第一章 ダンデライオンの種

第一話 『月の子』ナズナ・フレール

 月の国と呼ばれる島国――ファルナ国。

 数百年前に太陽を失くしたこの国では、月だけが地上を照らしていた。


 これは、その失われた太陽を取り戻すまでの物語――


 ☆


 ナズナ・フレールが、クレイス洋館に来たのは七歳の頃である。

 突然現れた洋館の執事長、ルナール・キャンベルに連れて来られたのだ。


『貴方にはこれから、この洋館で暮らしてもらいます』


 声も出ないくらい、混乱したことをよく覚えている。

 何の変哲もない、普通の家庭で暮らしていたはずだった。魔法使いの両親と、歳の離れた兄と、生まれたばかりの弟二人の、六人家族で。裕福でもなければ、貧しくもない。周りと同じような、平凡な家庭で。

 しかし唐突にナズナの日常は一変する。

 拒否をする間もなく、小さな家から広い洋館へ。メイドと使用人に囲まれ、大きな一人部屋を与えられる生活に。

 そして告げられたのは、ここから出てはいけないと言う、この家の規則。

 もう慣れてしまったけれど、今では連れて来られた理由も、出てはいけないわけも理解はしたけれど、それでもあのとき感じた恐怖は忘れられない。寂しさは、何度もナズナを苦しめる。

 布団の中で、食事中に、勉強の合間に。ナズナはふと、思ってしまう。

 もしもわたしが、『月の子』じゃなかったら――




「ナズナさまー! 起きてください! 朝ですよー!」


 朝早く。洋館中に響き渡りそうな大声に、呼ばれた少女、ナズナははっと我に返った。

 肩の下まで伸びた、繊細な淡い金髪がさらりと揺れる。過去へと視線を送っていた桃色の瞳が、机の奥にある姿見に移された。そこには椅子に座った寝起き顔の自分が映っている。

 肌は白く、鼻は低い。唇は淡い薄紅色で、ぼうっとしていたためか半開きだ。金の髪はシャンデリアの光を受けて白く輝き、天使の輪が見えていたが、毛先はあちらこちらに跳ねていた。まだ身支度も整えていない白いネグリジェ姿は一見幼く感じられるが、ナズナはこの春に十七歳になったばかりだ。洋館に来た頃よりかは大人になっている。と思うことにする。


「……あ。手紙」


 手元へ視線を落として、ナズナは起きるなり手紙を書いていたことを思い出した。右手に握っていた羽ペンは、白紙の便箋に大きな黒い滲みを作ってる。

 いつの間にか物思いに耽っていたらしい。花の絵が散りばめられた便箋が一枚使えなくなってしまった。


「うわ、もったいないことしちゃった……試し書きにでも使おうかな」


 ナズナは羽ペンの先を容器に入れた水に浸すと、インクを落としてから布で拭った。黒い滲み付きの便箋は机の引き出しへ、羽ペンは収納ボックスにしまう。それから書き終わっていた二枚の便せんを折りたたみ、封筒に入れた。

 今日はこれで出そう。

 封筒に綴られた送り先の相手は、幼い頃からの友達――キャシー・アップルビーだ。

 彼女はこの洋館に来る前に、ナズナの実家の近所に住んでいた女の子だった。赤薔薇のような髪と、林檎の中身に似た瑞々しい黄色の瞳をよく覚えている。

 年はナズナと同じ、十七歳、のはずだ。離れ離れになってから一度も会えていないため、キャシーがどのような見た目に成長しているかはわからなかった。それでも、彼女とだけはやり取りが続いていた。それが、この洋館から出られないナズナの救いになっている。外とまだ繋がれる、唯一の。


「ナズナさま? 入りますよー?」


 ナズナを起こしにきた声が、部屋の前まで駆けてきた。どんどんと扉を叩かれ、返事を待てない声は遠慮なく中に入ってくる。振り返ると、洋館に住み込みで働くメイド――ミーチェの姿があった。

