第二十八話 リリーの言葉と深まる謎

 レイシスが戻って来るまでの間に、フレイはリリーと共に一晩過ごす準備を整えることにした。

 まずは汚れた身体だ。リリーは服だけでなく、足や手、顔までもが泥や土に塗れていた。そのような状態で食事をし、寝るわけにはいかない。フレイも森の中を歩いてところどころに土がついていたため、共に洗い流すことにした。

 水は近くの井戸――備え付けられていた桶は無事だった――から汲み上げた。濡らした布で身体を拭く。布は付近の家にあった比較的綺麗なものを拝借した。物干し竿が落ちていたから、きっと干されていたのだろう。


「リリーちゃん、水は冷たくない?」

「うん、だいじょうぶ」


 頷き、リリーは水に濡らした布を絞る。

 本当は、フレイの手で丁寧にリリーの身体を拭いてあげたいと思ったのだが、相変わらずリリーは触られることを拒んだ。

 彼女はフレイから少し離れたところで、ワンピースを脱ぎ、自分で身体を拭き始める。水の冷たさに眉を顰めながら、ごしごしと。


「リリーちゃん。背中が拭けてないよ。そこは届かないだろ」

「届く、よっ」

「そう? 無理しないでね」

「んっ」


 なかなか拭ききれない様子にやきもきとしたが、嫌がることはしたくない。フレイはそわそわしながらリリーの奮闘を見ていた。

 身体を拭き終えたら、次は衣服を変える。こちらも落ちていたものを使わせてもらった。

 適当に見繕ってきた、リリーの髪色に似た臙脂色のワンピースは彼女によく似合い、サイズもぴったりだった。裸足には靴下と革の靴を履かせる。よれてしまっているが、ないよりはましだろう。


「あとは……髪か。リリーちゃん、君の髪を洗って結わきたいんだけど」

「……だめ」


 何度目かの挑戦にもリリーは頑なだ。身を守るように両手で布を広げ、そこから顔を覗かせる。その姿はとても可愛らしいのだが、ここまで来ると警戒している以外にも、何か理由があるのではないかと探ってしまいそうだ。もちろん、嫌がっている間は決して無理強いはしないが。


「これ……」


 その時、不意にワンピースを見下ろしてリリーが顔を曇らせた。どうしたの、と近づくと、泣きそうな顔で彼女は言った。


「友達の……」

「え……?」

「これ、友達のお洋服なの。でもその友達、もう……」


 その先は言われなくてもわかった。わかってしまった。だからフレイは、しゃがんでリリーをまっすぐ見る。

 笑いかけることはできない。慰めることもできないかもしれない。でも、言葉を紡ぐ。


「なら、大事に着ないとだね。その友達の分も」


 声も出せずにリリーはこくこくと頷いた。泣くのを我慢するかのように身体を震わせて、リリーは布を強く握る。それでも、涙はぽたぽたと落ちてしまう。

 その涙が、せめてもの弔いになるといい。今度はたくさんの花とお菓子を持って来よう。そう思いながら、フレイは両手を合わせた。


(この村で生き残った唯一の命……ちゃんと、守るから)


 隣で、リリーも同じように手を合わせた。


 身体を綺麗にした後、フレイはリリーと共に小屋に戻った。料理用にと水を汲んだ桶を暖炉の傍に置き、水筒の中身の補充する。

 今度はリリーも木の椅子に座ってくれた。隣に腰を下ろし、レイシスを待ちながら、リリーと共に先生は何を取って来てくれるだろうと予想する。魚も楽しみだが、リリーは木の実が食べたいと言った。この近くは桃が実るらしく、それが食べたいと話してくれる。気が付けば彼女の口元には笑顔が宿るようになり、フレイにも憶することがなくなってきた。やっと子供らしい一面を見ることができ、フレイは再び安堵する。話しながら肩の力を抜いた。


「……ねえ、リリーちゃん。君の話をきかせてもらってもいいかな?」


 そうして彼女の心が落ち着いてきた頃、改めて、フレイはポケットにしまいっぱなしだった金のネックレスを取り出した。

 金の糸はずっと、リリーの胸元を示していた。それが何を意味するのか、フレイはまだわからない。その謎を解くため、そしてリリーを母親の元に戻すために、フレイは依頼の話を持ち出した。


