第13話

その日は特に義母の機嫌が悪かった。

メイドや腹違いの弟の前で僕を蹴っては罵倒して。

確かその時からポケットに隠れていた蛇たちが騒がしかったと思う。

ふと義母の怒りがヒートアップして、メイドが掃除の途中だったバケツを奪って僕に振りかけた。


冷たくて少しほこりも混じった水が僕の髪や服を濡らす。

さらに義母はそのバケツで僕の頭を殴った。

痛い。

何度もたたかれるうちに、頭が警告を鳴らした。

――このままだと死ぬぞ

と。

あぁ嫌いだ。

自然と頭の中に浮かんできたその言葉が膨れ上がるのは一瞬で。


嫌い、嫌い、どうして僕だけがこんな目に。神様はみんなに幸せと不幸を平等にくれるんじゃないの?それとも僕は不幸しかもらえないほど悪い子なの?どれだけいい子にしても、どれだけ殴られても助けてくれる人はいない。あぁ全部なくなっちゃえば……そう義母もメイドも弟も公爵も全部全部消えちゃえば僕は……きっと幸せになれる――そう、そうだよ。


ふと口からこぼれた言葉はきっと僕の本音だっただろう。


「みんなみんな消えちゃえ」


その言葉をぼそりと呟いた後のことはよく覚えてない。

悲鳴が聞こえて、辺りが騒がしくなって。

気が付いたら目の前に血まみれになって倒れている義母がいた。

そして僕の横には水で出来た体の中に血を溶かしている蛇たち。

僕はそれですべてを察して、顔を青くした。


目の前には息も絶え絶えな義母。

蛇たちが体をくねらせるだけで怯えているメイド。

僕に暴言を吐きながら、乳母に止められている弟。


人を殺すつもりなんてなかった。いくら大嫌いな人間だからって殺していいわけがない。

公爵が来て、警備隊が来て。聖女様が僕の力を抑えるまで僕の蛇たちは僕を守るようにとぐろを巻いていた。

幸いその時は癒しの神愛者ルキアがいたから、義母は助かったけれど僕は貴族殺人未遂をしたのだ。しかも公爵夫人である。


幼いながらも僕は静かに察していた。あぁ僕死ぬんだって。

貴族に手をかけようとした罪は重い。

それに僕はいい子でいるという約束を破ってしまった。

自分に張り付けられた罪人と言う札。

嘘だとわかっているのに信じて、僕を支えていた呪縛と言う名の大きな芯はその札によって粉々に砕け散った。

あぁ、もう絶対に母は迎えに来てくれない。

今までこんな苦しい思いをしてきたのに、死んでもなお、苦しまなきゃならない。

すべての世界が灰色になったようで――きっといい子でない僕はこれからいろんな人に罵倒されながら死んでいくのだと思っていた。


聖女様が僕の囚われていた監獄にやってくるまでは。


「あなた、どう気分は?」


そう言って彼女は周りに止められながらも、僕が囚われていた牢にやってきた。

絶望と屈辱の匂いがするこの監獄で、彼女からはふわっと花のようないい匂いがした。

聖女様の第一印象は綺麗な人だった。僕の蛇たちを落ち着かせ、暴走を止めたその姿はまさに聖女と言う言葉に恥じない姿で――僕とは大違いだ。


僕は監獄の中でしゃがみ込んでちらりと聖女様を盗み見た。

盗み見たはずなのに聖女様とばっちり目が合ってしまい、僕はすぐに目を隠す。


「あなた、このままだと死刑なんですけど――何か申し開きはありますの?」


聖女様が僕に視線を合わせて牢の前に膝をつく。

床汚いのに、この人ってためらいがないのかな。

まぁどうでもいいけど。


「……ないです」


「まぁ、珍しい。普通ここで命乞いでもするところですわよ?」


「命乞いなんてする資格はないです」


僕は唇を噛んだ。体に突き刺さった、自分で壊し、刺した誓いの破片の痛みに耐えるために。

これ以上何も聞かないで、いい子じゃない僕を殺してほしかった。

でも彼女はそんな願いをくんではくれなかった。


「どうして?」


肘を自分の膝に立てながら、幼い子供に聞くような声色で、そう当たり前のように聖女様は言った。


「え、なんでって……」


「資格がないなんて、あなたは一体何をしたのかしら?命乞いする資格は生きているものすべてに与えられている資格ですわ」


