第十一話 友人と隣人と、依頼人
「もういいのかい?」
〈酒場グリシナ〉に来てから二時間。
ネージュと共にカクテルを楽しみ、唐揚げとサラダを平らげ、さらに名物であるカヴァルマという肉と野菜のトマト煮込みまでいただいてしまったフレイは、そろそろ帰ろうかと腰を浮かせた。
革の財布を取り出したフレイをネージュが見上げる。
ネージュの前には、三本の焼き鳥が用意されていた。四杯目のキールはまだ半分以上残っており、もう少し食べていくことが見て取れた。
少しだけ名残惜しそうにされ、フレイはどうしようかと考えてしまう。が、時間を確認し、すまないと一言。財布から硬貨を取り出した。
「買い物してから帰ろうと思ってね。店が閉まる前に行かないと。今日は十分楽しませてもらったよ」
「あのカクテルを作るのか?」
「ああ。あと、お菓子も少し」
「そういえば、君は菓子を作るのがうまかったな」
ネージュはフレイの趣味がお菓子作りだということを知っていた。何度か作ったことがある。彼は毎回、赤色のお菓子を頼むため、印象に残っていた。
「また作ってくれよ。今度は、そうだな……シュークリームとかどうだ? 前に知り合いが持ってきてな、うまそうだった。中のクリームが赤いとさらにいいな」
「さすがにクリームを赤くするのは難しいんじゃないかな」
「だが、できたら面白いだろう?」
「そうだね。機会があったら作ってみるよ」
「約束だぜ」
からりとネージュが笑う。
ああ、約束だ――つられるように微笑みながら返事をして、フレイはイリアに自分が食べた分よりも多めに硬貨を支払った。一つ注文を入れる。
「イリアさん、ジンジャーエールを一本買いたいんだけど」
「ああ、カクテルのためですね。いいですよ、こちらです」
「ありがとう。よかったら、君の好きなお菓子も教えてくれないか」
「私のですか? ふふ、私はお菓子より、お菓子のレシピの方が欲しいですね」
思わぬ答えに、フレイは苦笑した。
「君は、商売に関して抜け目ないね。わかったよ、紅茶カクテルの礼は必ずする」
「お待ちしています」
頭を下げたイリアからジンジャーエールを受け取ると、フレイは焼き鳥を咥えるネージュに軽く手を振った。
「ネジェ、居座りすぎてイリアさんを困らせるなよ」
「困らせてなんかいないぜ。きみは帰り道に気をつけろよ。最近は魔物が出て物騒だからな」
「ああ」
そのまま彼の横を通り過ぎ、店から出ようとする。
が、不意にフレイは、手にしたジンジャエールの瓶を見つめ、立ち止まった。
振り返る。カウンターへと視線を戻そうとしたネージュと目が合った。
「どうしたんだ? 忘れ物か?」
「いや……ネジェ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……? なんだ?」
「……やっぱりいいか。なんでもない」
一つ、問いかけをしようとしたフレイだったが、それを口にすることなく首を横に振った。代わりに、ネージュに笑みを向ける。
「久しぶりに食事ができてよかったよ。楽しかった」
そうするとネージュは目を瞬かせ、満足げに笑った。
「おれもだ。次はきみから誘ってくれよ」
「機会があったらね」
ああ、と頷いて、今度こそネージュはイリアとの会話に戻っていった
その白い後ろ髪を眺めてから、フレイは改めて出口に向かう。
――ナズナのことは聞けなかった。そう思いながら。
(ネジェは、知ってるのかな)
ナズナという少女が、クレイス家に軟禁されていることを。それが領主の意向なのか、それともクレイス家全体で行っていることのか、フレイにはわからない。
ただ願わくば――自分に笑顔を向けてくれるあの友人が、何も知らずにいてくれたいいと、フレイは思った。
入った時はあれほど静かだった酒場は、今は常連客で賑わっていた。途中で雨が止んだのか、ちらほらと他地方から来たと思われる客の姿もある。
彼らの間を通り抜け、フレイは酒場の外に出た。湿った風が銀の髪を撫でる。
月が沈んだ後も、商店街にはまだ人の姿があった。
白煉瓦の道は濡れ、街灯の光を反射してキラキラと光っている。その道を、フレイは東に向かって歩き出す。
カフェ、レストラン、パン屋、魚屋、青果店。花屋に文房具屋に宝石店。様々な店が並んでいるこの商店街は、眺めているだけでも楽しい。どの店からも明るい光が零れ出ていた。
(さて、どこから寄ろうか)
近くの店を見渡し、フレイは最初に青果店に立ち寄った。
先ほどの写したレシピにもう一度目を通し、オレンジとレモンを手に取った。二つずつ購入し、次に向かいの雑貨屋で紅茶の茶葉を買う。隣の花屋では飾りのための花を何種類か選び、買い終わると商店街東口から住宅街への通りを進んだ。住宅街は商店街と比べ、街灯が少ないためかふっと辺りが暗くなった。
フレイの住む家は、住宅街の奥の方に建てられている。
赤煉瓦の壁が目立つ三階建てのその家は、大邸宅と呼べるほど縦にも横にも広かった。もともと宿屋として経営していたのだが、数年前に大幅に改装し、集合住宅として部屋の貸し出しを行うことにしたらしい。家主曰く、こうして誰かと一緒に住みたかった、のだそうだ。フレイはその家の三階にある一番広い部屋に住まわせてもらっていた。