「さっき森の中で、君を探しに来た、って言ったよね」

「うん」

「君のお母さんに頼まれてなんだ。それと、これを返すために」


 机の上にネックレスを置く。リリーはハッと息を呑んだ。


「こ、れ……」

「君のものだってお母さんから聞いたよ。お母さんは君を心配してて――」

「お母さんじゃない!!」


 突然だった。リリーの金切り声がフレイの鼓膜を震わせた。きいん、と耳が痺れるほどの甲高い声は、よく聞かなければ何と言っているかわからないほどだった。

 瞬きもできずに硬直してしまったフレイに、リリーは強い眼差しを向ける。


「お母さんじゃない、そのひと、お母さんじゃない」


 ひたすらに繰り返されるのは、否定。金のネックレスを睨むようにして、リリーはその先にいる“お母さん”は違うと訴える。

 フレイは困惑し、そして混乱した。

 依頼人であるアルバは言った。この写真の子が、娘だと。しかし、そのアルバを否定するリリーの言葉を、嘘だとは思えなかった。ここまでの過酷な一ヶ月の中で、記憶が混濁しているわけでもなさそうで。フレイは怪訝な表情でリリーを見遣った。


「どういうことだ……?」


 するとリリーは、我に返るように目を泳がせた。


「あ……ご、ごめんさない。お、おにいさん、ごめ、んなさい……」


 怯えた声を出され、フレイは慌てて首を横にする。


「いや、大丈夫だよ。ちょっと驚いただけだから」

「怒って、ない……?」

「怒ってないよ。それよりリリーちゃん、教えてほしいんだ。君が大丈夫なら、なんだけど」


 アルバさんとは、いったいどういう関係なんだ。

 急かすようにそう訊ねてしまう。

 アルバ。その名を聞くとリリーはまたしても目に怯えを滲ませた。アルバに対して不信感が募る。


(アルバさん……あの人は、なんて言ってた?)


 思い返す。

 子供が行方不明になり、心配だと言ったアルバの言葉に不自然な点はなかったように思う。写真を提示し、リリーを可愛いだろう、と自慢げに語っていた。だが……フレイはあの時、違和感を覚えていたことを思い出した。

 アルバの表情だ。彼女は笑顔を浮かべ、時折辛そうに俯いていた。けれどそこに涙や、焦燥し切ったような色はなかった。それに、妙に落ち着いていた。子供が行方不明になったにも関わらずだ。あの時の拳を握りしめる動作は、もしかして演技だったのだろうか。

 一度しか会っていないため、記憶は曖昧だ。だが確実に言えるのは、リリーが彼女を怖がっているということ。厳しすぎる親だったのか、それとも虐待を受けていたのか……様々な憶測を巡らせながら、フレイはリリーに視線を戻す。

 リリーはごくりと生唾を飲み込み、唇を動かした。


「あ、あの人は、リリーに変なこと、したの」

「変なこと?」

「うん……じっけんって、言ってた」

「じっ、けん……」


 フレイの瞳が揺れる。一瞬、呼吸が止まった。

 喉が閉まったような声で、リリーは続ける。


「ここで、毎日、へんなお薬、飲まされて……そしたら、そしたら身体が熱くなって……なっ、て……」


 その瞬間、ガタンと椅子がひっくり返った。

 いや、違う。リリーが椅子から崩れ落ちたのだ。床に両手をつき、苦しそうに息を吸う。ひゅうひゅうと、呼吸は次第に激しさを増す。慌ててフレイも膝をついた。


「リリーちゃん!」


 触るな、と言われていたことなんて頭から吹き飛んだ。背中をさすり、落ち着いて、と声をかける。

 それでもリリーは宙へと目を向け、何かを思い出すように目元を痙攣させ、顔を青くさせながらも必死に言葉を発しようとした。経験したことを、体験した恐ろしいことを話そうとする。見ていられなかった。


「もういい! リリーちゃん、もういいから!」


 気づけばフレイは、彼女の小さな身体を抱きしめていた。右腕で強く抱き寄せ、左手で頭を撫でる。彼女の顔を胸に抱き、耳元で大丈夫、大丈夫だからと声をかけ続ける。

 最初はいやいやとフレイの胸を叩き、逃れようとしていたリリーだが、次第にその腕を弱めていった。体重がフレイに乗り掛かる。

 息はまだ荒い。それでもリリーはゆっくりと落ち着きを取り戻していく。

 そうして呼吸を繰り返しながら、胸に顔を埋めたままリリーはくぐもった声で訊いた。


「さわっても、だいじょうぶ、なの……?」


 その質問の意図は、やはりわからなかった。それでもフレイは強く頷く。大丈夫だよと。このままでいいんだよと。急に抱きしめてごめん、と。

 するとリリーは。


「う、うえぁ……うわああああんっ……わああぁぁぁっ――」


 張り詰めていた糸が切れるように。我慢していたものを爆発させるように。激しく、強く、それでいて悲しみに暮れた、そんな声で泣き出した。

 今まで言葉を詰まらせ、涙を溢していたリリーが見せてくれた、張り裂けんばかりの泣き声は、夜の闇に遠く響いたけれど、それはひどくフレイを安心させた。

 泣きたい時は、泣いていいんだよ。それを伝えるように、フレイは彼女が全てを吐き出し終えるまで、頭を撫で続けていた。


 レイシスが戻って来たのは、リリーが涙を流し終え、泣き疲れて眠ってしまった後だった。

 慌てたように音を立てて入って来たレイシスに、しっ、と指を立てる。

 気づいたレイシスは足音を忍ばせ、フレイの近くまで歩み寄った。左手には桶、右手には袋の形にした布が握られている。彼は桶を床に置き、布をテーブルの上に広げると、中に入っていた桃と木苺をフレイに見せた。


