第六話 謎の青年フレイ・ザフィーア
当然の訪問者は、ナズナに恐怖とそれ以上の興味を与えた。
彼は、空から舞い込んできた種と同じものを持っていた。
その理由が気になったナズナは、ひとまず彼の存在を隠すことにした。他の者に見つかれば、連れて行かれるのは目に見えていた。
夕食時、シアンが部屋に訪れる。彼女が来る前に、ナズナは青年をベッドへと運んだ。
彼の身体は男性にしては細かったため軽そうに見えたが、気絶しているからか思っていたよりも重量があった。背負おうとしたナズナはすぐに無理だと断念する。
(ちょっと引きずりますよ、ごめんなさい)
脇の下に手を突っ込み、上半身だけを持ち上げた。足を思いっきり引きずってベッド脇まで運ぶ。それから、習ったばかりの浮遊魔法を用い、なんとかベッドの上へと持ち上げた。掛け布団をかけ、彼の姿を隠す。
途中、椅子の脚やらベッドの角やらに腕や頭をぶつけてしまった気がするが、青年が目を覚ます様子はなかった。
(そんなに強い魔法を浴びせちゃったかな。い、生きてるよね……?)
運ぶ前にも調べたが、もう一度布団をめくって息を確認する。ちゃんと胸は上下していた。大丈夫だ、多分。
(そのうち目を覚ますよ、うん。その前に、夕飯を済ませて来なきゃ)
ナズナは再び青年に布団を被せると、急いで部屋を後にした。
夕飯にはまだ早い時間帯だったが、ナズナはシアンに声をかけ、早めに夕飯を用意してもらった。
魔物の件があったからだろう。シアンは何も言わずに、ナズナのしたいようにさせてくれた。
用意されたハンバーグを平らげると、ナズナはそそくさと自室に戻った。途中、変に思われていないかと背後を振り返ったが、心配したシアンが追ってくるようなことはなかった。ほっと息を吐き、部屋に入る。
目を離してから、約一時間くらいだろうか。
まだ起きてはいないだろうと思いつつも、ナズナは一番にベッドに目をやった。膨らんだ掛布団を確認する。
しかしその願いは盛大に裏切られ、ナズナは思わず声を上げそうになった。
(いない!!)
慌ててベッドに駆け寄る。青年を覆っていたはずの布団は捲られており――何故か綺麗に畳まれていた――、もぬけの殻になっていた。
こんな短時間で目を覚ましたんだろうか。いや、いつまでも眠っていたらそれはそれで心配になってしまうのだが……ナズナはベッドをぼんぼんと叩きながら辺りを見渡す。
(どこに行ったの……? 部屋から出ちゃった?)
目に入るところにそれらしき姿はない。ナズナは焦った。
全く知らない人物ではあるが、どこかに行ってほしくはなかった。
だってまだ、あの、名のわからない花のことを聞けていない。
(勝手にどっかに行かないでよ……知らない男の人!)
ナズナはむっと口を尖らせると、彼を探すために魔力の気配を探った。
ナズナには魔力が見える。彼は魔法使いだったため、先ほど見た魔力の粒子を見つけられれば、どこに行ったかわかるかもしれないと思った。部屋に残された、魔力の残滓を探し出す。
それほど時間が経っていないためか、淡い魔力はベッドの上に残っていた。彼の動きを表すようにベッドを降り、床に線を作っているそれを目で追う。そして数秒もしないうちに、ナズナの瞳はクローゼットを捉えた。
「……ちょっと待って」
――まさかそんなわけ。
浮かび上がった可能性に、ナズナは思わず呟いた。クローゼットを見つめ、しばし固まる。
見間違いかと、目を擦ってみた。しかし魔力の跡は消えてなかった。動いてもいなかった。
嘘でしょ――掠れた声を漏らしつつ、ナズナは恐る恐る扉に手をかけた。
「あ、開けるよ?」
誰にともなく訊いた。すごく開けたくなかったが、目に見える魔力はここを開けろとばかりに浮遊していた。
ナズナは意を決してクローゼットを開く。
中には案の定というべきか――あの青年の姿があった。
銀髪がよく目立っている。その下の淡い青と目が合うと、ナズナは言葉を失った。
「……」
「……」
なんとも言えない空気が流れる。
ややあって、先に口を開いたのはクローゼットの中にいる青年の方だった。
