第十四話 友達にはなれない
「……ええっと?」
何を聞かれているのかわからず、ナズナは目を白黒させた。
ネージュは怒っているどころか、反対に嬉々としてナズナを凝視していた。
戸惑いを見せるナズナに、彼はこんなことを言う。
「『月の子』の命令だと言えば、ルナールは金を出してくれるんじゃないか? ――ああそうだ、外にも出してくれるかもしれない」
「え……? そう、なの?」
「ああ、ナズナは次期女王なんだ。きみが言った通り、クレイス家は王に仕える身だ。王の命令はルナールも無視できんだろう?」
「で、でも、そんなことルナール様が許すわけ……」
「いや、案外、驚いて聞いてくれるかもしれないぜ?」
「……なんかネジェ、楽しんでる?」
子供のように目を輝かせているネージュは、なんだか楽しげだった。口角を上げ、ああ、とこれまた大きく頷く。
「きみがそんな命令をした時のルナールはどんな顔するだろうなあ。気にならないか?」
「気にはなるけど……ネジェってさ、わたしと同じで昔からルナール様のこと好きじゃないよね」
「好きか嫌いかはわからんが……変な奴だとは思ってるぜ。話もうるさいしな。なあナズナ、あいつに命令してみてくれよ。もし外に出られたら、おれが町を案内してやる。護衛をしてもいいぜ。まあ、フォルの許可もいるがな」
「……ネジェは、わたしが外に出ることに賛成なの?」
「きみは、よく抜け出そうとしていただろう」
ナズナは目を見開いた。ネージュの瞳は、過去を見つめていた。
ネージュの言う通りだった。
まだ十になる前、ナズナはたびたびホームシックにかかり、洋館を抜け出そうとしていたことがあった。夜中にこっそりと洋館の扉を開けるたび、ルナールに怒られ、ミーチェに連れ戻され、シアンに慰められていた。
そんなとき、一度、逃げ出そうとするナズナをネージュが見つけたことがあった。
月の沈んだ寒い冬の夜のことだった。裸足で窓から飛び出そうとするナズナをネージュは必死で止め、暗い廊下で泣きじゃくったナズナに寄り添った。困ったような顔で、ネージュはナズナに訊いた。
『そんなに外に出たいのか?』
『……出たい』
『なぜ』
『お母さんに会いたいから』
ネージュがその瞬間、どんな顔をしたのかナズナは見ていなかったが、彼は驚き、同情するような目をナズナに向け、そして痛む胸を抑えるかのように顔を歪めた。
ネージュにはもう、両親がいなかった。記憶も失っていた。会いたくても会えず、思い出したくてもできなかった。
『……おれが強くなったら、きみは外に出られるのか?』
『え?』
『外は危険だから、きみは出してもらえないんだろう? おれの家が焼かれたみたいになっちゃあいけないから、きみは出られないんだ。だったら、おれがその敵を倒せばいい』
『ネージュが?』
『ああ。敵はいっぱいいるから、いつになるかはわからんがな。そのときは……お母さんってやつに会いに行こうぜ』
『……いいの?』
『なんだ、きみは嫌なのか?』
「ううん、いやじゃない……会いたい。うん、そうする! いっしょに会いにいく!』
『じゃあ決まりだな』
『うんっ、約束だよっ! ……ありがと、ネージュ』
大粒の、けれど透明な涙を流しながら、ナズナは笑った。笑って、謝った。
『あと、ごめんなさい。嘘だから。ネージュのこときらいって言ったの、嘘だから!』
そうすると。ネージュは赤い瞳をいっぱいに見開いて。にっと、歯を見せて笑い返したのだった。
『じゃあもう泣かないでくれよ、ナズナ。あと、おれのことはネジェって呼んでくれ』
――ネージュはそれを、覚えていてくれたのだろうか。
そう思うと、胸いっぱいに嬉しさが広がって、鼻の奥がつんとした。ぐっと喉の奥と目元に力を入れる。そうしないと、また泣いてしまいそうだった。
「ありがと、ネジェ」
ネージュは今もなお『月の子』としてナズナを見ている。特別扱いは彼の中から抜けることはないし、今後も保護対象としてナズナを見るだろう。けれど、ネージュはネージュなりに、クレイス家の役割を背負いながらもナズナのことを考えてくれていた。今はまだ友達にはなれなくても、ナズナの存在はここにいる。
すうっと、胸の中にたまっていた靄が晴れたような気がした。
ナズナの頬に、笑みが戻る。
ネージュはというと、突然のお礼の言葉に首を傾げていた。
「おれは何もしていないぜ?」
「してくれたよ。約束覚えててくれた。また助けられちゃったね」
「約束……? 助けた覚えもないが……まあいいか。で、命令はしてみるのか?」
「そんなにしてほしいの? じゃあ……魔物騒動が収まった後にでもね。今はネジェも忙しいでしょ?」
「確かにそうだな。じゃあ、早く魔物を殲滅させて、その時を楽しみにしてるか――そういえばナズナ、金の話はもういいのか?」
「お金……? ああっ!」
言われてナズナは飛び上がるくらいの声を上げた。
ここに来た理由を完全に忘れていた。目を泳がせ、再度ネージュの手を取る。