 肩で切り揃えられた短いピンク色の髪に、ぱっちりとした鮮やかな朱色の瞳が印象的な女性だ。背丈が低いため少女に見られがちの彼女であったが、その年はナズナより十も上である。ナズナは彼女を姉のように慕っていた。

 勝手にアレンジを加えたという刺繍入りのエプロンドレスを身につけたミーチェは、机に向かっているナズナを見やると驚いたように目を丸くした。


「あれ? 起きてたんですか?」

「おはようミーチェ。うん、起きてたよ。あっ、もしかしてまだ寝てると思ってた?」

「思ってました。だってナズナさま、いつも寝坊してるじゃないですか。今日もてっきり二度寝してるのかと」

「残念。今日は起きてました、ふふん」

「いつもそうやって起きてくれると、ボクも起こしに来なくていいんですけどねー?」

「何その言い方。いつもちゃんと起きてるよ。ミーチェが来たときは、ちょっと寝っ転がってるだけで……」

「ふうん。じゃあ、明日からは起こしに来なくてもいいんですね?」

「えっ。それはちょっと……あ、なに笑ってるの! もう、ミーチェの意地悪! 執事長さんみたいなことしないでよ!」

「あははっ、冗談ですよ。そんなにむくれないで。ほら、手紙渡してください。今日も出すんでしょう?」


 にやにやするミーチェにむっと頬を膨らませながら、ナズナは封をした手紙を押し付けた。笑みを浮かべたまま、ミーチェは林檎のシールが張られた封筒を受け取る。

 不意に視線を机に向けて、彼女はあっと声を上げた。


「これってもしかして、前に買ってあげた便箋ですか? 使ってくれたんですね」

「ん? あっ、そうだよ。すっごく質がよくて書きやすかったし、花柄も可愛くて気に入っちゃった」

「それはよかったです! いっぱい種類があったので、どれにしようか迷ったんですよね」


 ナズナたちが住むこの地方――ジュピター地方は自然が多い土地だ。そのため、林業、農業、製紙業などが盛んであり、紙は至る所で作られている。

 ナズナが使う便箋も、ジュピター地方で生産されたものだ。その絵柄や紙質は豊富で、便箋専門の店があるほどらしい。いつか訪れてみたいと思いつつ、その願いは叶わないでいる。


「ナズナさまは花が好きなので、これにしてみました!」

「さすがミーチェ、大当たり。使い終わったらまた新しいのよろしくね」

「任されました!」 


 笑顔でミーチェが自身の胸を叩く。するとその手に握られた手紙に皺が入った。


「わあ!? ミーチェ手紙潰さないで!」

「あ、ごめんなさい」

「大事な手紙なんだからね。絶対郵便屋さんに渡してよ? まだ来てないよね?」

「来てないですよ」

「今日は雨だからね、見逃しちゃだめだよ?」

「わかってますって! それより、早く支度しないと怒られちゃいますよ。今日は大事なお客様が来るんですから」

「……そうだった」


 言われて、ナズナはパッと柱時計を見た。まだ朝の七時前だったが、今日は早くに朝食を済まさなければならないと言われていた。

 領主の家であるこのクレイス洋館には、月に何度か商人や他地方の領主が会談のため訪問しに来る。今日はそのうちの一つだった。


「ねえミーチェ。また朝ごはん食べたら部屋で待機?」

「そうですよ。今日は夕飯まで出ちゃいけませんからね?」

「えー。お昼も一人なの? ネジェは?」

「ネージュさまは学校です。今日は金曜日だから、夜は食べてくるって言ってましたよ」

「……わたしも行っちゃだめ?」

「だめです!」


 冗談で訊ねたのに真面目に返されてしまった。ナズナは肩を落とす。肩にかかった金の髪が滑り落ちる。

 客が来る日は、ナズナは基本的に部屋から出られない。それ以外の日であれば洋館内での出歩きは自由だが、洋館の外へは出てはいけない。幼い頃からの言いつけだった。


(わたしも学校行けたらなあ)


