第四話 心と行動の矛盾
リートスの言葉は、ナズナの気持ちを前向きにさせるには十分な力を持っていた。
くよくよ悩むのはもうおしまいだと、ナズナは胸に溜まっていた黒い気持ちを吹き飛ばした。
悩んでいても、気が滅入るだけ。せめてここにいる間は、楽しい思い出を作っていこうと意気込んだ。みんなに、もっと近づきたいと思ってもらえるように。『月の子』じゃなくて、ナズナ自身を見つけてもらえるように。
さて、そんなナズナは今、図書室に足を運んでいた。
クレイス洋館の西側に位置する図書室は、地下の訓練場の次に広い場所だ。
入り口近くにはテーブルが二脚置かれており、それぞれ椅子が六脚。北側に暖炉が。暖炉の前には紺色の長ソファ。そして南方向に、高い本棚がずらりと並べられていた。壁際の本棚は天井に届くくらいに高く、いくつか梯子が用意されている。クレイス家の先祖は本好きだということが見て取れた。
時刻は午後十六時。今日は休日のため、魔法の授業はなかった。そのためナズナは、シアンとミーチェを呼び、探し物をしていた。
「ナズナさまー。こっちは読みましたか?」
ミーチェが本棚の高いところから分厚い植物の本を持ってきてくれる。
ナズナが探しているのは、花の名前だった。
植木鉢に咲いた、黄色の花。
一週間ほど前、ナズナは窓から小さな種を招き入れた。綿のついたその種は、なんと一週間で花を咲かせたのだ。
高さ二十センチ。何枚ものギザギザした葉が円を描くように外側へ開き、蕾からはたくさんの黄色の花弁が広がった。それはナズナも見たことのない花だった。
花好きのナズナはなんとしてもこの花の名前を知りたいと思った。そこで、シアンとミーチェに協力をお願いしたのだ。二人との思い出作りも兼ねて。
「それは読んだことないかも。見せて」
ナズナはミーチェが取ってきてくれた本を開いた。
途端、びっしりと詰め込まれた文字が殴り混んできて、慌てて顔を背けた。
「うええ……文字ばっか」
「当たり前です。植物の論文をまとめた本らしいですから」
「えええ、そんなの読めないよぉ……絵が乗ってる辞典や図鑑とかないの? まだわたしも読んだことない、新しいやつ!」
「そんなの、こんな古い洋館にあるわけないじゃないですか。商人から買わないと。そうですよね、シアンさま」
「ええ。ここには歴代の当主様が読まれるものしか置いていないので。思ったよりも植物の本は少ないようです」
本棚を見廻し、シアンが言う。幼い頃からメイドとして働いているシアンが言うのなら、そうなのだろう。ナズナは肩を落とし、字ばかりの本をミーチェに返した。
「そっか、残念。じゃあミーチェ、今度商人さんが来たら花の本買ってもらってもいい?」
「はい、了解です! ところで、ナズナさま、その花どこで手に入れたんですか? 前に商人が来たときは、花の種なんて頼まれてなかったですよね?」
聞かれ、ナズナは目を泳がせた。ミーチェが不思議そうに顔を近づけてくる。
「あれ? ナズナさま、なんか隠してます?」
「そ、そんなことないよ! この花はね……キ、キャシーちゃんがくれたの、手紙で! でも、どんな花が咲くかはわからないって書いてあったから育てて欲しいんだって」
嘘だった。本当は、魔法鳩がナズナの部屋に届けてくれたもの。だが、それが何者なのかはわからないため、二人に種のことは内緒にしていた。素直に言えば、この花は回収されてしまうかもしれない。
ふーんと、ミーチェが目を細める。
「ナズナさまも知らない花を持ってるなんて、その友達、なかなかやりますね」
「へ? あ、うん、そうだね……」
「今度の手紙で、どこで手に入れたのか聞いてみてください。そこを調べてみますよ」
「わ、わかった」
頷きながら、ナズナは花の髪飾りを弄った。嘘だとはバレなかったみたいだ。けれどちょっとした罪悪感に苛まれる。
二人との距離を縮めようとしていたのに、隠し事をしている。その矛盾に胸がざわついた。
(ど、どうしよう。思わず嘘ついちゃった。言った方が、いいかな……?)