扉を開くと、最初に狭い玄関が目に入った。中は木造建築になっており、右手にカウンターと家主の部屋。カウンターを通り過ぎると住人同士で寛げるラウンジがあり、その左側には食堂、右の廊下の先には小さな浴場が用意されていた。
ラウンジには明かりが灯されていたが、人の姿はなかった。
フレイはラウンジを通り過ぎると、奥の木の階段を上った。二階には部屋が三つあり、そのうちの二つの扉の窓から灯りが漏れていた。確か、一つはまだ空き部屋だった――そんなことを考えながら、廊下を通り過ぎ、そのまま三階へと向かう。
階段を上った先、東側の部屋がフレイの自室だ。そこに向かおうとして……不意に、フレイは眉を顰めた。
「……またこの曲か」
呟きに、苛立ちが混ざる。廊下で立ち止まったフレイは、隣の扉――隣人が住む部屋を睨みつけた。
扉から、騒音が漏れ出ていた。
この集合住宅に住む住民はみな個性的なのだが、特にフレイの隣に住む男は顕著であり、週に一回は爆音を流すと言う悪癖を持っていた。しかも、曲調はどこかのアイドルが歌うアップテンポな曲。それがロックだとさらにうるさかった。
今日はギターが鳴っていた。ピアノと、歌声も。休日とはいえ、音を出し過ぎだ。隣や下に人がいることを考えてほしい。
フレイは顔を顰めつつ大きく息を吐くと、つかつかと扉に歩み寄ってその焦げ茶色の扉をノックした。
トントン。
返事はない。だいたいいつもそうだ。騒音で、隣人は人が来たことにさえ気づかない。
今度は思いっきり叩く。
ドンドン、ドン!
「はいっ――はい!」
小さく声が聞こえたかと思うと、もう一度返事をされた。扉が開く。
姿を現したのは、二度見してしまうほど顔立ちの良い男だった。少なくともフレイは、初めて会った時からそう感じている。
頭の上で雑に纏められた髪は鳶色で、切れ長の瞳は深い緑色。顔つきだけでなく、がっちりとした身体も持った彼は、背がフレイより高くスタイルもいい――はずなのだが、今はだぼっとした服をだらしなく着ていた。しかも素足で靴を履いていない。とてもじゃないが、普段教師をしているとは思えなかった。彼はこの町の西側ある、魔法学校の教師だった。
「……あっ」
さて、そんな隣人だが、どうしてフレイが訪ねて来たのかわかったらしい。しまった、という表情になった。
わかってくれなければ困る。フレイは嘆息した。これまで何度注意してきたことだろう。
「音楽がうるさいよ」
「わ、悪い」
普段はきりりとしている眉を申し訳なさそうに下げて、彼は慌てて謝った。その顔さえ、見ていると不愉快になってくる。
フレイは返事をせずに顔を背けると、扉を乱暴に押し返した。男はもう一度頭を下げ、そそくさと部屋の中に戻っていく。音量を下げに行ったのだろう。次第に音は聞こえなくなった。
「はあ……」
深く息を吐く。
どうも、あの男を見ると不快になってたまらない。
フレイとは真逆の性格をしているだからだろうか。
けだるげで身なりに気を遣っていなく、目に余る。教師をやっている時は、もしかしたらもっとしっかりとしているのかもしれないが、あいにくフレイは彼のだらしない姿しか目にしていなかった。
顔はいいのに。人柄も悪くはないのに、気に食わない。言うなれば、素材がいいのにそれを扱えていない感が、どうしても癪に障った。フレイにしては珍しい感情でもあった。
もしかしたらそれは、彼とのここでの出会いが原因なのかもしれない。彼は――
「君が探偵さんかい?」
不意に声をかけられ、フレイは思考の中断された。はっと我に返る。素早く声の方――廊下の奥に視線を巡らすと、そこに人の姿があった。
今まで暗くて気が付かなかったが、フレイの部屋の前に、一人の女性が壁に寄りかかるようにして立っていた。黒髪黒眼のその女は、顔の部分だけ夜の闇に溶け込んでいるかのようだった。来ている衣服が、真白だったからかもしれない。
驚きに身構えてしまったフレイは、ゆっくりとその緊張を解いた。彼女をまじまじと見つめ、そして先ほどかけられた声を頭の中で反芻させる――君が探偵さんかい?
「もしかして、仕事の依頼かな」
フレイを探偵と呼ぶ人物は、依頼目的の人しかいなかった。
今日は依頼人の訪問予定はなかったが、稀にどこからかフレイの情報を入手し、突然訪れる客がいる。
その予想通り、女性は笑みを浮かべて首肯した。
「ああ。こんな時間にすまないね。家主さんに許可をもらって、ここで待ってたんだ。話を聞いてくれるかい?」
「もちろんだよ」
どんな時間であろうと、依頼人を無下にはしない。
隣人への苛立ちをぽいとそこらに投げ捨てて、フレイは気持ちを切り替えた。先ほどのやり取りを見られていたと考えると複雑な気持ちになるが、ちょうど邪魔な音楽が消えたと思うことにした。依頼人を中に入れるべく、部屋の鍵を開ける。
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