第八話 ナズナの依頼

 お礼がしたい。そう言ったフレイは、隣の椅子に置いていたショルダーバッグを何やら漁り始めた。

 ナズナはまだ彼を通報するかどうか迷っていたが、とりあえずそのお礼とやらを見ることにした。別にお礼が欲しくてヘアピンを届けたわけではないのだが、ナズナのために用意したお礼というものは単純に気になった。

 フレイの目の前に座ると、彼は机の上に青のリボンでラッピングされた紙袋を取り出した。袋にはネモフィラの絵が描かれており、差し出されたそれをナズナはおずおずと受け取る。

 何が入っているのだろう――金属よりは軽いが、花よりも重いそれは、すぐには何かわからなかった。外から触ると、中のものが上下に動く。入っているものは一つではない。平たい何かが、いくつも入っている。ナズナはフレイを見やった。彼は開けてみてとばかりに目で袋を示した。


「お金、じゃないですよね?」


 袋に入ったお金を差し出す風景が頭に浮かび、ナズナはそんなことを訊いた。

 他地方の領主や、商人とのやり取りで多額の硬貨が動くことはクレイス家では少なくない。口封じのために、ルナールが硬貨を握らせる場面にもナズナは遭遇していた。それと似たものを感じたのだ。 

 しかしナズナの問いかけに、フレイは眉を顰めた。


「違うよ。そんな如何わしいことはしない。それとも、お金が欲しかったのかな」

「そんなことないです!」


 ナズナは強く否定した。お金は小遣いとしてルナールから毎月貰っている。本か花か、髪飾りのようなアクセサリーか、それくらいしか買いたいものがないため、ナズナは必要以上のお金は欲していなかった。

 では、これは何なのだろう。ナズナは十字になった青いリボンを外し、中を覗いた。入っているものが見える前に、甘い香りがふわりと漂ってきた。香ばしいバターとジャムのにおい。ナズナは目を見開いた。


「もしかして……」


 左手を広げ、中のものを三つほどその手に滑らせた。

 それは、可愛らしい形をしたクッキーだった。どれも花の形をしており、花の真ん中――固有名詞で言うならば柱頭部分――に苺やオレンジのジャムが流し込まれている。まるで、お菓子でできた花だ。宝石のようにも見えるそれに、ナズナの目は一瞬で惹かれる。


「こんなクッキー、初めて見た……きれい、宝石みたい」

「そんな大層なものじゃないよ。その辺で売ってるのと大して変わらない」

「わたしのために、買ってきてくれたんですか?」

「いや、作ってきた」

「作った!?」


 二度目の驚きがナズナを占める。

 こんな宝石のようなクッキーを、この青年はナズナのために作ってきてくれたのだろうか。その間、一度しか会っていないナズナのことを考えて。

 そう思うと、きゅう、と胸の辺りが締め付けられるような感覚を覚えた。

 なんだろう、悲しくないのに、泣きたくなるようなこの感情は。胸が苦しくて、何かでいっぱいになる。


「……嬉しい」


 その気持ちは、まるで、溢れ出すようにナズナの口から洩れた。

 そうだ――嬉しい、のだ。

 お礼とはいえ、ナズナのためにクッキーを用意しようとしてくれた。その彼の心が温かくて。

 数分だけの出会いだったというのに、彼がナズナのことを忘れないでいてくれたことが、たまらなく嬉しかった。


「嬉しいです、フレイさん。ありがとうございます」


 浮かべた笑みは、ふにゃりとした、泣き笑いのようになってしまった。


「……ああ」


 フレイは他に言葉は重ねず、その一言だけを返した。


「でも、食べるのもったいないな。あの、一つだけ残してもいいですか?」

「その一つが逆にもったいないだろ。いつでも作れるから、全部食べなよ」

「ええー……でも、そうですよね。じゃあ苺から、いただきます!」


 手に乗せた赤いジャムのクッキーを口に入れる。

 花弁になっていたクッキー生地は少し噛んだだけでほろりと砕け、噛みしめればバターの香りが口いっぱいに広がった。それに重なるようにして、今度は苺の甘酸っぱさが舌の上を転がる。甘すぎず、ちょうどいい。サクサクとした触感に混ざる、苺の果肉も絶妙で、ナズナは衝撃に身体を震わせた。


