第三十六話 花言葉は、幸福を掴む

 フォルクスの杖から放たれた氷魔法は、周りを囲まんとする魔物へ一斉に飛んでいき、瞬時にその黒い影を氷漬けにした。

 一瞬の出来事に、ナズナは動くことすらできなかった。


「す、すごい……」


 フォルクスは病弱ゆえ、あまり上級魔法は使わない。が、放たれた魔法はネージュよりも威力が高く、精巧だった。改めて、彼は強い魔法使いなのだと実感する。

 そんなフォルクスの魔法は周りの魔物のみならず、フレイが覆い被さっていた少女の魔物も拘束していた。

 羽を凍らされた魔物は、苦し気に呻いている。だが先ほどのように激しく暴れることはできなくなり、今は荒い息を吐き出して乗りかかるフレイを睨みつけていた。

 フレイはその魔物――否、少女の姿に眉を歪ませ、頬に手を添えた。話しかけるように、優しい声を漏らす。


「リリーちゃん、俺がわかる? 君はここにいるんだろ?」


 願うような声音だった。見ているナズナの胸もぎゅっと締め付けられるほどの、切実な思いが伝わって来る。

 フレイは黒い影の奥から、リリーという幼い少女を見つけようとしていた。彼女を取り戻そうとしていた。

 けれど、横たわったリリーは、どうしてか徐々に身体から力を抜き始めていた。フレイの言葉が届き、意識を取り戻した、わけではなさそうだ。その魔力が失われようとしているのが、ナズナには見えた。力を使い果たしてしまったのか、彼女からたくさんの魔力が零れ出している。

 それはフレイも感じ取ったのだろう。彼は目を見張ると、バッと立ち上がった。振り返り、走り出す。壁へと走った彼はそこに置いていたショルダーバッグを持ってきたかと思うと、中から木箱を取り出した。先ほどナズナが取り出したものと同じ木箱だ。中には白い粒――魔力薬が入っている。


「リリーちゃんこれを、これを飲んで」


 声を震わせ、フレイがリリーの口に魔法薬を滑り込ませる。薬を飲み込んでくれたのか、喉が上下する。祈るようにナズナは両手を合わせた。


(お願い、リリーちゃん。フレイさんに応えてあげて……)


 その願いが、フレイの想いが伝わったのだろうか。


「っ……あ……」


 魔物化したリリーの黒い唇から、音が漏れた。先ほどから発せられていた唸り声とは異なる、人の声。目を見開き、フレイがリリーの口元に耳を当てる。ナズナも近寄り、耳を澄ませた。


「ふ、フレ、おに、ちゃ……」

「リリーちゃん!」


 言葉が、紡がれた。彼女の口から。

 赤くなってしまった瞳が、意識を宿す。フレイを映し、お兄ちゃん、と呼びかける。

 強く首を縦にし、もう人の形を保ってはいない彼女の手を強く握って、フレイはゆっくりと声を落とした。


「リリーちゃん、もう大丈夫だよ。絶対に君を助けるからね」


 しかし、意識を取り戻したリリーは、その声を聞くと悲しそうに顔を歪めた。


「……ごめ、なさい」


 零れ出たのは、謝罪の言葉。


「リリーちゃん?」

「リリー、おにいちゃ、に、怪我させちゃった……村とか、教会、壊したのも、リリー、なの……っ」


 まるで今まで言えなかったことを、してきたことを懺悔するかのように、そして最後の声を振り絞るかのように、リリーは謝罪を口にした。魔法使いと魔物の狭間で、赤い眼に涙を浮かべ、ごめんなさいと零す。ナズナの胸に熱いものが込み上げた。

 フレイも同じだったのだろう。


「そんなの、リリーちゃんのせいじゃない!」


 彼は強く否定した。


「リリーちゃんのせいじゃないよ。だから、謝らないで」

「でも……リリー、まものに、なって……また、みんな壊しちゃう……!」

「そんなことさせない! 治すから、俺が君を助けるから! だからもう、心配しないで」 


 安心させるように、フレイはリリーの髪を撫でた。もう何も考えなくていいんだと、必死になってリリーに伝える。そこには、リリーを思いやる以上の、贖罪にも似た感情が込められているかのようだった。