 そう思うのは何度目だろう。

 部屋で一人は退屈で寂しかった。勉強するにもいまいち捗らない。しかし声に出せばまた駄目だと言われてしまうため、ナズナは口をギュッと結ぶしかなかった。

 そんなナズナの様子に、では、とミーチェが手を打つ。


「ルナールさまが持ってるあのお高そうな腕時計を持ってきてくれたら、取引してもいいですよ?」

「取引?」

「はい。学校にこっそり行かせてあげます」

「ほんと?」

「ほんとです!」


 ミーチェは大きく頷く。

 このメイドは、何故か洋館内の至る所に置いてある金目のものに目がなかった。雇われていると言うのに、毎日何かしらを盗もうと策を練っている。噂では、彼女はこの洋館に来る前にそういったことをしていたと言われていた――一人称が「ボク」なのも、姓がない理由もそこに関係していると思われた――が、ナズナは特に詮索したりはしなかった。そして止めることもしない。何故なら……。


「駄目に決まっているでしょう。遅いと思ったら、こんなところで何を油打っているのですか」


 毎回、執事長に見つかってしまうからだ。

 嗜めるように声を飛ばし、開けっ放しだった扉から部屋に入ってきたのは、白いシャツと黒のジャケットをきっちりと身につけた男性――執事長ルナール・キャンベルだ。

 クリーム色の髪をオールバックにまとめ上げ、眼鏡をかけた彼は、その奥にある目尻の釣り上がった琥珀色の瞳を鋭く光らせていた。両手に白手袋をはめ、磨かれた革靴から手入れの行き届いた長髪まで完璧に仕上げたその姿は、まだ三十三という若さではあるが、立派な執事の鏡だと言われている。

 ナズナをこの洋館に連れて来た張本人であるその男は、躾や作法に大変厳しい。数え切れなほど注意されたナズナは、彼が少し苦手だった。

 が、ルナールはそんなことを気にするような男ではない。くい、と眼鏡を押し上げると、呆れたようにため息をついた。


「ナズナも、間に受けてないで注意なさい。身近なメイドが盗人では嫌でしょう」

「でも、学校行かせてくれるのなら……」

「行かせられるがわけないでしょう。貴方、自分がどのような存在なのかわかっているのですか?」


 厳しい言葉にナズナは声を詰まらせる。

 冷えそうな空気を感じて、ミーチェの方が口を尖らせた。


「ルナールさまはケチですね。少しくらいいいじゃないですか」

「いいわけがありません。ほら、この話は終わりです。ミーチェ、早く手紙を出して、朝食の準備をなさい。ナズナも、お客様がいらっしゃる前に朝食をすませなさい」

「はあい」


 ナズナはミーチェと共に間延びした返事をした。

 ルナールはまた、シャッキリしなさいと怒ったものの、まだ仕事があるのだろう、それ以上は言葉を重ねずに部屋を出ていった。ジャケットの袖からは高そうな金の腕時計が覗いていた。


「あんな時計、ルナールさまならいくつも買えると思うんですがね」

「そういう問題じゃないと思うけど……とと、さらに怒られる前に食堂に行こっか。着替えたらすぐ行くから、ミーチェは手紙出してきて」

「わかりましたー」


 手紙を持った手を振って、ミーチェも部屋を後にする。ナズナはそれを見送ると、椅子から立ち上がり、着替えるためにクローゼットに歩み寄った。

 クレイス家の家具は、全てウォールナック材という木材でまとめられている。ダークブラウン色のそれは、年頃の女子の家具にしてはやや渋い。カーテンやベッドシーツ、ソファカバー、絨毯などの白やピンクが、かろうじてこの部屋が女の子のものであると主張していた。

 両開きの扉を開くと、クローゼットの中にはもらった衣服が十着以上も収納されている。家具と同じく、こちらも用意されたものだ。ちなみに、これを用意したのも執事長である。