「こ、こんばんは……?」
「こんばんは、じゃない! 何してるんですか!」
思わずナズナは悲鳴にも似た声を上げた。
「なんでこんなところに隠れてるんですか!? こ、こんな、人のクローゼットの中に!」
「お、落ち着いて……えっと、君が人を呼びに行ったんだと思って」
「来ないように先に夕飯を済ませてきたんですよ!」
「え。どうして」
「どうしてって、それは……」
聞かれ、ナズナは少し困ってしまった。理由は一つしかない。それも、ちょっとした理由だった。
棚に置かれた花を見つめる。迷ってから、ナズナは素直に理由を述べた。
「この花の名前を、聞こうと思って……」
「花?」
青年の目が、ナズナの視線を追った。黄色の花に気づくと、彼はああ、と声を漏らした。
「この花か。これは、ダンデライオンだよ」
「ダンデライオン……」
思ったよりも簡単に名を知ることができ、ナズナは目を瞬かせた。こんな状況だということを忘れ、まじまじと青年を見上げる。それから改めて、黄色の花に目をやり、今聞いた花の名を口の中でもう一度転がした――ダンデライオン。
「……いい名前」
ナズナの口元に笑みが灯る。ダンデライオンに歩み寄ると、その花弁の束を軽く指で弾いた。
「ダンデライオンっていうんだね、きみ。可愛いのに、かっこいい名前。うん、覚えたよ」
ダンデライオンに話しかけるナズナの様子に、青年は目を丸くした。
「君は、花が好きなのかな?」
「あ……はい。小さい頃からずっと好きで。この花の名前も知りたいと思ってたんです」
言ってから、ナズナはこの青年がダンデライオンの種を持っていたことを思い出す。
そうだ、彼に花の名を聞かなきゃと思ったのは、彼が種を送った人物じゃないかと考えたからだ。
未だクローゼットに両足を突っ込んだままの彼を見上げる。そこにはまだ、微妙な空気が揺蕩っていた。
「あの、そこから出ません? 他の人は呼ばないので」
ナズナは手招きするように声をかけた。私物が入っているところに男の人が隠れているのは、当たり前だが落ち着かない。
「あ……うん」
気まずそうに、青年も頷いた。
青年はかけられた衣服をかき分けて出てくると、クローゼットに隠れたことをもう一度謝った。
気にしてないですと返事をしながら、ナズナは部屋の中をきょろきょろと見まわして、ソファに青年を促した。部屋に客が来ることは初めてだったため、どこに案内したらいいかわからなくなってしまった。
ナズナの部屋は一人部屋だが、一応、二つの長ソファがテーブルを挟むようにして置いてある。いつもはミーチェやネージュと使っているそこに向かい合って座ると、ナズナはそわそわと膝の上に両手を置いた。視線も落ち着かない。
青年の方もソファに腰を下ろしたものの、居心地の悪そうな顔をしていた。
ここでハーブティーでも用意できたらよかったのだが、あいにくナズナの部屋には茶葉どころか、ティーポットもティーカップもなかった。だからといって、シアンを呼ぶことなどできるはずもなく……ナズナは青年を見つめると、意を決したように口を開いた。
「ええっと……あ、そういえば、身体は大丈夫ですか? 思わず魔法当てちゃったので……」
「ああ……問題ないよ」
声が返ってくると、どこか緊張していた空気も少しだけ和らいだ。
「それならよかったです」
「ああ……こちらこそ、驚かしてしまってすまなかったね」
「そうですよ。泥棒とか、盗賊なのかと思っちゃいました。って、その容疑もまだ晴れていませんけどね?」
「泥棒なんかじゃないよ。ましてや盗賊なんて。俺はただ……」
ふと、彼の瞳は、ベッド横に置かれたダンデライオンに向けられた。
植木鉢の傍には、青年が落としたダンデライアンの種もハンカチに包んで置いてあった。ナズナが落ちたものを集め、そこに置いたのだ。
青年の視線に、ナズナはやっぱり、と声を発した。
「あの花、あなたのなんですね。ここに種を……種の入った魔法鳩を飛ばしたのも、あなたなんですか?」
青年はナズナの質問に間を置いてから、ああ、と頷いた。
