第四章 人型の魔物

第二十三話 大切な人

 フォルクスの追跡魔法は、その場で行われた。

 上着の胸ポケットから杖を取り出すと――おそらく、フレイのヘアピンのように別の物に変化させていたのだろう――、彼は詠唱を口にした。


「光よ、風よ、かの魔力を具現化し、あるべき場所を示せ――光風ライトウィンド追跡トラック


 柔らかな声に導かれるように、杖から光が溢れ出す。

 淡い翡翠色をした光はフレイの持つネックレスを包み込んだかと思うと、ネックレスの輝きを連れ出すようにして舞い上がった。今度は金箔を纏い、その魔力は窓の外へと向かう。ガラス戸と、向かいにある石の塀をすり抜け、光は西の方角へと飛んでいった。

 フォルクスの杖に灯っていた光が収まる。あとに残ったのは、ネックレスから糸を引く魔力の痕跡のみ。

 フレイは青の瞳でまじまじと光の糸を見つめた。


「これが追跡魔法か」


 その目は興奮気味に輝いていた。

 そしてナズナもまた、見たことのない魔力に頬を高揚させていた。


「すごい……。これが追跡魔法なんですね! これを追えば魔物の居場所がわかるんですか?」

「ああ。強めに魔力を込めたから、短くても三日は持つだろう」

「三日もあれば十分だ。すぐにこれを追うよ」

「あ、でもフォル様……これって、他の人にも見えちゃいますよね? 魔物に気づかれちゃうんじゃ……」


 心配してナズナはフォルクスを見上げた。

 とても便利な魔法ではある。が、光を受けた魔物がその光を逆に追ってしまえば、大変なことになるのではとナズナは危惧した。もしフレイが見つける前にばったり遭遇してしまったら、フレイの身に危険が及ぶ。

 しかし――ナズナの心配は杞憂に終わった。不思議そうにフォルクスがナズナを見やったからだ。


「ナズナ。お主には追跡の糸が見えているのか?」

「……? はい、見えてますけど」

「そうか、なるほどな……」

「え、なにがなるほどなんですか? わたし、変なこと言いました?」

「いやなに、珍しいこともあるものだと思ってな。この魔法はな、媒体を持っている者にしか糸が見えんのだ。つまり今、ネックレスを持っているフレイにしか見ることができん」

「えぇ!? じゃあフォル様には」

「見えておらんな」

「ほんとに……? なんで、わたしには……あ、もしかして」

「そうだな、予想はできるが……まあ、この話は後にしよう。安心しろ、魔物がその光に気付くことはないはずだ」

「安心したよ」


 フレイが息を吐いた。

 流石のフレイも、魔物に対しては慎重になっているのだろう。洋館に侵入したときさえ涼し気だった顔は、今は緊張で強張っている。ナズナは目を見開いた。


(フレイさんも、怖いとか思うんだ)


 焦ったような表情は見たことあったが――例えば、初めてナズナの部屋に訪れ、クローゼットに隠れていたときとか――、ここまで真剣みを帯びた表情は見たことがなかった。

 ナズナは、光の糸を見つめるフレイの正面に立った。そして、ネックレスを握る左手を自身の両手で包み込んだ。僅かに目を見張ったフレイの手は、冷たくなっていた。


「フレイさん……怖かったら、断っていいんですからね。フレイさんと会えなくなっちゃうのは嫌ですけど、でも、フレイさんの安全の方が大事ですから!」


 後半の声は、少し震えてしまった。

 きっと今、フォルクスの依頼を断ったら、フレイの侵入は洋館中に伝わってしまう。それはわかっていた。フォルクスは病弱だが、ネージュに戦い方を教えられるほどには魔法も剣も強い。フレイは逃げることもできずに捕らえられるだろう。

 けれど、それでも。もしフレイが恐怖を感じるようであれば、フレイが怪我をしてしまうのであれば、無理に行かなくていいとナズナは思った。

 フレイは何かを奪ったわけではない。だから一度捕まっても、すぐに釈放されるはずだ。ナズナが『月の子』だということも知らないため、注意だけされて終わる。

 そうなれば、もう会うことはできなくなってしまうかもしれない。けれどナズナは、フレイには自分の気持ちを優先してほしかった。例え会えなくなったとしても、フォルクスや自分の依頼より彼の身と心を大事にしたかった。