 クレイス家に来たからには身なりはしっかりとしていただきます――そう言って最初に渡された衣服は、息を飲むほど綺麗なドレスワンピースだった。

 真っ白なシルクでできたそのドレスを、最初は喜んで着たものだが、今となっては知ってしまった値段に臆している。目を向くほど高いドレスは特別な日しか袖を通せなく、ナズナはクローゼットの中でも一番着やすい、リネンのワンピースを選んだ。

 色は瞳と同じ淡い桃色。襟と袖、裾には白のレースがあしらわれている。シルクほどの艶はないが、こちらの方が動きやすく気楽に過ごせた。

 ネグリジェからワンピースに着替えると、ナズナは背丈よりも高い姿見の前でくるりと回った。全身を確認し、金髪を軽く梳かすと、最後に赤いガーベラの髪飾りを差し込む。


「よし、これでいいかな……っと、やばい時間がない」


 素早く着替えたつもりだが、ルナールを待たせると後が怖い。鏡の自分に頷き、ナズナはネグリジェをベッドの上に放ると、黒のパンプスを履いて自室を出た。速足で一階の食堂へと向かう。

 

 ナズナの部屋は二階に位置している。が、出入りが一つしかない隠された場所に存在していた。

 廊下の突き当たり、現れた階段を降りると、その先に分厚い木の壁が現れる。扉には見えないその壁の端を両手で強く押すと、壁はくるりと回転し、向こう側に出ることができた――隠し扉だ。扉の向こうは図書室になっている。

 初めは驚いたものだが、今ではこの出入りもお手のものだ。洋館に来てから、早くも十年の月日が経っていた。


(もうそんなになるんだ……)


 十年もいれば、ここに連れて来られたわけも、特別な部屋を用意されている理由も、人と会ってはならないと言う執事長の言葉の意味もわかるようになる。

 ――ナズナは『月の子』なのだ。

 はっきりとそう告げられたのは七年前、十歳になったばかりのころだった。


 広い海にぽっかりと浮かぶこの島国――ファルナ国から太陽がなくなったのは、もう数百年も前のことだ。

 その昔、人間と魔法使いは、人類を生み出した月と太陽を、月神つきがみ太陽神たいようしんと呼び、崇めていた。

 しかしある日、太陽神はその身に持った魔力で、地上と、そこに住まう人間と魔法使いを焼き殺してしまう――それを魔力暴走と、魔法使いたちは呼んだ。

 太陽神の魔力暴走は、ファルナ国を危機へと追いやった。

 このままでは、人間も魔法使いも滅ぶ――そんな国の危機に立ち上がったのが、魔法使いたちの長であり、月神の魔力を宿した存在――『月の子』と呼ばれる魔法使いだった。

 文献にはこう書かれている――太陽神の膨大な魔力熱を防ぐため、初代『月の子』は“月の魔法石”というものを七つ生成した。月の魔法石は月神の魔力で空に巨大な楕円形の結界を作り上げ、そしてその結界を保つために、月の魔法石を各地方に配置し領主たちに護らせた――そうして『月の子』は魔法の壁で島の上空に蓋をし、太陽神から国を守ったのだ。

 しかし、月の魔法石とて万能ではなかった。石に宿った魔力が尽きれば、結界は消滅する。

 それに気づいた『月の子』は、自身の魔力を月の魔法石に注ぎ続け、結界を保つことにした。それを契りとして、次に生まれる『月の子』に結界の護りを継承していくことを決意したのだ。

 何百年に渡り、国を守る存在となった『月の子』は、次第に保護すべき対象となる。

 『月の子』がいなければ国は滅びてしまう。当たり前のように国は、生まれた新たな『月の子』を手中に収め、守護し、生きている限り結界に魔力を捧げさせた。

 そのため――『月の子』は短命でもあった。そしてその役目に選ばれたからには、絶対に国から逃れることはできない。


 ナズナは生まれたときから、その身に月神の魔力を宿していた。

 『月の子』ナズナ・フレール。

 それは、否応なく運命を――人生を決められていることに他ならなかった。

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