「フレイさん……」


 ナズナは、フレイと並ぶように隣に膝をついた。


「リリーちゃん、安心していいよ。フレイさんは探偵なんだから。絶対に、リリーちゃんを助けてくれる」

「……ほんと? もう、だれも、怪我しない……?」

「うんっ。しないし、させない。わたしも他のみんなも、協力するから」

「っ……そ、っか……よかった……」


 言葉を重ねると、リリーはようやく安心したように口元に笑みを灯した。フレイの手に頬をすり寄せ、身を委ねる。


「あり、がと……」


 礼を口にし、リリーは瞳を閉じた。閉じて、息を吐いて――途端、顔を覆っている黒い皮膚が灰色になり、ぽろぽろと剥がれ始めた。

 それは、まるで崩れ落ちるかのようだった。身体が、壊れていくようにも見えて。

 はっとナズナは息を吸った。


「だめ……フレイさん、リリーちゃんの魔力が!」

「え……? リリーちゃん? リリーちゃんしっかり!」


 ――リリーは、命を手放そうとしていた。

 慌ててフレイがリリーを揺する。そうするとリリーは瞼を開いた。虚ろになりゆく瞳で、フレイに、大丈夫だよという視線を向ける。しかしそれに反して、彼女からは生気が抜けていく――


「どうして……」


 ナズナは思わず垂れ下がった小さな右手を握った。瞬間、ものすごい熱さがナズナの皮膚を焼いたが、構わずナズナは彼女の手を両手で包み込んだ。そして、心を震わせた。

 それはまごうことなき、幼き少女の手と腕だった。折れそうなほど細い腕は、ちゃんと食事をしていないことが見て取れる。

 このくらいの年の子は、ちゃんと食べなくちゃ。ナズナのように、好きなものを食べないと――そう思った。


「リリーちゃん、寝ちゃだめだよ。生きて、帰ろう? 帰ってご飯食べよう? そうだ、フレイさんのお菓子を食べようよ。フレイさんのお菓子はね、ほっぺたが落ちるくらい美味しいんだよ!」


 すると、リリーの顔がナズナの方に傾いた。赤い瞳がナズナを映す。大きな瞳はもともと何色だったのかナズナにはわからなかったが、子どもらしい、純粋な色をしていると感じた。


「おかし……たべ、たい」

「うん、うんっ! 食べよう、絶対だよ!」

「うん……」


 頷いているのに、また彼女は目を閉じる。魔力を放出させる。それは彼女自身が、これ以上人を傷つけないように、わざと力を手放しているようにも感じられた。

 魔法使いは魔力を完全に失うと、死ぬ。人間は身体が残るが、魔法使いはその身体が残らない。魔力の粒子となって、光の粒となって、空高く昇っていく。空へ、月へと返るかのように。後に残るのは、透明な色をしたガラス石。それが、魔法使いの骨だった。身体を崩していく彼女は、そこに向かっているように見えた。

 ただ一つ違うのは、彼女の身体は魔物だということ。魔物は、灰となって消えてしまう。空へも上れず、塵となって消滅する。


(だめ。そんなのは、絶対にだめ!)


 しかし、一体どうしたらいいのだろう。焦るナズナの隣で、フレイも顔を歪めて、もう一粒魔力薬を取り出そうとした。

 それを止めたのはフォルクスだった。


「フレイ、それ以上はやめろ。しても無駄だ」

「うるさいっ!」


 叫んだ拍子に薬が落ちた。

 けれどフレイはそれを拾うことはせず、悔し気に息を吐き、リリーの胸に顔を埋めた。

 きっと、フレイもわかっている。今の行為に意味がないことを。だってリリーは、魔力を欲していないのだから。人と魔法使いを焼いてしまう魔力を手放そうとしているのだから。

 なら、彼女の持つ太陽の魔力を消し去り、助け出すにはどうしたらいい?