「……ありがとう、ナズナさん」


 しかしフレイは、ナズナの言葉に首を横に振った。


「大丈夫だよ。俺は受けた依頼は必ず果たす。彼のも、そして君の依頼も、放りだすつもりはない。これは俺が決めたことだ。だから、心配は無用だよ」

「フレイさん……」


 真摯な瞳がナズナを貫く。水のように澄んでいる青は凛としていた。強い意志を持って、フレイはフォルクスの依頼に頷いたのだとわかる。決して無理強いされたわけではない。自分で決めたのだと、その眼は語っていた。


「……気を付けてくださいね」


 ならば、ナズナがフレイの意思を止めるわけにはいかない。魔物と相対したフレイを想像すると心配で仕方がなかったが、ナズナはそっと彼から手を離した。


「怪我はしないでください。無事に、帰ってきてくださいね!」

「ああ、ちゃんと戻る。……フォルクスさん、早速向かうことにするよ」

「待てフレイ。護衛は必要か? 必要であれば用意するが」


 フレイの身を案じるナズナの気持ちを汲み取ってくれたのか、フォルクスがそうフレイに申し出た。クレイス家から一人、腕の立つ者を用意しようと。

 だがその申し出も、フレイはやんわりと断った。


「申し出はありがたいけど、必要ないよ」

「そうか、わかった。ならせめて、この部屋の出入り口を使うといい。正面からだと誰かに見られてしまうだろう?」

「この部屋から?」


 扉側にいたフォルクスは、頷いて執務室の奥へと歩き出した。魔法で壁際の棚を動かしたかと思うと、その下に敷かれた絨毯を捲る。

 そこには、四角い扉が隠されていた。こちらも魔法を使ってフォルクスが扉を浮かせると、石造りの階段が現れ、床下に行けるようになっていた。

 ぎょっとしたのはナズナだけではない。フレイも目を瞬かせ、階段を凝視した。


「フォルクスさん、これは……」

「見てわからんか? 隠し通路さ。俺は時折ここから抜け出していてな。おっと、ルナールには言うでないぞ?」


 おどけたように、肩を揺らしてフォルクスが笑う。その笑みは、悪戯をする子供のようだった。


「ふふっ」


 それがあまりにも新鮮で、ナズナはつい吹き出した。口元に手を当て、あはは、と笑い声を零す。


「フォル様も、そういうことするんですね」


 普段、近寄りがたい雰囲気を纏っているフォルクスだが、このときばかりはその雰囲気がなくなっていた。冷たいものが温かく、柔らかくなるように、執務室内の空気が緩んだ。


「なに、たまに業務に飽きてな。息抜きも必要だろう?」

「そうですね。ルナール様うるさいですし」

「はっはっは。ナズナはそればかりだな。してフレイ、この提案は飲んでくれるだろう?」


 笑みを乗せ、フォルクスが訊く。彼の優しさと感謝が、その声には滲んでいた。

 流石のフレイも、その気遣いは断れなかったようだ。呆れたように力を抜き、礼を言うよ、と頬を緩める。緊張が解れた様子に、ナズナは微笑んだ。


「行ってらっしゃい、フレイさん」

「ああ、行ってくる」

「フレイ、この先は洋館の裏側に続いている。お主がいつも通っている塀の穴の近くに出るはずだ」

「……知ってたのか」

「いいや、ただの推測さ。俺もそこから出入りしているのでな。しばらくは塞ぐつもりはないぞ」

「……そう」


 フォルクスの言葉に軽く返事して、フレイは床下へと降りて行った。闇に紛れる前に、ナズナを振り仰ぐ。青の瞳と目が合った。


「頼むぞ。見つけた際の連絡方法は魔法鳩でいい」


 最後に、フォルクスがそう声をかける。頷いたフレイはその青を細め、軽く手を振った。


「また来るよ」


