第十話 酒場〈グリシナ〉
ナズナと別れた後、フレイ・ザフィーアはこっそりと洋館から抜け出していた。
時刻は十六時過ぎ。運がいいことに、図書室には誰もいなかった。少しの間、興味のある本を拝借してから、フレイは庭への隠し通路――壁際の本棚の一つが出入り口になっていた――を通って外に出る。
外は雨が降っていた。木を雨避けにしながら、フレイはショルダーバッグが濡れないよう、左腕に抱える。
中には、友人から借りた写真機が入っている。
ナズナのために用意した写真機は、想像以上に喜ばれた。物珍しい機械だとは思っていたが、そこまで感動されると思っていなかったフレイは、柄にもなくほくほくとした気持ちを抱いていた。仕事とはいえ、笑顔を向けられると素直に嬉しい。
自然と口角が上がってしまうことを自覚しながら、フレイは洋館を囲う石塀の角に走る。
背の低い木に隠れたそこには、子供一人が屈んで通れるくらいの穴が開いていた。何かの拍子に崩れたのだろう。その抜け道を、フレイは腹ばいになって潜る。塀の外に出ると、ヘアピンを傘に変化させて雨を凌いだ。
クレイス洋館は、この町テイエースのほぼ中心部にある。洋館の正面、門の前には乳白色のレンガで造られた噴水広場があり、丸い広場に沿うようにしてバラが植えられていた。
テイエースはバラが特産品であった。春バラ、夏バラ、秋バラ、冬バラと季節ごとのバラが植えられ、町民はバラの香りに包まれて生活している。
いつもは賑わっている広場だが、今日は一日中雨が降っているためか、人の姿はなかった。時折通りかかる人は、塀の陰から出てくるフレイに見向きもしていない。
その人達に紛れるようにして、フレイは広場を横切り、東へと伸びる大通りに足を進めた。一瞬だけ、洋館を振り返る。
ここからだと、ナズナの部屋がどこの場所にあるのかはわからなかった。
彼女の部屋に行くには図書室の隠し通路を通らなければならない。その通路は二階のどの位置に続いているのだろう――職業柄気になってしまったフレイは、帰ったら図面でも起こしてみるかと考える。そうすれば、窓からナズナの姿を確認できるかもしれない。
フレイにとって、彼女は特殊な依頼人だった。向こうからではなく、フレイの方から依頼を受けた、通常とは異なる客。
――それが依頼なら、引き受ける。
その言葉だけで、会いに行くという依頼を受けてしまったのは、本当に、ただの成り行きだった。計画していたわけではない。
だが、彼女のあの異様な環境を知った時、放っておくという選択肢は存在しなかった。
初めてナズナに会った日、隠された部屋に独りでいたナズナは、酷く寂しそうな顔をしていた。そして二回目の訪問時、軟禁されているという現状を仕方のないことだと受け入れ、自由になることを諦めていた彼女の心に触れた。
情が、湧いた。もしかしたらフレイにも、そういった経験があったからかもしれない。
結果、フレイは彼女に手を差し伸べた。
そして今、その選択は間違っていなかったとフレイは思っている。頬を高揚させ、花のような笑顔を咲かせたナズナを見た時、心の底から安心したのだ。何故か、自分の方が救われたような気分にもなった。
(まあ、らしくはないと思うけど)
フレイは基本、他人の事情には首を突っ込まないようにしている。それでも、彼女とだけはこれからも関わっていくだろう。
それにだ――フレイは個人的に、彼女に対して後ろめたく思っている部分もあった。
(……まさか部屋で育てられてしまうとはね)
ふと、何度も忘れようとした、あの日見た光景を、フレイは鮮明に思い出してしまった――
――ナズナに会う、一週間前のことだ。
フレイはクレイス洋館に一通の手紙を送っていた。
空に飛ばした魔法鳩。その中には、小さな種を入れていた。
ダンデライオンの種――それをクレイス家に送ったのには理由がある。
フレイは探偵だ。ナズナにも言ったように、依頼であれば何でも引き受ける。
その時のフレイは、「クレイス家の秘密を探ってほしい」という依頼を受けていた。
依頼内容に不信を抱かなかったわけではない。けれど、領主が持つ秘密、というのには興味があった。
だからその依頼を受け、フレイはダンデライオンの種を飛ばした。
種には、魔法がかけてあった――捜索魔法という、特殊な魔法が。それは、魔法をかけた物体が見聞きした情報を得られる、というものだった。
つまり、成長したダンデライオンが見た景色が、フレイの頭の中に入って来るのだ。フレイは種が庭に着地し、花を咲かせてくれることを願い、その時を待った。
そして一週間後、ダンデライオンは花開いた。
朝だった。まだ寝ていたフレイは、夢と現実の狭間で、その光景を見た。
最初に、白とピンクで彩られた広い部屋が見えた。そこには一人の女の子がいて、彼女は机で書き物をしていたかと思うと、不意に立ち上がり、クローゼットを開いた。そこで……おもむろに脱ぎだしたのだ。白いネグリジェをぱさりと床に落とし、肌着姿になる。その姿で衣服を選んでいたかと思うと、不意にこちら――花の方を向き、驚いた顔をして近づいてきて、前屈みになって花を見つめた。
彼女のその白い肌が、ほんのり膨らんだ胸が脳裏いっぱいに広がった時――悲鳴と共にフレイは飛び起きた。
(あれじゃまるで覗きじゃないか……!)