(どう、したら……)


 魔物は元には戻らない。以前言われたレイシスの言葉を思い出して、視界が滲む。

 諦めるしか、ないの――?

 そう、声を詰まらせ、涙を一粒零してしまったときだった。

 不意に、リリーの手が持ち上げられた。ナズナが握っていた手が、ナズナの頭まで持ち上げられる。そこで気づいた。彼女の手には、赤い花が握られていた。

 戦闘で振り回されたその花はぐったりとしてしまっていたが、何の花かはすぐにわかった。ペチュニア。花言葉は、心の安らぎ。

 リリーの目が、うっすらと開かれる。


「おね、さんも、おはな、すき……?」


 尋ねられたその言葉は、小さな子が、純粋に疑問を口にしているかのようで。

 涙に濡れる声で、ナズナは答えた。


「うん……っ。好き、だよっ」

「リリーも、すき……もらったの」


 フレイお兄ちゃんから。そう言うリリーの瞳はペチュニアと、それからナズナが髪に指していた青い花を映していた。

 ハッとしてナズナはヘアピンを――アストランティア・ルナブルームを手に取った。こんな場所でもキラキラと光を放つ花は、諦めるなと、そう言っているようだった。これをくれた、フレイのように――


(――ああ、そうだ)


 呟く――そうだ、諦めてはいけない。諦めないために、わたしはここに来たんじゃないか。

 涙を拭って、ナズナはルナブルームをリリーに見せた。


「わたしもね、もらったの。大事な大事な花なの。これはね、わたしに大切なことを教えてくれたんだよ」


 フレイが顔を上げる。ルナブルームとよりも薄い色をした瞳が、ナズナを映す。その瞳を強く見据えて、ナズナは言葉を紡ぐ。


「花言葉は『星に願いを』『勇気』、そして『幸福を掴む』。幸福を諦めちゃだめです」


 ナズナはフレイの手を取って。その手と一緒に、幸福を届けるように、リリーの髪にルナブルームを差し込んだ。髪は辛うじて赤を残しており、その赤にルナブルームの青はよく映えた。きっと元の姿に戻ったら、とても、可愛いだろう。

 ナズナは深呼吸をして、一度、フォルクスを振り仰いだ。


「フォル様」


 フォルクスは、ナズナが何をするのかわかっているようだった。いいのだな、とその目が言っている。

 いいんです――ナズナは答える。だって、目の前の人を助けたいから。フレイを笑顔にしたいから。

 『月の子』として生きると決めた。そのときから覚悟はしていた。だからこれはきっと、ナズナがすべきこと。

 たとえこれでフレイと会えなくなったとしても、ナズナは絶対に、この選択を後悔はしない。


(それに最後に見てもらうわたしは、かっこいい方がいいから)


 部屋で不安げにしている自分じゃなくて、何かを求めて足掻いている自分じゃなくて。

 前を見据えて自信をもって、自分の力を誰かのために役立てる、そんなわたしを見てほしい。

 彼の、綺麗で透明な青の瞳にナズナの姿を焼き付けて、記憶に残ってくれたのなら、それでいいのだ。

 ナズナは目を閉じて、もう一度息を吸った。フレイと合わせた手をリリーの胸に置いて、囁くように魔法を紡ぐ。


「月桂樹 《ローレル》」


 身体の中に巡る、月神の力を呼び起こす。

 聖なるその魔力は、冷たく流れる水のようで、それでいて時に力を爆発させる炎のよう。扱うのは難しいけれど、ナズナにとって――『月の子』ナズナ・フレールにとっては、今一番頼れる力だ。


(お願い、リリーちゃんを。大切な人たちを、助けて――)


 ナズナの心の声に応じるように、月の力はナズナの指から溢れ出した。リリーの肌へ、肌を覆う黒き瘴気へ、その下で燻る太陽の魔力へと流れていく。

 月の色が、ナズナとリリーの身体を包み込んだ。

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