「ネジェそれなんだけどさ、やっぱりお金は貸してくれない!?」
「それは女王様からの命令かい?」
「んなっ……」
突然からかうように言われ、ナズナは声を詰まらせた。
先ほどは戸惑っていたネージュだが、今はわくわくした表情でナズナを見つめていた。ノリノリで命令を聞く気だ。そんな期待に満ちた目で見られると、なんだか臆してしまう。こういうのは慣れていない。
それに、ナズナはやはり、命令をしてお金を借りたくはなかった。
へにょりと眉を下げ、弱々しく声を漏らす。
「うううう……やっぱ無理! 友達として! 友達として貸してください!」
「ははっ。どうやら、きみには脅しは無理そうだな」
なんだか安心したような声音で、ネージュはそう笑った。
☆
「ありがとう、ネジェ。このお金、絶対に返すから」
「そんなに急がんでもいいぜ? おれはきみみたいに金使いは荒くないからな」
「なっ!? そ、そんなに荒くないもん! ちゃんと返してみせるから!」
ネージュから必要な額を借りた後、ナズナはそんな風に意気込んで、部屋へと戻って行った。
自室の前で彼女を見送って、ネージュは笑みを零す。
ころころと変わるナズナの表情は、終始見ていて飽きなかった。
言葉にした通り、ネージュは食事代にしか硬貨を使わない。貯まっていく一方だったため、本当に返さなくてもよかったのだが……あの様子だと、ナズナは何としても返そうとするだろう。
どうやって金を貯めるのか、その方法を想像するのは楽しい。ネージュの期待に応えて、ルナールに命令でもしてくれたらもっと面白いのだが。
冗談交じりにそんなことを考えて。それからネージュはふと、笑みを消した。
「友達、か……」
呟かれたのはナズナの言葉。
友達として。そう言ったナズナにネージュは笑ってみせたが、依然として彼女と、友達という関係を築くつもりはなかった。
ナズナは『月の子』だ。
出会ったばかりの頃は、まだナズナを特別だと思っていなかった。だから“約束”などしてしまっていたのだろう。
だがネージュは、彼女が口にした約束とやらを覚えていなかった。
(あいつはすぐに、死ぬ)
その事実が、ネージュの胸を占めている。
ナズナが『月の子』だと聞かされた時、同時にそれを知った。
ルナールが教えてくれたのだ。
『月の子』は短命だと。ネージュが生きているうちに、ナズナは死ぬ。
怖くなった。いずれ死ぬ運命にあるナズナと一緒にいることが。
だってネージュは一度、大切な人を、居場所を失っているから。
「……」
漠然とした不安が襲い掛かって来た時、ネージュは無意識に足を運ぶところがある。
手入れしたばかりの杖を箱から取り出し、廊下を歩き出す。
その場所は、二階の中央部分にあった。
一つ目の曲がり角を右に曲がり、左手の扉を開く。
扉の先には左右に伸びた長方形の部屋があり、その部屋の床には、この洋館に結界を張るための魔法陣が敷かれていた。
入って右側には、鍵穴のない石の扉。
ネージュは扉の前に立つと、手に持った杖を扉に当てた。詠唱を口にする。
「我は鍵の持ち主――
普段ネージュが発することのない独特な詠唱は、当主フォルクスが名付けたものだ。この扉は、今の詠唱でしか開かない。
魔法に反応し、扉は空気に溶けるようにして消えてなくなった。
奥は、真四角の小部屋になっていた。
天井は低く、狭い。ランタンも家具も置かれていない小部屋には、異質なものが一つだけ、中央に設置されている。
ネージュの胸の高さほどの石台に、その石は乗っていた。
菱形に似た形をした拳ほどの大きさの石は、金と銀、それから赤、青が混じったかのような不思議な色を発している。
その色は、月の光と同じ――
(月の、魔法石)
この国の月は、空気に籠る魔力の影響か、季節によって色が違って見える。
春は金。夏は青。秋は赤。冬は銀。その四つの色を併せ持ったこの石こそが、空の結界を作り出す媒体――"月の魔法石"だった。
石台の上で、宙に浮くように鎮座している月の魔法石の周りには、二重三重に結界が張ってある。
結界は、この部屋の床に描かれたもう一つの魔法陣から生み出されたものだ。洋館全体に張られたものよりも何倍も強化されている魔法陣は、いかにこの月の魔法石が重要であるかを表していた。封鎖された小部屋で、こうして月の魔法石は護られている。
ネージュは杖の先端を、今度は魔法陣の端に突き刺した。そして、そこに魔力を注ぎ込む。
魔法を使う時には詠唱が必須だが、物に魔力を込める時は詠唱は必要としていない。
無言で魔力を注ぐと、結界は力を帯び、淡く光り輝いた。やがてそれはまた透明になる。
ときどきネージュは、こうして結界に魔力を注いでいた。
命令されているからでも、役割だからでもない。この作業は、個人的に行っていることだ。
その赤い瞳には、不安と、もう失わせないといった強い意思が宿っていた。
(この魔法石は、壊させない)
――ネージュは一度、大切な人、居場所を失っている。