「果物を摂ってきた。それから、魚も三匹ほど。泣いている声が聞こえたから慌てて戻ってきたんだが、無事のようだな……」

「ああ。魔法は放ってないだろ? ちょっとリリーちゃんが泣いてしまっただけで、それ以外は問題ないよ」

「それならよかった」


 レイシスは倒れた木の椅子を起こし、腰を下ろした。その靴は濡れていた。桶で魚が跳ねる。


「……本当に魚、摂ってきたんだね」

「まあな。果物だけじゃ腹減るだろ。リリーは寝てしまったようだが……食べるか?」

「いただくよ」


 フレイの返事を聞き、レイシスは持ってきていた棒に魚を刺して暖炉で焼き始めた。煙と共に魚の焼ける匂いが小屋中を満たしていく。

 パチパチという音を聞きながら、フレイは床に座りっぱなしだった状態からよいしょと立ち上がった。リリーをベッドの上に寝かせる。疲れが溜まっていたのだろう。穏やかな寝顔を見せて、リリーは夢の中に入っていた。

 リリーを乗せていたせいで痺れてしまった足をひきづりながら、フレイはレイシスの隣に座った。

 前屈みになり、魚の焼き加減を確認するレイシスの横顔を眺め、ぽつりと呟く。


「人体実験、って聞いたことあるか?」


 レイシスは僅かに眉を上げた。目だけでフレイを見やり、頷きはせずに続きを促す。


「リリーちゃんは、実験をさせられてたらしい。それがこのネックレスや、ここを襲った魔物と関係があるかはわからないけど……」


 ネックレスは今でも持ち主はリリーだと示しているように、金の糸を張っていた。

 フォルクスはこの糸の先に追っている魔物がいると言っていたが、アルバが行なっていた実験は、それと関係があるのだろうか。


(アルバさんはリリーちゃんで、何をしようとしていたんだ……?)


 リリーが飲んだ薬とは、なんだったのか。このネックレスは、何を暗示している?

 疑問は募り、謎は深まるばかり。リリーを見つけられたはいいが、今度はアルバの言動に不審を抱き、フレイはこの依頼をどうするべきか悩んでいた。

 今の時点で、アルバにリリーを渡すと言う選択肢はなかった。ただ、アルバからは一度話を聞かなければとは思った。リリーについて。そこで、アルバが人道に反することをしているとわかったら。


「アルバさんを、捕まえないといけない。……でも」


 そうすると、リリーの処遇はどうなるのだろう。

 もし実験が村を滅ぼし、人を殺すものであったのならば、それに関与してしまったリリーも罪に問われてしまう。その罪を、クレイス家はきっと放ってはおかない。だがフレイは、これ以上にリリーを、そういった大人の勝手な都合の中で振り回したくはなかった。この子には、何の責任もないはずだ。


「――ほら、できたぞ」


 思考を巡らすフレイの前に、ぐい、と焼き魚が差し出される。焦げた匂いと熱が頬を撫でた。

 空気を読まないレイシスの行動に、フレイは眉を顰めた。が、お腹は食べ物を求めて音を鳴らしていた。素直に受け取る。


「塩はなかったからそのままだが、いけるか?」

「食べたことはあるよ」


 一年半ほど前、人を探す旅をしていた頃に。

 渡された焼き魚に齧り付く。種類はわからなかったが、白い身にはすっきりとした脂が乗っており、普通に美味しかった。骨を丁寧に避けて、咀嚼する。

 桃や木苺も、桶の水で洗ってからいただいた。腹が満たされると、不思議と悶々としていた気持ちが消えていくような気がした。


「……俺は、お前の仕事のこととか、悩んでいることはわからないし、無理に聞くこともしないが」


 不意に、レイシスが言う。


「自分が一番、したいと思ったことをすればいいと思うぞ」


 それは短い一言だった。だったけれど、すっとフレイの胸に入っていった。

 背中押すというよりは、支えるような一言に、わかったような口を、と思った。なんだか悔しくなった。でも同時に嬉しさのような感情も湧き上がってきて。

 フレイはつと顔を背ける。


「お前に言われなくても、わかってるよ」

「そうか。ああだが、感情に任せて人を殴るのはよくない」

「それはお前が悪い」


 言って、フレイは最後に一つだけ残っていた桃に齧りついた。

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