置き、そう返事したフレイは目を合わせることなく。もうナズナへの用は終えたとばかりに、そそくさと廊下へ出ていってしまった。
「……む」
バタン、と無情にも硬い音を立てて閉められた扉は、来るなと言っているようだった。その感覚は、前にも味わったことがあった。
「……むむむ」
あの時は、動くことができなかった。この扉を開けられず、部屋に戻るしかなかった。それが、自分のするべきことだったから。
けれど……何故だろう。今回ばかりはなんだか無性に悔しくなった。
「わたしが、ついで……?」
言葉にすると、それはさらに膨らむ。
怒りのような気持ちが湧きだし、臆していた気持ちがどこかに行った。
早くフレイにとって“メイン”となってしまっている依頼を片付けなければならない。唐突に、ナズナはそんな使命感に駆られた。
二人の間には距離があった。閉められた扉は拒絶を意味していた。
しかしそれがなんだ――ナズナの胸に闘志の火が灯る。
キッと、扉の向こう、消えていったフレイを見据えると、ナズナは強くドアノブを握しめた。
(わたしだって)
深呼吸一つ。扉を開け放ち、廊下へと足を踏み出す。叩き付けられた拒絶を、跳ね返さんとするかのように。
突き動かされたその行動に、『月の子』と言う縛りは存在していなかった。
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