第三十五話 風魔法の助け


「ナズナ、さん……?」


 膝をつき、細く白い手を伸ばす少女は、見間違いではなかった。黒いフードを被ったナズナが、顔を青くしてフレイの名を呼んでいた。

 目が合うと、桃色の瞳は涙の膜を張った。二度瞬きを見せ、目元にぐっと力を入れる彼女の姿は、幻覚ではない。


(なんで、こんなところに……)


 いつも会いに行っていた彼女が今、自分の目の前に現れた。そのことにフレイは驚きを隠せず、一瞬脇腹の痛みを忘れた。

 君は洋館で、待っているはずじゃ……。呟いたはずの言葉はしかし、声にならずに消えていく。身体を持ち上げようとした腕にも力が入らず、フレイは次第に身体から熱が抜けていくのを感じ取った。


(まずい)


 急激に冷やされるようなその感覚に、慌てて息を吸った。肺を動かすと、思い出したかのように傷に痛みが走った。朦朧としていた意識が引き戻される。


「ぐ……っ」

「フレイさん動いちゃだめです!」

「っ……回復の、魔法を……」


 ナズナの言葉を無視し、フレイは杖の先端を止血しているバッグと傷口の間に差し込んだ。距離感がつかめず、杖は強く傷に突き刺さってしまったが、麻痺した脳にこれ以上の痛みは伝わってこなかった。その状態でフレイは詠唱をする。


「疲れた、ときは……ミルクチョコレート、かな……」


 それは治癒魔法、のはずだった。しかし、一向に杖からは魔法が放たれない。顔を顰め、フレイは息を吐きだした。

 魔力が尽きかけている。攻撃魔法に使いすぎた。


「ナズナさん……バッグ、から、薬箱を……」


 止血しているバッグを示す。

 ナズナは青ざめた顔のまま、言われた通りにバッグを開けて震える手を突っ込んだ。傷を刺激しないよう慎重に中を覗き込み、片手で持てるくらいの大きさの木箱を取り出す。

 これですか、と箱を見せる彼女に頷きを返し、フレイはそれを開けるように言った。


「中の薬を一粒、俺の、口に……」


 ナズナはすぐさま、それをフレイの口に放り込んでくれた。水なしで、フレイは薬を飲み込む。喉を伝い、胃へと運び込まれた粒は、即座に効果を発揮する。

 乾いた泉が潤うように、魔力が湧き出てきた。溶けた薬はフレイの体中に魔力を浸透させていく。

 魔力薬だ。いつかナズナが「ニワトコ」という魔法を使ってくれたように、その薬は底を尽きたフレイの魔力を一瞬で回復させた。

 改めて、フレイは魔法を使う。


「疲れたときは、ミルクチョコレートかな」

「アキレア!」


 ナズナの魔法が重なる。その花の名の通り、手から小花のような形の光を放ったナズナは、その光でフレイの傷を包み込んだ。彼女の治癒魔法のようだった。

 二つの魔法が合わさり、フレイの傷口は徐々に癒えていく。それを見ながら、アキレアの花言葉は治癒だったな、なんて考える。

 完全に傷が塞がると、痛みもなくなった。流れ出た血はそのままのため、バッグや衣服は赤く染まってしまったが、フレイは立ち上がれるまでに回復した。まだ痺れの残る手を軽く握って、杖を持ち直す。


「ありがとう、ナズナさん。君は危険だからここにいて」

「ふ、フレイさん! そんな、今治ったばかりなんですから、座っててください!」

「もう大丈夫だよ」


 今の今死にかけていたことを完全に放棄して、フレイは研究所内を見渡した。

 高い天井付近で、羽を広げたリリーと、ルナールをの箒を借りたネージュが、その箒の上でカロットを振りながら戦っていた。フォルクスは下で、這い寄って来る他の魔物を吹き飛ばしている。その魔力は鋭く、凄まじい。すでに何体かは灰と化していた。フレイは焦る。


(このままじゃリリーちゃんも殺される。ほかの人たちも助けたいけど、ひとまずはリリーちゃんを)