まざまざと蘇ってしまい、フレイは一人赤面した。ぶんぶんと首を横に振り、今の光景を忘れようと努める。揺れた際に雨の雫が肩に落ち、青のカーディガンに染みを作った。
このことは、ナズナに話せなかった。話せるわけがなかった。そのためフレイは、一方的にナズナに対して罪悪感のようなものを抱くことになった。
もちろん、すぐに回収しに行ったダンデライアンの魔法は解いてあり、もう枯れて種になっている。代わりにと彼女にあげた種には魔法をかけていないため、同じことを繰り返すことはもうないだろう。けれど、見てしまったものはフレイの中では消せず、フレイは彼女に弱みを握られるような形となってしまった。今後、彼女に何かお願いされたら、断れるかどうか定かではない。
(ほんと、馬鹿なことした……)
だが、すべてがすべて、悪いことだったわけでもない。おかげでクレイス家には隠された部屋があり、ナズナという少女が軟禁されているという情報は得ることができた。
それは、受けていた「クレイス家の秘密を探ってほしい」という依頼を達成する材料となった。
彼女の存在を依頼人に話すと、依頼人はそれはそれは満足していた。
依頼人が何を思ってクレイス家を探っていたのかまでは、フレイは関与しない。依頼があれば受け、依頼人の事情に必要以上に踏み込まないのがフレイのやり方だ。
しかし、もしもその依頼人がナズナに危害を及ぶようなことをしたら……フレイはそれは止めるかもしれなかった。何故なら、現在受けている依頼が達成できなくなるからだ。
ナズナに会いに行く。現在はそれが、一番優先すべき仕事だ。
広場から東に伸びた大通りは、途中で商店街と住宅街へ通りが分かれている。南東に行けば商店街、北東に行けば住宅街に入ることができた。
今日はこのまま帰る予定だったフレイは、住宅街の方に向かおうとした。ほかに抱えている依頼はないし、帰ってゆっくり本でも読もうとそう考えていた。のだが……ちらりと見た際に、見知った人物を見つけてしまった。相手もフレイに気づいたらしい。お、と目を輝かせると、その少年は傘の下で手を上げた。
「フレイじゃないか! よっ、こんなところでなにしてるんだい?」
雪のような真っ白な髪に、深い紅色の瞳。ぶかぶかのローブを羽織り、駆け寄ってくる彼はフレイのよく知っている人物だ。
ネージュ・ラパン。フレイの友達であり、そして今しがた忍び込んでいた、クレイス家の義息であった。
四年前に知り合った二人は、その当時からよく行動を共にしていた。だが、最近ではネージュの方が多忙を極めており、こうして顔を合わせるのは久しぶりだった。
「ネジェ、久しぶりだね。俺は出先から帰るところだけど……お前こそ、ここにいていいのかな。魔物退治に行ってたんじゃないのか?」
「ああ、今帰ってきたところなんだ。というか、よく知っているな。そんなに有名だったか?」
「ベッセル教会が襲われたからね、それなりに情報は入って来るよ。ローブが汚れてるけど、怪我はない?」
「怪我なんかするわけないだろう? きみこそ、探偵の仕事とか言って、変なことに巻き込まれていないよな?」
「……巻き込まれてはないよ」
視線を逸らしつつ返した。先ほど、クレイス洋館に忍び込んでいたとは言えない。
ネージュは「へえ?」とフレイを見上げたものの、追及してくるようなことはなかった。話を終わらすと、そうだ、と手を打つ。
「フレイ、久しぶりに食べに行かないか? いい店があるんだ」
そこに、フレイを探るような気配はなかった。単純に、久しぶりに友との食事を楽しみたいと言う、彼の純粋な感情が赤い瞳に宿っていた。
この後、フレイに予定はない。夕食もまだだったこともあり、たまには誰かと食事をするのもいいかと考えた。
ネージュの誘いに頷きを見せる。
「いいよ、いこうか。あ、いい店って、もしかしていつもの酒場?」
「ああ。あそこはうまいんだ」
「知ってるよ。けど、ネジェはまだ十六だろ? 酒場じゃなくて、たまにはカフェとかレストランに行ったら?」