 いつもとは違う別れ方だ。それでもフレイは、同じ言葉を口にした。これから魔物の元に向かうとは思えないその口調は、戻ってくると確信しているようだった。


「絶対ですよ?」


 だから、ナズナはそう返した。

 フレイはああ、と声を飛ばし、通路の奥、闇の中へと消えていく。

 やがて彼の魔力も見えなくなると、フォルクスによって開けられた扉、絨毯、棚は元の位置に戻された。

 通路が閉められても、ナズナは祈るような形でずっとその場にしゃがみ込んでいた。フォルクスの影がかかる。

 フォルクスは執務机に入れられた椅子を引き、そっと腰を下ろしていた。散らかっていた机の上を片付け、書類を引き出しにしまう。


「随分と仲がいいのだな」


 訝しむというよりは、感心しているかのような声音が降って来た。掠れの含んだそれは、空気に溶けて消えていく。

 ナズナはゆっくりと膝を伸ばし、フォルクスを振り返った。


「……話した方が、いいですか?」


 フレイとの出会いのことを。

 当主である彼には話しておいた方がいいだろうかと、ナズナは訊ねた。フレイという探偵が、害をなす存在ではないということも含めて。知らせておいた方が、フレイのためになるだろうか。


(でも……)


 迷いもあった。すでに知られてしまったけれど、フレイとの関係を説明することは勇気がいる。

 『月の子』でありながら、それが運命と知りながら、ナズナは寂しさゆえに彼と依頼という約束をしてしまった。この洋館内で、様々な規則や縛りを設けられ、自由な意見を言えない生活を送ってきたナズナが初めて破った禁止事項。このことを話したら、フォルクスは何と言うだろう。怒るだろうか。彼が怒ったところは見たことがなかったが、ルナールが恐れるほど怖いと聞く。

 ナズナは恐々と当主を見上げた。金の瞳は、じっとナズナを見つめていた。だが、その濃い金は思っていたよりも穏やかな光を帯びており――やがてフォルクスは、笑うように告げた。


「必要だと思った時に、話せばいい」

「え……?」


 目を見開くナズナに、当主は言う。


「先ほどの取引を忘れたか? 俺は何も見ていない。そういうことになったからな。今も隠し事は保たれていると思っていい。あやつも仕事を果たした後は、俺とのやりとりを忘れ、お主と会うだろうさ」

「そう、かもしれませんけど……」

「それに俺はな、安心したのだ」

「え?」


 話しながら、フォルクスは執務机の横に添えられるようにして置いてあった、もう一つの椅子にナズナを勧めた。そこはいつもルナールが座っている場所だ。高い椅子に、ナズナは飛び乗るようにして腰かける。

 そんなナズナの何気ない行動に、フォルクスはまた笑い声を零した。


「フォル様? なんで笑うんですか」

「いいや、お主は相変わらず素直だと思ってな。……今のように、何か言えばお主は言われたまま、俺や他の奴らの望み通り動く。時に疑問を持たず、時に疑問を持ちながらも。結果的にすべてを飲み込んで、お主はこの洋館に言いなりになっている」

「それは、ルナール様がそうしろって言うから」

「そうだ。だが来たばかりのお主はすべてを拒絶していただろう? そうしてここから抜け出すこともできたはずだ。しかし、そうはしなかった」


 思い出す。ここに来たばかりの頃を。

 まだ七歳だったナズナは、当時メイドや使用人、執事長やネージュでさえも困らせるほどの癇癪を起こしていた。泣き喚き、時に怒り、物を壊し、部屋に引き籠っていた。すべてを覚えているわけではないが、そうしなければ何かが怖くて、感情が抑えられなかったことは記憶は残っている。