「だって……だって僕はいい子じゃないから」


「いい子、ね」


聖女様は僕の言葉に引っかかったようでしばらく考えるような仕草を見せた後、ニヤリといたずらっ子のような顔を見せた。

その表情に僕は思わずドキリとした。

――そんな顔もするんだ。


「私ね、こう見えていたずらっ子なんですのよ?」


「え?」


「昔はね、聖女になったっていうのにお祈りが嫌で聖書に落書きしたこともあったし、教会中を走り回ったこともあったわ。あ、それにつまみ食いは日常茶飯事だったわね。こんな私はいい子じゃないから生きてちゃいけないのかしら」


「それは……」


首を傾げながら優しい瞳で聞いてくる聖女様。

その声色はまるで天使のようで……僕が口を開きかけた瞬間だった。


「聖女様‼こんな罪人に構う必要はありません!」


隣に控えていた神官がそう叫んだ。

その勢いに僕は口から出そうだった言葉を引っ込める。

神官はイラついたように聖女の隣に立つと、びしっと僕に指を差した。


「こいつは人を殺そうとした!女神の教えに背いたのです!明日にでも即刻処刑するべきです。でなければ女神さまが我々を見放してしまうかもしれないのですよ!」


女神が見放す。それはつまり世界の破滅を意味する。この世界が破滅に向かっていることは知っていたが、僕にとって、そんなことはどうでもいいことだった。

というか気にする余裕もなかった。

でもこの神官にとってはそうではないのだろう。

未だに見つかっていない伝説上の救世主、彼は女神からの使いだという話もある。

だからこの神官は必死になのだろう、自分が生きるために、いるかもわからない女神の機嫌を損ねないように。


聖女様はその神官を見上げ、すくっと立ったかと思えば――突然手を振り上げた。


パンっ!


乾いた音がこだまする。

聖女様はその神官を叩いたのだ。


「愚か者‼尊い女神の教えを、自分に都合の良い部分だけ切り取り、子供を殺す大義名分としたお前こそ背信者だ!恥を知れ!」


辺りがどよっと騒がしくなる。

僕はというとポカンとしながらその流れを見ていた。

神官が絶望したように膝をついたのを尻目に聖女様はまた僕に向き直った。


「女神の教えにはね、こうも書いてあるのですわ。『命はどんなものよりも尊い。どんなときでも自分が生き抜くために尽力するべき』とね」


「え?」


僕は聖女様の言葉に間抜けな声を出してしまった。


「もし今回の事件が自分の命を、大切なものを守るためにしたことなら、スペロ教の教えに乗っ取ればあなたはいい子なんですのよ」


その言葉に僕は胸を貫かれたような感覚があった。

だって……だってそれなら僕はまだいい子なわけで……。


「あら当たり?」


僕の目からは涙が出てきていた。それを心配するように蛇たちが僕の懐からでてくる。


「あなたは神愛者《ルキア》。私と同じ神様に愛された子。悪い子が神様に愛されるわけがないでしょう?」


「っ!!」


僕はその言葉を聞いて大泣きしてしまった。

あぁ僕はまだいい子だった。芯は壊れていなかった。

聖女様は僕が泣き止むまで側にいてくれた。

その後、僕は改めて事情聴取されて、公爵家に調査隊が入った結果、公爵家の劣悪な環境が明るみになった。僕は聖女様の助言もあり無実放免。その後は聖女様に仕えるべく、教会で守り手になることになった。

ついでに僕をいじめていた公爵家は大きな罰を受けたらしい。

今ではいい気味だと思えるほどにあの頃の記憶は風化したが――。


――


「幸せって本当に長続きしないんだな」


濡れた指先からこぼれたのは涙か、それとも雫か。

僕の神様はもうこの世界にいない。

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サングィスラピスの天秤―救世主が世界を滅ぼすまでの備忘録― 春鏡凪 @tukigakireidesune

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