「ああいう洒落た店はつまらん。酒は飲んでいないんだからいいだろう? それに、おれと同い年の店員もいる。何か問題があるのか?」
「はあ……もういいよ。とりあえずその店に行こう」
ネージュが言ういい店、もとい酒場は、商店街の一番西側に存在していた。ここからはかなり近い。
〈酒場グリシナ〉と、そう書かれた木の看板が目印だ。木造建築のその店は、古くからあるため年季が入っていたが、それがまた町の人たちに愛されていた。常に賑わっているのがフレイからの印象だ。
しかし、着くなりフレイは町の時計塔を見上げた。〈酒場グリシナ〉の開店時間は十七時。時計はまだ十六時過ぎを示していた。
「ネジェ、早すぎたみたいだよ。少し寄り道してからまた来よう」
「いや、もう開いてるぜ」
ネージュはそう言うと、まだ開店前だというのに遠慮なく木の扉に手をかけた。
「おいっ」
慌てて制しようとしたが、大丈夫だとばかりにネージュは中に入って行ってしまう。
会ったときから、彼はこういうところに遠慮がない。仕方なく、フレイも傘をたたんで中に足を踏み入れた。踏んだ木の板がギシ、と音を当てた。
光の魔石を使わず、ランタンの明かりのみを使用している店内は薄暗かった。けれど、オレンジ色のその灯は暖かく、訪れたフレイたちを穏やかに迎え入れてくれた。
開店前だからだろう。店内に客の姿はなかった。入口に近いところにある大人数用の丸卓は綺麗に磨かれており、奥のカウンターに一人だけ少女の姿があった。彼女がネージュと同い年だという店員だ。
「イリア、食べに来たぜ」
まるで友達に話しかけるかのように、ネージュは店員に声をかけた。
イリア、と呼ばれた店員は、腰まで伸ばした紫色の髪と、同じ色の釣り目がちな瞳が印象的な少女だった。少女、というには背が高く、大人びた顔つきをしているため、二十歳と言われても頷いてしまいそうだ。
彼女はネージュを映すと、柔らかく笑った。
「いらっしゃい、ネジェ。と言いたいところだが、まだ開店前だぞ」
やや低い、けれど耳に心地いい美声でイリアは注意する。
気にする様子もなく、ネージュはカウンターの椅子に腰かけた。
「いいだろう、少しくらい。いつも入れてくれるじゃないか」
「お前が注意しても聞かないからだ。まあいいや……と、今日は連れがいるのか?」
「ああ。フレイもこっちに来いよ」
呼ばれ、フレイはネージュの横に歩み寄る。
フレイもこの店にはよく足を運ぶ。店員とも知り合いだった。改めて彼女、イリア・グリシナに声をかける。
「こんばんはイリアさん。すまない、開店前なのに入ってきてしまって」
「いいですよ、いつものことですし。……ネジェはいつも通り唐揚げとキールだよな。フレイさんは何にします?」
「俺は……って、キールってお酒じゃないのか?」
「ああ、カクテルですけど、ノンアルコールなんで安心してください。いくら友達とは言え、未成年の奴にアルコール出したりはしませんよ」
イリアのその言葉に、フレイは安心して息を吐いた。
この国ではアルコールは二十歳からだ。ネージュがその法律まで破るとは思っていないが、少しだけ驚いてしまった。
ちなみにフレイは酒が飲めなかった。
「じゃあ俺はとりあえずサラダと、唐揚げももらおうかな。飲み物は紅茶がいいんだけど」
「では、紅茶ベースのカクテルを作りましょうか。もちろん、ノンアルで」
「ああ、それで頼むよ」
「かしこまりました」
丁寧に頭を上げると、イリアはカウンターの奥へと向かい、カクテルを作り始めた。カラン、という氷の音と、ドリンクの注がれる音が聞こえてくる。
その音色に耳を傾けながら、フレイはネージュの隣に座った。
「客がいないと静かだね」
「ああ。だがすぐにうるさくなるぜ。フレイは静かな方が好きかい?」
「いや、こういう賑やかな店も嫌いじゃないよ。ここは雰囲気がいいからか、不思議と落ち着く」
「おれもだ。それに、いろんな話が聞こえてくるからな、ただいるだけでも飽きない」
「確かに、酒場には他地方の人たちも訪れるからね」
フレイは普段は人が少ない場所――一番はやはり自室である――を好むが、たまにはこういった賑やかな場所に足を運ぶのも悪くはないと思った。もっとも、今日は賑わう前に店を訪れてしまったわけだが。