「なにこれ、美味しすぎる……!」


 感動は、しかしすぐに口の中で溶けていってしまう。ナズナは次のクッキーに手を伸ばした。


「あっ、これはオレンジ味だ。こっちはブルーベリー! これは林檎、かな?」


 他にもレモンにピーチにチョコと、ジャムの種類は驚くくらいに豊富だった。いくら食べても飽きる気がしない。食べるのがもったいないのに、食べてしまいたい。クッキーを摘まむ手は止められず、矛盾したその思いさえも幸せだった。

 フレイはそんなナズナを、ただただ静かに見守っていた。


 気づけば袋の中は空になっており、反対にナズナの胸はお菓子のような甘い幸せでいっぱいになっていた。

 こんなにも幸福な贈り物が今までにあっただろうか。過去のどの贈り物、どの菓子よりもナズナは満たされていた。食べ終わった今も、幸せの余韻は頭を痺れさせているかのように残り、指が無意志に袋の中を漁っている。もう、零れた欠片しか残っていないのに。その欠片さえも掬いたかった。


「満足してもらえたみたいでよかったよ」


 ナズナにかけられたフレイの言葉は穏やかで、それでいて戸惑っているかのような響きも持っていた。驚いたのだろう。こんなにもがっつくように平らげてしまったナズナに。

 すべて見られていたことを今になって自覚すると、ナズナは急に恥ずかしくなった。赤くなった顔を隠すように両頬に手をやり、俯く。指についていた欠片が机に落ちた。


「ご、ごめんなさい。あまりにも美味しくて、つい……」

「いや、そう言ってもらえると作った甲斐があるよ」


 優しい声と共に、フレイは少しだけ笑みを見せた。


(あ……笑った)


 その柔らかな微笑みは、とてつもなく綺麗だった。水晶のような美しさと冷たさを持っている顔に、淡い蝋燭の火が灯ったかのような、そんな笑み。ナズナは暫し見惚れ、それから慌てて顔を逸らした。ドキドキと、何故だか胸が騒いでいた。


「君は、ここではあまりいい扱いは受けてないのかな」


 唐突に、フレイはそんな質問を投げかけてきた。


「へ?」


 質問の意図がわからず、ナズナは逸らしていた顔を戻す。ぽかんとフレイを見返すと、笑みを消してしまった彼は、どこか複雑そうな表情でナズナを見つめた。


「まるで、食べ物を与えられてない子どもみたいに食べてたから」

「え、そんなふうに見えてました?」

「ああ。君は、この洋館に軟禁されてるのかな」


 すぐには答えられないくらい、ド直球な問いかけだった。けれど彼は、おかしなことを訊いているとは思っていないようで。むしろ、ナズナのことをを案じ、心配していた。

 ナズナは、人に心配されるのが苦手だ。けれど彼の案じは、この洋館の人たちとは少し違うと感じた。

 この洋館の人たち――例えばネージュやミーチェは、ナズナを心配するとき、怪我していないか、病気になっていないかと、ナズナの生存を確認する。それはナズナが『月の子』であるから。失ってはいけないからだ。