 しかし、どうやってあんな高い位置まで飛ぼう。フレイは飛行魔法が使えない。使えたとしても、乱闘を繰り広げる二人の間に割って入っていけるかどうか――


「いや、やるしかない」

「フレイさん、何をするつもりですか」


 ナズナがフレイの腕を引いた。そちらを見ると、桃の瞳が真っ直ぐフレイを見つめていた。

 まだ顔は青ざめていたが、その表情は引き締まり、凛としていた。どこか、洋館にいた時とは雰囲気が違って見えた。

 強い意志を持って、ナズナは言う。


「わたしにも手伝わせてください。そのために、ここに来ました」


 あなたを、助けに。

 フレイの行動を止めずに、彼女はそう伝えた。力になりたいと。今度はわたしが、あなたの力になりたい。

 空気さえも変えるようなその声音にフレイを息を呑み。同時に、ここでフレイが彼女を危険だと止めるのは、野暮だと思った。

 ならば。


「わかった。手を貸してくれ」

「もちろん。何をすればいいですか?」

「風魔法を使えるかな。突風のような。それで、俺を飛ばしてほしい。あの魔物――いや、リリーちゃんの元へ」


 ナズナが天井を見上げる。視線の先では、魔物の炎とネージュの炎がぶつかり合っている。

 リリーちゃん――そう呟いたナズナは、宙を飛ぶ魔物がフレイの探す子供だとわかったようだ。彼女は賢かった。


「わかりました。竜巻の魔法は習ったばかりなんです。でも、もう怪我はしないでください」

「最善は尽くすよ」


 血に濡れたショルダーバッグを壁際に滑らせ、フレイはリリーを見据えた。

 瘴気を纏ったリリーは、あれほどの魔力を発しているにもかかわらず、疲れは一切見せていなかった。羽を素早く振り、風を起こし、そこに吐き出した炎を乗せている。

 一方ネージュはと言うと、魔物のようにはいかない。いかに彼が優れた魔法の使い手でも、体力と魔力には限界がある。いまだ瞳は憎しみの籠った鋭い光を宿してはいるが、その肩は大きく上下していた。

 そんな彼らの、激しいぶつかり合いが止まる一瞬の隙を探して――


「今だ!!」


 フレイは叫ぶ。


「アネモネ!」


 ナズナの魔法がフレイの背中を押した。

 まるで風の精霊が持ち上げてくれているかのように、彼女の魔法はフレイを天井へと上昇させた。柔らかな風がフレイを包み込み、リリーのところまでその身体を飛ばす。


(行けっ……!)


 フレイは風が苦手だ。信用していない。だから風の力を借りる飛行魔法は未だに使いこなせないし、風魔法も得意ではない。

 でも今、この瞬間だけ。ナズナの風を頼り、彼女の風を信じた。

 ものすごい勢いでリリーに迫る。

 弾丸のようにネージュの脇を通り過ぎると、フレイはそのままリリーに覆い被さった。


 ――シャアアアアアアアッ!


「フレイ!?」


 ネージュが目を剥く。

 フレイに飛び掛かられたリリーは、バランスを崩して奥の壁に衝突した。金切声を上げ、フレイを乗せたまま落下していく。慌てたネージュが箒で助けに行く前に、フォルクスが詠唱をした。


「風よ、包み込め――ウィンド防御クッション!」


 フォルクスの魔法が落下の衝撃を受け止める。地面ぎりぎりで停止したリリーは、ゆっくりと地面に横たわった。

 共に降り立ちながら、フレイはほっと息を吐いた。が、リリーからはまだ戦意は失われていなかった。

 再び声を上げ、羽ばたこうとする彼女に、フレイは慌てて馬乗りになった。黒く染まった両肩を抑える。


「リリーちゃん、落ち着いて! 君はもう、何も攻撃しなくていいんだ!」

「フレイ何をしているんだ! そいつは魔物だ、早く離れろ!」

「駄目だ! この子は魔法使いの女の子なんだ! 絶対に殺しちゃ駄目だ!」

「な……!」


 フレイを止めようとしたネージュが絶句する。それは魔物の正体に対してか、それともフレイの曲げられない意思に対してか。どちらにせよ、今のフレイにはネージュに説明している余裕はない。暴れるリリーを何とか抑えながら、声を上げる。


「それよりアルバを! アルバを止めてくれ!」

「アルバ!? 誰だそれは!」

「この子を魔物にした奴だ! アウローラの民って言ってた!」

「なに!?」


 ネージュが素早く研究室に目を走らせる。同じようにフォルクスとルナールも振り返り、ナズナもアルバ、と呼ばれる人物を探した。けれど彼女の姿はどこにもない。フレイはぎり、と奥歯を噛み締める。


(いない、逃げたのか? クレイス家が来たから?)


 不意にナズナが指をさす。


「あっち! ネジェ! あっちに赤い魔力が……太陽の魔力が見える!」

「そこか!」


 ナズナが示したのは、ネージュたちが入って来た通路だった。逃がすか、とネージュがそちらへと箒を飛ばしていく。続くようにして走り出したのはルナールだ。


「フォル、私はネージュを追います。ここは任せますよ、くれぐれも無理はなさらないように」

「ああ、ルナールも死ぬなよ」

「当たり前です。っと、ネージュ! 私の箒を返しなさい!」


 頷いてから、ルナールは貸していた箒を使って飛んで行ってしまったネージュを追いかけて行った。

 二人、研究室から離脱する。すると、二人を追いかけようとする影と、フレイたちに向かってくる影が現れた。

 今までフォルクスが魔法で壁際へと追いやっていた他の魔物――否、リリーが魔物にしてしまった魔法使いたちだった。

 リリーを助けようとしてか、それとも単にこちらを襲うためか。瘴気を纏った彼らの瞳がギラリと光る。

 その瞳をゆっくりと見渡して。フォルクスが一つ息を吐いた。


「ひとまず、邪魔者を排除するか」


 透明な魔力を宿した杖が、横に大きく薙がれる。


「凍てつく氷よ、かの者らを拘束せよ――アイス監獄プリズン

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