「あのときは、その……みんなを困らせました」

「なに、子どものしたことだ、気にして……まあ、多少は困ったか。夜寝られないくらいには」

「困ってるじゃないですか」

「ははは、すまんすまん。だがそれは、普通の反応なのだろう。……だからだな、逆に俺は、ある時ぱったりとそれがなくなって、心配していたのだ」


 ナズナの記憶が過去に流れていく。

 確かにナズナは、十になる前のある日に外に出ることを諦めた。

 ネージュの言葉がきっかけだ。いつか魔物を倒した時、ナズナのお母さんに会いに行こう言ってくれた彼の言葉は、ナズナの心に影響を与えた。今となっては、逃げ出すことなんてできないとわかってはいるが、ネージュのその気持ちが嬉しかった。そして、そんなことを言ってくれるネージュたちを、これ以上困らせたくないと思ったのだ。

 しかしナズナのその変わりようを見て、フォルクスは不安を抱いたらしい。


「お主は俺たちの言うことを聞くようになった。楽にはなった。俺たちは『月の子』を保護し、そしていずれコズモス地方へと送り届けなければならないからな。だが……俺はお主に、たくさんのことを我慢してほしくはなかった」


 フォルクスはまた、微笑んだ。柔らかいけれど、そこには悲しみや、哀れみのようなものが含まれていた。まるでナズナを誰かに重ね合わせているかのような、そんな目もしていた。

 それが誰なのか、フォルクスは口にしない。ただ、後悔を滲ませる口調で、彼はナズナに伝える。


「当主らしからぬ発言かもしれないが、外に出してやりたいとは思っていたのだ。クレイス家の中だけでなく、外でも様々な人々と出会ってほしいとな。『月の子』という運命からは逃れられないかもしれんが、その運命に向き合いながらでも、できるだけの自由を与えてやりたかった。だが、俺にはできなかった」

「フォル様……」

「しかしな。気づけばお主は、知らぬ間に外の者を侵入させているではないか。しかもそやつは、お主をこんなにも笑顔にさせている」


 ぽん、とフォルクスの手がナズナの頭に置かれた。次いで安心したという笑みが覗く。

 ナズナはぽかんと口を開けてしまった。柔和な笑みが印象的なフォルクスだが、こんなにたくさんの感情を笑みに乗せることがあるのかと驚いたのだ。しかも彼は、深くナズナを想い、ナズナのために感情を募らせていた。


「知らなかったです」

「うん?」

「フォル様が、そんなにわたしのことを考えてくれてたなんて」


 思わず口にしてしまうと、フォルクスは何かを思い出すように睫毛を伏せた。


「俺はどうやら、意識しないとこういったことを口にしないようでな。ある奴に、言葉にしろとぼやかれたことがある」

「そうなんですか? じゃあ、その人のおかげで、わたしはフォル様の言葉を聞けたんですね」

「そうなるな。まあ、今回は興が乗ったからでもある。面白い客人を見られたからな。……ナズナ、フレイはお主に、大きなものをくれたのだな」


 しみじみと、フォルクスはそう言った。

 ナズナも深く頷く。

 フレイはナズナに、手を伸ばしてくれた。天から落ちる月の光のように、透明な瞳で『月の子』ではないナズナをまっすぐに見つめて。発せられた声は、知らない世界をたくさん教えてくれた。

 フォルクスは幼い頃、ナズナに童話の絵本を読み聞かせてくれたことがあった。ネージュが愛読している冒険譚の本も読んだことがあった。それはナズナの心を弾ませたが、フレイが聞かせてくれた外の話は、庭園の風景は、それ以上にナズナの心を惹きつけた。

 そしてフレイの言葉一つ一つは、ナズナに新しい感情を与え、失くしかけていた想いまでもを呼び起こしてくれた。たった三か月。まだそれしか月日は経っていないのに、フレイはナズナにとってかけがえのない存在となっている。

 その出会いは、失くしたくなかった。彼と離れたくない。もう、彼を知らない頃には戻れない。だってフレイは――


(大切な人、なんです)


 それは声にならなかった。代わりに、誰の目にも留まらない小花のような、ささやかな笑みがナズナの口元を彩った。

 フォルクスはナズナに一つ、言葉を贈る。


「運命の中でも、強く生きろ。己の信じた道を行け。お主は……俺とは違う」


 後半の声は掠れ、囁くようであったため、ナズナの耳には届かなかったが、彼の言葉はナズナの背中を強く押すようだった。

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