 しかし今のフレイは、ナズナの状況を案じていた。

 この洋館の中で、隠された部屋で、一人で過ごしている。それが、普通ではないと、彼の表情は語っていた。

 おそらく、この反応は正しい。

 レイシスも、時折同じような目を向けてくることがある。ナズナを見て、可哀そうだと思う、同情の視線。

 向けられたその感情は、素直に嬉しかった。

 ナズナは頬に当てたままだった両手を下ろすと、空になった袋を握った。


「軟禁、かもしれません。でも、仕方ないんです」


 笑って、静かに言った。

 僅かに目を見張ったフレイのガラス玉のような瞳には、が映っていた。『月の子』ではない、ナズナ自身が。それはきっと、彼がナズナを『月の子』だと知らないからだ。

 ナズナはずっと、誰かに『月の子』という特別ではなく、普通の子として見てほしいと思っていた。意図せず、彼はその願いを叶えてくれていた。

 それが見えたから、ナズナは言えたのかもしれない。仕方ないんです、と。


「理由は、答えられないんですけどね。でもいいんです、ごめんなさい」


 彼の疑問に答えられないことはもどかしくもあったが、ナズナは自分勝手に、それでいいのだと言った。

 だってフレイは、軟禁されているナズナを見つけ、覚えていてくれた。クッキーまで作ってくれた。ナズナの方は、お礼なんてなんにもできないのに。

 それだけで十分だと思った。彼と出会えただけで。ナズナには、これ以上望むことはない。

 しかし――彼はその答えに、満足できなかったらしい。


「……俺は探偵だ」


 諦めたような笑みを浮かべたナズナに、フレイはそんなことを言った。「へ?」とこれまたナズナは間の抜けた声を出してしまう。


「探偵? 探偵って、あの、小説とかに出てくる?」

「君がどういうのを想像してるかは知らないけど、普段、依頼を受けて仕事をしてる」

「う、うん」

「依頼であれば、君を外に出すことができる」

「……!」


 それは、思ってもみない言葉だった。

 息を呑んだナズナに、フレイは言い放つ。


「依頼は必ず果たす。それが探偵だからね」


 あろうことか彼は、こんなにも外に出ることに対して諦めを重ねてきたナズナに、手を差し伸べてきたのだ。

 まるで空から光が降り注ぐかのように、その光に導くかのように。彼の言葉はナズナの心を大きく揺さぶった。

 初めてだった。そんなことを言われたのは。

 それはそうだろう。クレイス家では誰も、そのようなことは言えないから。ミーチェやネージュが、たまにナズナを外に連れ出したいといった表情を覗かせることはあった。けれど彼らはその瞬間、言葉を飲み込む。無理だから。できないから。そしてそれをナズナも受け止め、理解し、彼らに従ってきた。

 それなのに彼は――フレイ・ザフィーアという男は、こんなにも簡単に言ってのける。君を外に出せると。ないはずの道を、なかったはずの選択肢を作り出す。

 だからナズナ自身が、信じられない、といった顔をしてしまうのは当然だった。

 そして――出たいと言う心に反して、すぐには頷けないことも、仕方のないことだった。


「……できないよ」


 ナズナは差し出してくれた彼の手を、握ることができなかった。


「どうして」

「だって、わたしは……」


 『月の子』だから――その言葉をすんでで押し留める。

 もし、外に出てもいいと言われたら、飛び上がるくらいに喜び、真っ先に飛び出すという自信がナズナにはあった。けれど現実では、それを提示された途端、迷いが生じた。

 『月の子』の理性が、止めたのかもしれない。ずっとずっと守り続けてきた呪縛のような決まりを破るのが、怖かったのかもしれない。もしかしたら、これを言ったのがクレイス家の魔法使いであったならば、外に出ていたかもしれない。

 でも、実際に言葉にしたのは、外から来たフレイだった。

 自由を求めていたのに、ナズナはここで素直に、欲望のままに頷くことができるほど無責任にはなれなかった。

 ナズナの無言を受け止めたフレイが、そう、と声を落とした。


「無理にとは言わないよ。でも、君がもし何かを我慢してるんだとしたら……そこから抜け出すことを、諦めないでほしい」

「フレイさん……」

「余計なお世話だったら忘れてくれ」

「そんなことありません……!」


 全力で首を振った。余計なお世話などではない。彼の言葉は、泣きたくなるほど嬉しかった。

 その手をつい、掴みたくなるほどに。だけど、それだけはしてはならない。

 してはならない、けれど……。


「……一つだけ」


 ナズナは諦めないでと言ったフレイに、縋るように想いを零した。

 もしも。もしもその手を取れなくても、わがままを聞いてくれるのならば。


「なら、一つだけ願いを――ううん、依頼をしても、いいですか……?」

「うん。いいよ」

「……また、会いに来てくれませんか……? またクッキーを、作ってほしい……」


 先ほど感じた幸福は、手放したくは、ない。

 泣きたくなるくらいに嬉しくて。胸が苦しいくらいの幸せを。もう一度、与えてほしい。

 甘酸っぱいクッキーと共に、特別ではない言葉を。特別ではない瞳を。

 それがあれば、独りでも大丈夫だから。

 これがナズナの今できる、唯一の願いだった。

 フレイは――ただただ黙ってナズナを見つめていた。逸らすことも、笑うことも、憐れむことも一切なかった。淡々とナズナを見つめ、そしてナズナが選んだ選択肢と言葉に、強く頷いた。


「ああ、わかった」


 それが依頼なら、引き受ける。

 彼のその言葉に、嘘はなかった。

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