第二章 探偵と宝石クッキー

第七話 予想外の再会

 六月に入ると、じめっとした空気が外だけでなく、洋館内にも現れるようになった。

 季節は春と夏の間の梅雨。梅雨という時期があるのはジュピター地方だけだった。毎年六月は、毎日のように雨の日が続く。そのおかげで自然豊かな地方となっているのだが、ナズナは雨が好きではなかった。昔から、月が見えないと体調を悪くしがちだった。

 ソファに浅く腰を掛け、机に頬杖を突き、はあとため息を零す。これも、『月の子』の性質なのだろうか。


「――だから、魔法を使う時は自分の魔力量に注意しなければならない。特に上級魔法は……ナズナ?」


 右耳から左耳へと流れていた低い声が不意に止まる。ナズナは名を呼ばれ、はっと我に返った。

 机を挟んだ目の前に、背の高い男性が座っていた。

 白シャツに黒ズボン、上に黒の魔法ローブを羽織っている彼は、執事長ルナールに雇われたナズナ専属の魔法教師だ。年齢は確か二十四と言っていた。

 鳶色の長髪を頭の上で一つに纏め、深い緑色の瞳を持っているその教師は、端正な顔立ちをしていた。クレイス家の面々に負けないくらいのイケメンだ。キリリとした眉はとても勇ましい。

 そんな彼――レイシス・ヴィルデはナズナが具合悪くしていることに気がついたのだろう。授業を止めると、じっとナズナを見つめた。


「今日はこの辺で終わりにしておくか?」

「……いいんですか?」


 思わず訊ねてしまったのは、まだ彼が来てから一時間も経っていなかったからだ。柱時計は十四時前を示している。

 ナズナは学校に通えないため、平日はこうして教師の方から訪れてもらい、十三時から十七時の間部屋で授業を行っていた。時折、魔法を使う授業――実技魔法と呼ばれている――のために訓練場に移動することもある。今日は確か、一時間ほど魔法理論を習った後、三時間実技魔法を行うと予定が組まれていた。

 ナズナの問いかけに、レイシスは無表情のまま、ああ、と頷いた。スケジュールの書かれた紙に目を落とす。


「この後、実技魔法だが、体調の悪い生徒に魔法を使わせるわけにはいかないからな。魔法は魔力のほかに、体力や精神力も使う。倒れられたら困る……主に俺が」

「先生が?」

「お前に何かあったら怒られるんだよ、ルナール様に」


 ため息交じりに言ったレイシスはげんなりとした表情をしていた。ナズナを責めているのではなく、執事長のことを考えているようだ。

 前々から気づいてはいたのだが、彼はこのクレイス洋館に住まう魔法使いたちを苦手としていた。特に、ルナールとミーチェには恐れのような感情を抱いている。


「先生はルナール様が怖いんですか?」

「まあな。ただ者じゃないだろ、あのお人は。ナズナは平気なのか?」

「いえ、わたしも苦手です。勉強とかマナーにうるさいし、時間に厳しいし、お菓子もくれない!」


 不満をぶつけるようにそう言うと、雨のせいで鬱々としていた気持ちが晴れた気がした。

 レイシスが失笑する。


「ははっ。お前も色々大変なんだな」

「だからね先生。授業なくなったこと、ちょっとだけ嬉しいんです」

「あ、お前、だからわざと、じゃないだろうな?」

「ち、違いますよ、具合悪いのは本当です」


 彼のおかげで、少しだけよくはなったけれど。

 レイシスはもう一度ナズナを見やると――おそらく、顔色が悪かったのだろう――、お前は少し休んでいろと言い、教科書を鞄にしまい始めた。ナズナは教師の言葉に甘え、ソファからベッドに移動する。ふかふかの掛布団がナズナを包み込んだ。