ネージュががもともと住んでいた故郷――ヴィ―ネス地方は過去、太陽に焼かれた。そして現在は、太陽に侵された地として出入りができなくなっている。
原因は一つ。月の魔法石が何者かに破壊されたからだった。
月の魔法石がなくなった途端、ヴィ―ネス地方の空を覆っていた結界は破れ、亀裂から太陽の熱が地上に降り注いだ。
一瞬の出来事だったという。家は焼かれ、森は炎に包まれ、人と魔法使いは灰と化した。
その時のことを覚えてはいない。けれど、フォルクスやリートスから話は聞いていた。
ネージュの両親は、その災害――否、人災で亡くなった。
ネージュだけが生き残った。
きっと両親がネージュを逃がしてくれたのだろうと、リートスは言った。
両親のことも覚えていないが、必死になって自分を逃がしてくれたのだと想像すると、胸の辺りが苦しくなった。
失った感覚はないけれど、失ったのだという事実が、ネージュの心に影を差している。幼い頃から、ずっと。
ネージュが親の仇打ちとして、復讐を掲げるのはそれがあるからだ。
この洋館に来たばかりの頃のネージュは、どう生きていいかわからなかった。けれどフォルクスが示してくれた復讐という道は、ネージュの生きる糧となった。
(あいつを殺してからだな。そう思うようになったのは)
ネージュは一回だけ、敵討ちとして、人を殺したことがある。
その男は、ヴィ―ネス地方の月の魔法石を破壊した張本人だった。
運がいいと、フォルクスは言った。
どうやって、男が太陽に晒された地方から生きて出て来られたのかは謎であったが、彼は太陽を見たと口にした。そしてその神を求めて、正気を失っていた。少なくとも、ネージュにはそう見えた。
罪には罰を。魔法石を破壊した罪は、重い。地方を一つ破壊し、何百万という命を手にかけたのだ。処刑は当たり前だった。
その処刑人に、フォルクスはネージュを選んだ。
『やってみるといい』
フォルクスはこの男が両親を殺したのだとネージュに伝え、自身の魔法の杖を剣に変えて手渡した。銀の刃が鈍く光った。
顔を上げた男は、青い眼をしていた。嫌な目だと思った。
まだ七歳の小さな身体に、渡された任務は重すぎたが、それでもネージュはフォルクスに従って、両手に持った剣を大きく振り上げた。目を見開き、思いっきり振り下ろす。
赤が、舞った――すごく、きれいな色だと感じた。
その赤で、ネージュは相手の青を塗り潰した。
処刑した男がその後どうなったか、ネージュは知らない。けれど、あの赤だけは忘れられなかった。
熱いものが込み上げて、心臓が脈を打った。暗くなりかけていた視界が、開けたような気がした。
フォルクスに言わせれば、目に光が宿った、らしい。
それからだ。ネージュがこうして、魔法と大剣を用いて魔物退治をするようになったのは。
親の敵討ちは済んだのかもしれない。だがそれだけで、ネージュは満足しなかった。欲が生まれた。初めての欲かもしれなかった。
(あいつらを、この手で――)
男には仲間がいた。その仲間は今も、太陽神を崇め、太陽を封印したという月の魔法石を破壊するべく、どこかに隠れ住んでいるのだという。
敵は魔物だけではない。魔物よりももっと、厄介な敵がいる。しかもその敵は今、魔物を増やしているかもしれないと、そんな報告が上がっていた。
いったい何故、そいつらは月の魔法石を狙うのか。それほどまでに太陽を求めるのか。フォルクスたちは議論していたが、ネージュは知らないし、どうでもいいと思った。
自分はただ、悪を倒すだけ。
もう何も、失わないために――
「……戻るか」
ネージュは結界の魔力が十分に貯められたことを確認すると、小部屋を後にした。
魔力と共に不安も流されたのか、心は凪いでいた。
その冷静になった心で、もう一度呟く。
「ナズナは『月の子』だ」
言い聞かせるように。
この過去のことを、ナズナには言っていない。
ネージュが人を殺めたことも、魔物以外の敵がいることも、ナズナは知らない。
知れば怯えさせてしまうことは明確であったし、ネージュはナズナに畏怖の目を向けられたくはなかった。知らないほうがいいこともきっとある。
短命で、命を懸けて国を守る。そんな運命を背負っているのに、これ以上に多くのことを知る必要はない。
――そう、そのはずだ。そのはずなのに。
(きみも、持ってるものは少ない方がいいだろう……?)
心の中で、ネージュはナズナに問いかけてしまう。
持っているものが少なければ、悲しまずに済む。痛みを味わわずに済む。
記憶がなくても、傷のようなものができてしまうのに。彼女はどうして、あんなにもたくさんのものを求めるのだろう。
ネージュはわからなかった。彼女が外に出たい理由も、友達を作りたい理由も。
友達を作ったって、会えなくなってしまうのに。置いて行ってしまうのに。
だから――ネージュにはできない。
死に別れると、わかっているのに仲を深めることが。
彼女と友達になることは、できなかった。
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