ナズナの心はすぐに揺らぐ。
今まで二人に隠し事をしたことはなかった。ナズナ自身、何かを隠されるのは好きではないし、苦手だ。それを自分がしていると考えると、唐突に声にしたくなった。
本を戻しに行こうとしたミーチェの腕を掴む。
「ナズナさま? どうかしました?」
「ミーチェ、あのね――」
あの花なんだけど――そう続けようとしたときだった。
バン、と扉の開く音が図書室内に響いた。乱暴というほどではないが、急いでいるような音だ。ナズナは廊下に続く扉に目を向ける。
入ってきたのはネージュだった。どこかに出かけるのか、魔法ローブを羽織っている。
彼は赤い瞳にミーチェを映すと、早口で言った。
「ミーチェ、町に魔物が出た。すぐに行くぞ」
「町にですか!?」
ミーチェが驚いたように声を上げる。ナズナとシアンも息を呑み、ネージュを見た。
「ネージュ様、どちらに現れたのですか」
「ベッセル教会だ」
「……!」
ネージュが出した場所に、ナズナは目を見開く。
知っている場所だ。行ったことはないが、その教会はリートスがよく手伝いをしている教会だった。今の時間帯、彼はそこにいると思われた。
「リートスは大丈夫なの?」
「わからん。今から確認しに行く」
「こっちに来ちゃう前に処理しないとですね」
持っていた本を置き、ミーチェが杖を取り出す。ナズナが戸惑っているうちに、彼女はネージュと共に走り出した。慌ててナズナはその後を追う。
「わたしも行く!」
「いけません!」
だが、図書室から出る前にシアンに止められてしまった。強く手首を引かれ、待ってと伸ばした手が、ミーチェの腕をすり抜ける。
声に気づいたミーチェが振り返った。
「ナズナさま、魔物はボクたちに任せてください! ナズナさまはここで待ってて」
「やだ!」
咄嗟にそんな言葉が出た。口を開けたまま、ミーチェが目を丸くする。
いつもならわかったと彼女たちを見送っていたナズナだが、今日は素直に聞き入れることができなかった。首を横に振り、だって、と行きたい理由を述べる。
「リートスが心配なの! それに、わたしも力になりたい、一緒に戦いたい! だから連れてって!」
ミーチェはそんなナズナを見遣ると、笑うようにその瞳を細めた。
「これが遊びだったら連れて行ったかもしれないんですけどね。でも、ダメですよ。今回のはキケンなんですから」
「ミーチェ!」
「ナズナさまをキケンな目には遭わせられません。そ、れ、に!」
突然、ぐっとミーチェの顔が近づいた。間近で炎のような朱の眼がナズナを映し込み、殺気がナズナの肌を刺す。ひ、と喉を引き攣らせたナズナに向かって、狂気に染めあげられた口角を上げ、ミーチェは口を大きく開いた。鋭い八重歯が覗き、噛みつかんとばかりにナズナの首筋に触れる――咄嗟にナズナは強く目を瞑った。
「……こんな風に、食べられちゃいますからね」
低い声が耳を撫でた。ぞわりとする声だった。
ナズナは動けなくなり、その間にミーチェはパッと身体を離す。恐る恐る目を開けたときにはもう、そこに彼女の姿はなかった。しん、と静まった部屋の中、ナズナの心臓だけがどくどくと音を立てる。
(こ、わかった……)
へたり込みそうになり、近くの机に手を置いた。シアンがそっと、ナズナの背中を支えてくれる。気づけば背中が、汗で濡れていた。
今のがミーチェでよかったと、ナズナは思った。思うと同時に、なんて自分は情けないんだろうと恥ずかしさを感じた。俯き、唇を噛む。
ミーチェに恐怖を感じているようでは、魔物の相手などできるわけがない。彼女はそれを伝えたのだ。
(なにが一緒に戦いたい、だよ……)
自分の言動を記憶から消してしまいたかった。
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