「そうだ先生。ルナール様にはわたしから言っておきますよ。わたしが体調悪かったんで、授業終わりにしてもらいましたって。先生が怒られないように」

「それは助かるが、いいのか? 帰るついでに言いに行くことはできるが」

「実は今日、ルナール様出かけているんです」


 ルナールだけではない。ミーチェとロッシュ、それから学校から帰ってくるはずのネージュも、今日は洋館に戻らずに出かけていた。

 ネージュはともかく、メイドや使用人、ましてや執事長が昼間から出かけるなど、本来ならほとんどない。ということはつまり、今日の彼らの留守は――


「また魔物か」

「はい……」


 魔物退治を意味していた。

 数日前、ベッセル教会が襲われたあの日から、魔物の出現は増え続けているらしい。まるで、どこからか湧き上がって来るかのように。

 怪我人は出なかったが、これ以上町を危険に晒してはいけない。ネージュたちは魔物の出所を突き止めるべく奮闘していた。未だ、成果は上げられていなかったが。

 窓の外から雨の音が聞こえてくる。この雨の中、魔物と対峙しているかと思うと、どうしても心配になった。


「先生は、魔物って見たことあります?」


 ベッドに横になったまま訊いてみる。椅子の上に鞄を置いて立ち上がったレイシスは、ナズナの問いにああ、と頷いた。


「何度かな」

「どんな姿をしているんですか? ミーチェたちは教えてくれないんです」

「そうだな……見た目は動物や植物のような形が多い。色は黒く、目は赤い。そして、殺すと灰になる」

「灰?」


 再び首を縦にして、レイシスはナズナにもわかるように説明してくれる。


「魔物はもともとはただの生き物だったと言われている。生き物が魔力暴走を起こし、異形化したものだと。その身体はもう、魔力の塊だ。だから、殺すと跡形もなく消えてなくなるんだ」

「なんにも残らないんですか?」

「何も残らない。魔法のようにな」


 ああ、だが――一度否定してから、レイシスは一つだけ言い直した。


「血だけは残る。その血だけが、生き物であったという証拠を残しているようで――」


 と、途中で言葉を切り、彼は悪い、と謝った。


「あまり気分のいい話じゃないな。今のは忘れてくれ」

「いえ……あの、魔物って、元には戻らないんですか?」


 ナズナは身体を起こし、そう訊ねた。

 魔物はもともと生き物だった。それを聞いたとき、すぐにこの疑問が頭の中に浮かんだ。魔物を元に戻せれば、襲われることもなくなるのではないだろうかと。

 しかし、レイシスは無情にもそれはできないと断言した。


「方法がないんだ。これは一般の者は知らない話なんだが……生き物を魔物化させている原因は、太陽の魔力らしい」

「太陽の?」


 太陽。それは今は封印されし神の名だった。

 過去、地上を焼いた太陽神。レイシスの話によると、月の魔法石の結界ができる前、生き物の多くが太陽神の魔力を受け、異形化したらしい。その時の魔物が数百年経った今もなお生き残っており――そして今現在、何らか原因で新たに生まれ出ている。

 彼らに影響を与えたその太陽神の魔力だけを消し去ることができれば、魔物は元に戻るかもしれなかったが、その方法が見つかっていないのだった。


「おそらく、ナズナのように考えた人もいたんだろうが……今はもう諦めているのかもな」


 だからこそ、クレイス家は魔物を殺すことで、処理している。これ以上被害を増やさないように。致し方ないことのように思えた。


「元に戻すのは不可能、なんだ……」


 その答えにナズナは落胆し、布団に顔を突っ伏した。


「うぅー……それができたら、魔物に襲われることなんてなくなるのに……」


 ベッセル教会も無事だっただろうし、ネージュたちが魔物退治に行く必要もない。もしかしたら、ナズナが閉じ込められる必要もなくなるかもしれない。だってクレイス家が『月の子』を外に出さないようにしているのは、その命を守るためなのだから。魔物がいなくなれば、命の危険はなくなるだろう。太陽のことが疎ましくなった。


「どうして太陽は魔力暴走しちゃったんだろ……」


 それは解のない問いかけだった。その理由も、いまだに解明されていない。

 わからないことが多いのは、気持ちが悪かった。また気分が落ち込んでくる。

 そんなナズナの頭に、レイシスの手が乗った。


「あんまり難しく考えるなよ。そういうのは、偉い学者に任せておけばいいさ」

「レイシス先生は? 解き明かしたりはしないんですか?」

「俺にそんな頭脳はないからな。こうして、教師としてお前に魔法を教えることしかできん」


 ぽんぽんと二度ナズナの頭を軽く叩き、レイシスは鞄を手に持った。相変わらず、窓からは雨の音がうるさいくらいに鳴り響いている。

 顔を半分布団に埋めたまま、ナズナは目だけでレイシスを見上げた。


「お気をつけて。傘は持ってきました?」

「杖を変化させられる」

「あ、そっか」

「明日は実践魔法やるからな。それまでに体調治しておけよ」

「雨止めてくれたら治りまーす」

「そんな魔法はない」


 それだけ言って、レイシスは部屋を出て行った。気遣ってくれたのだろう。扉は音を立てないようにゆっくりと閉められた。

 誰もいなくなった部屋の中で、ナズナは態勢を変える。仰向きになると、天井を見上げて息を吐いた。雨のせいか、先ほどの話のせいか、頭は重い。やはり一度寝た方がいいだろう。

 けれど、その前にハーブティーが飲みたくなった。いつもシアンが入れてくれる、ラベンダーティー。ちょうど喉も乾いたしと、ナズナはそうっと身体を起こした。


「レイシス先生にシアンさん呼んでもらえばよかったな……」


 一人ごちて、ベッドから降りる。

 シアンはこの時間、一階で仕事をしているはずだ。十七時を過ぎるまで、授業の邪魔をしないようにと家から言われているのだ。シアンと、彼女の兄ルナールが生まれたキャンベル家は、先祖代々クレイス家に仕えている家系だった。

 ナズナは仕方なく、部屋からを出て階段を下りた。

 回転式の本棚を回し、図書室に出る。と、そこでナズナは人の気配があることに気が付いた。


(誰かいる?)