だがネージュの言う通り、少しすれば店が開き、常連客や観光客たちが足を運ぶだろう。淡いランタンの光の中、雨の音が聞こえないくらいに人の声がざわめき、料理の匂いが鼻をくすぐる。飛び交うのは笑い声や商談、噂話に自慢話。時折喧嘩の声や歌声が響き渡ることもあったが、それも酒場のよさと言えるだろう。
「お待たせしました」
カウンターにカクテルが運ばれてくる。
ネージュが頼んだキールは、彼の瞳のような鮮やかな赤色をしていた。グラスの淵には白のミニバラが添えられている。
ジュピター地方には、料理に花を添えるという文化があった。この店では、その花にミニバラを選んでいるらしい。フレイの方に滑らされた紅茶カクテルにも、青いミニバラが乗せられていた。
「へえ……綺麗だね。センスがある」
中にスライスオレンジが揺蕩うグラスは、上に咲いた青と相まって幻想的な雰囲気を醸し出していた。とても、酒場で作られたとは思えない逸品だ。飲むのがもったいないくらいで、フレイは暫しそのカクテルに見惚れた。
横では、赤いグラスを片手にネージュがフレイを待っていた。
「フレイ、いつまでそうしているんだ。早く乾杯しようぜ」
「……ああ。そうだね」
声をかけられて、ようやくフレイは我に返る。
左手にグラスを持つと、ネージュに向けて掲げた。そこに、キールのグラスが近づく。青と白の花弁が揺れた。
「じゃ、仕事お疲れってことで、乾杯!」
「ああ、乾杯」
チリンと、グラスの触れ合う音が静かな店内に鳴り響く。
フレイはゆっくりとグラスを傾け、カクテルを口に含んだ。途端、微炭酸と共にオレンジの爽やかな甘みが舌の上で弾けた。そこに交じる紅茶の風味は新しい。
「……おいしい」
思わず声が漏れる。
ランタンの光を受け、淡く輝くグラスをもう一度まじまじと見つめる。それから、唐揚げとサラダを持って来たイリアに視線をやった。
「イリアさん。これ、どうやって作ったのかな」
「気になりますか?」
「ああ。お菓子にも合いそうだ」
自分の家でも作ってみたい。そう口にすれば、イリアは思わずといったように苦笑した。
「それ教えたら、私の店に来てくれなくなるのでは?」
「そんなことはない。君のカクテルは新しいから、次は違うのを頼みに来るよ」
「ふふ、それならいいでしょう。少々お待ちくださいね」
イリアは一度カウンターの奥へと行くと、一冊のノートを手に戻ってきた。それを広げ、フレイに見せてくれる。隣からネージュも覗き込んだ。
そこには、様々なカクテルのレシピが絵付きでびっしりと書かれていた。
フレイが注文した紅茶カクテルを、イリアが指で示す。
「これです。オレンジのほかに、レモンや桃なんかも合いますよ。普段は紅茶リキュールを使うんですが、ノンアルでしたらリキュールをジンジャーエールに変えてください。蜂蜜を加えれば甘さをプラスできます」
「へえ……」
フレイはショルダーバッグからメモ帳を取り出すと、そこにレシピを書き込んでいった。
帰りに商店街に寄って、必要なものを買い揃えよう。そう考える。
「家にないのは、ジンジャーエールと果物か……」
果物は何を買っていこうか。少しアレンジしてみるのもいいかもしれない。クッキーのために購入したジャムを使ってみるとか。お供のお菓子にはやはりあのクッキーか、それともケーキにしようか。
(……あの子は、どんな顔をするかな)
クッキーのことを考えると、自然とナズナの顔が脳裏に浮かんだ。
フレイの作ったクッキーを宝石のようだと口にし、笑顔で食べてくれた彼女は、このカクテルを目にしたらどんな表情を見せてくれるだろう。なんて言葉を口にするだろう――「美味しすぎる」と身体を震わせる彼女を、もう一度見たくなった。
そっと、手帳の端に書き込む。
――次のおやつは、紅茶カクテルに宝石のクッキーを。
カランと、グラスの中で氷が揺れた。
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