「俺のだよ。でも、ここに飛んで来てしまったのは偶然なんだ。本当は別の場所に届けるつもりで。俺はそれを回収しに来た」
「え……」
しかし、彼から発せられた言葉は、ナズナの期待通りのものではなかった。むしろ逆、落胆させられる回答で。ナズナは無意識に視線を下げた。
「……そう、だったんだ」
花を回収されてしまう、ということもそうだが、あの手紙がナズナに向けられたものではなかったことに、何故だかがっかりしていた。気づかぬうちに期待していたのだろうか。外の世界の誰かが、ナズナのことを知ってくれたのではないかと。
でも、よくよく考えてみれば、それはあり得ないことだった。家族と友達のキャシー以外、ナズナがこの洋館に預けられていることは、誰も知る術がない。しかもこの部屋は隠されている。手紙を届けようだなんて、思えるはずもなかった。
「……そうですよね。あーあ、偶然だったんだ」
奇妙な偶然があったものだと、ナズナは失笑した。
「……? どうかしたのかな」
「いえ。なんでもないです」
首を横にする。
落胆か、安心か、それとも納得か。なんとも言えない様々な感情が胸の中に渦巻いたが、ナズナはいつものようにそれを押し隠して、笑みを浮かべた。
ソファから腰を浮かせ、ダンデライオンを取りに行く。可憐な花は、この部屋を明るくしてくれていた。なくなるのは寂しいが、持ち主には返してあげないと。
目に焼き付けるようしばし魅入ってから、ナズナはその植木鉢を青年に差し出した。
「はい。少しお借りしてました。あなたに返しますね」
「ありがとう。綺麗に育ててくれたんだね」
「……はい。花は好きなので。でもまさか、一週間で咲くなんて思ってませんでした。特別な花なんですか?」
「まあね。ちょっとした魔法がかかってるんだよ。あ、そっちの種なんだけど」
植木鉢を受け取りながら、青年は種の方に目を向けた。
ナズナは種を振り返る。
そうだ、あちらも返さなければ。
けれどナズナが種を取りに行く前に、青年がその行動を制した。
「いいよ。それは君にあげる」
「えっ?」
思ってもみなかった言葉に、ナズナは青の眼を凝視した。
「いいんですか?」
訊ねた声は、よほど弾んでいたのだろう。嬉しさに瞳も輝かせると、それを見た青年は吹きだすように苦笑した。
「そんなに名残惜しそうにされたら、なんだか俺が悪いみたいだろ?」
「え、あ、そんなつもりじゃ……」
「顔に出てるよ。それに、もともと君とこの花と出会わせてしまったのは俺だから。お詫びに君に託すよ。よかったら、また育ててくれ」
穏やかなその声は、ナズナの心に染み渡るようだった。
この洋館のみんなも、ナズナの欲しいものはなんでも用意してくれる。けれど、それとはまた違う喜びが胸の内に広がった。ナズナの桃色の瞳はさらに煌めく。
「あ、ありがとうございます! 大事に育てますね!」
「うん。あ、そうだ。代わりに、ってわけじゃないんだけど……」
不意に、彼は声を潜めた。ソファに座ったまま、顔を近づけるようにしてこんなことを言ってくる。
「俺がこれを回収しに来たこと、誰にも言わないでほしい」
ナズナはきょとんと彼を見下ろした。
言われなくても、こんな風に優しさをくれる彼を誰かに晒すつもりはなかった。
けれど、同時にはっきりとした。
彼はやはり不法侵入して来たのだと。泥棒でも盗賊でもなかったが、こっそりと忍び込んでいたのは間違いではなかった。
「いいですよ。でも」
ナズナは頷いてから、ちょっとだけ執事長の真似をするように彼を咎めた。
「不法侵入はやめた方がいいです」
「……この洋館は、俺みたいな一般人は中に入れてくれないだろ? だからこうして入るしかなかったんだよ」
「えぇ……すんごい堂々と言いますね……。見つかったら捕まりますよ?」
「知ってるよ」
知ってるうえで、彼はナズナの部屋に訪れたのか。この種を取り戻すためだけに。
それを聞いて、ナズナは笑い声を零した。
「ふふっ」
「なにがおかしいのかな」
「いいえ。大胆な人だなあって思って」
「それを許してしまう君も、相当な変わり者だと思うけど」