 ぱらり、と紙が捲れる音が聞こえる。使用人たちだろうかと考えて、それは違うかと思い直す。彼らは普段、図書室に本を読みに来たりはしない。となると、レイシスか、シアンか。それとも、当主フォルクスが休憩に来ているのか。誰かと予想しながら、ナズナは本棚の道を抜け、机と椅子が置いてある場所に足を運んだ。


「……えぇ?」


 そこで、思わず素っ頓狂な声を上げてしまったのは、目にした人物が予想もしていなかった人だったからだ。ナズナは足を止め、椅子に腰を掛けて本に視線を落としている青年をまじまじを見つめた。

 銀色の髪と青い瞳は、一か月ほど前に見たばかりだ。この洋館にいるはずのない人が、堂々と図書室で本を読んでいる。


(え、え? なんで、ここに?)


 疑問符がたくさん浮かんだ。

 だって彼は、もうここに用はないはずだったから。ダンデライオンは新たに舞い込んではいないし、ピンも返したはず……ナズナは訳がわからず、とりあえず青年に――フレイ・ザフィーアに近づいた。


「あ、あのー……」


 恐る恐る声をかける。まさか、顔が似ている別人というわけではないだろう。


「フレイ、さん?」


 名を呼ぶと、彼はびくりと肩を揺らした。慌てたように振り返る。

 その瞳がナズナを捉えると、彼はほっとしたように肩の力を抜いた。


「なんだ、君か……てっきり、あの教師が戻って来たのかと……いや、なんでもない。こんにちは、お邪魔してるよ」

「お邪魔してるよ……じゃありませんよ! こんなところでなにしているんですか!?」


 なんだか前にもこんなふうに問いかけた気がする。若干デジャブを覚えながら驚きを露にすると、フレイはこれまた真っ直ぐな目をナズナに向けて来た。


「何って、本を読んでるんだよ」

「そうじゃなくて! 何でここにいるのかって聞いたんです!」


 せっかく前に誰にも言わずに逃がしてあげたのに。そんな恨めし気な視線を送ると、彼は言葉を詰まらせ、ナズナに注いでいた視線をそれはそれは大きく反らした。


「……散歩だよ。散歩してたら、興味深い書物を見つけてね」

「待ってくださいそれ言い訳にしては苦しすぎません?」


 最初に会ったときに不思議な人だとは思ったが、ここまで来るともはや変人だ。彼が何者なのか、どういった人なのか何一つわからず、ナズナはやっぱりルナールに報告するべきだったかと考える。

 今からでも遅くないかもしれない。部屋に戻ってベルを鳴らそう。くるりとフレイに背を向けた。


「ナズナさん」


 不意に名前を呼ばれ、ナズナの足はその場に縫い付けられるように動かなくなった。魔法を使われたわけではないのに、急に部屋に戻れなくなる。


(……ナズナ、さん)


 今のように、名前を呼ばれたことはなかった。ナズナは彼の声を頭の中で反芻させる。ナズナを慕った呼び方とは違う声音。胸が震えるその呼び方は、ナズナが願ってやまないものだった。

 ぎこちない動作で振り返る。呼び止めたフレイは、ナズナを見上げ、少し焦ったような顔をしていた。ナズナは動揺を隠すように口を開く。


「なんですか?」

「どこに行くのかなと思って」

「……人を、呼ぼうかと」


 何故素直に言ってしまったのだろう。自分でもわからなかったが、彼を見ていると嘘がつけなかった。彼の方は何度も嘘をついているというのに。

 案の定、フレイはナズナを引き止めた。


「それは困る」

「やっぱり、また不法侵入したんですね」

「前にも言っただろ。こうするしか入る方法がないんだよ」

「そうやって無断で入ってきちゃ駄目ですって言ってるんです! いったいうちに何の用があるんですか」


 その問いかけには、フレイは答えなかった。だが代わりの答えを口にするように、ナズナをまっすぐ見つめた。自分よりも年上のはずなのに、青い眼は子供のような純粋な光を帯びていた。


「興味深い本を見つけたというのは本当だよ。ちょっと調べ物をしたくてね。あと……」


 フレイは言葉を止めると、自身の前髪についているクッキー型のヘアピンを指さした。爪の先でコツ、と触れてこんなことを言う。


「これ、俺に送ってくれただろ? そのお礼がしたくて」

「お礼……?」


 ただ、それだけのために……?

 ナズナはまじまじとフレイを見返した。やはり、この青年が何を考えているのかはわかりそうもなかった。

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