「確かにそうかも。そういえば、お名前聞いてませんでしたね。わたしはナズナって言います。あなたは?」
「……フレイ・ザフィーア」
淡々と名乗られた名前は、とても響きのいいものだった。
フレイ・ザフィーア。繰り返して、ナズナは笑みを浮かべる。
「フレイさん。帰りはお気をつけて。捕まっちゃ駄目ですからね」
「ああ。わかってるよ」
「あとそれから……気絶させちゃってごめんなさい」
「……平気だよ」
それだけ言って、フレイはじゃあ帰るよと、植木鉢を手に立ち上がった。ナズナは彼を見送るため、共に部屋から出る。
慎重に廊下の奥を確認したフレイは、ちらりと振り返り、世話になったと言うと、そっと闇に身を滑らせて帰って行った。来るのも唐突だったが、帰るのはもっと早かった。彼の後ろ姿が見えなくなるまで、ナズナはその場に佇む。
「不思議な人だったな……」
最初は警戒し、恐怖も抱いてしまった。しかしもう、そんな気持ちは一つもなかった。
フレイはナズナを攻撃はしなかったし、謎な部分はあるものの、花を案じる優しい人だった。ナズナはそう感じた。
魔力の欠片が見えなくなる。
一時間も満たない時間、フレイと共にいただけなのに、一人になった瞬間、妙に寂しく感じられた。
部屋に戻ると、ナズナはもらった小さな種を眺め、ハンカチごと棚の引き出しにしまった。明日、また植えよう。そう考えながら、ベッドに横になろうとする。
そのとき、枕の傍にクッキー型のヘアピンが残されていることに気づいた。
「これって、フレイさんの!」
攻撃した時、フレイの髪から落ちたものだ。目を覚ましたら返そうと近くに置いていたが、忘れてしまっていた。どうしようと、ナズナはヘアピンを手に取る。
(追いかける……? でも、もう外に出てるかもしれないし……ていうかフレイさん、どうやってここまで来たんだろ?)
ここは強い結界が張られた部屋だ。通常なら、入ってきた時点で魔法の警報が鳴るらしいのだが……考えて、ナズナは首を振る。きっと、何か不思議な魔法を使ったのだろう。だって彼は、手違いとはいえ、魔法鳩をナズナの部屋まで飛ばせたのだから。
となると、このヘアピンは返さなければならない。ナズナはそう思った。
魔力の籠ったヘアピン。これはおそらく、魔法の杖だ。こんなふうに杖を変化させて隠すものもいると、教師から教わったことがある。
魔法使いには杖が必須。これがないと、フレイは困るだろう。
「あ、そうだ。それなら……」
ナズナは思い立ち、ベッドから腰を浮かせた。窓に寄り、ガラス戸に手をかける。
魔法鳩が入って来た窓だ。開けてはならないそこを、ナズナはまた、一瞬だけ開け放つ。そして、魔法を紡いだ。
(どうかこのヘアピンを、フレイさんの元に――)
手のひらから溢れ出た金色の魔力は、鳩の姿を形作る。その鳩の嘴にヘアピンを添えて、ナズナは魔法鳩を空へと羽ばたかせた。もらった手紙に返事をするかのように。
月のない暗闇に、眩い金の光は弧を描いた。魔法はナズナの意思に従い、町へと飛んでいく。
行先は、フレイの元。今日覚えた彼の魔力を追うように、魔法鳩に指示を出していた。数分もしないうちに、彼の手の中に届くだろう。
ナズナはそれを見送ることはせず、窓を閉じてカーテンをかけた。ふう、と吐息がピンクのカーテンを揺らす。
(きっともう、フレイさんには会えない、よね……)
彼は迷い花を回収しに来ただけなのだから。そう思うと、少し残念に思った。
でも、心の中にはほんの少しだけ明るい何かが灯っていた。
洋館の外にいる、ずっと眺めているだけだった町の一人に、ナズナという少女がここにいると知ってもらえたからだろうか。それは本来であればいけないことではあったのだが、ナズナはこの出会いを誰にも話さないと決めた。それくらい、許されてもいいだろう。
「そうでしょ? 月神様」
今は見えない月に語り掛けるように、そっと声を落とした。
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